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5-6・どうして俺を欺こうとしたんだ。

ー/ー



「美穂ちゃんは、自分の病気のことがバレたから俺から離れたのな」
「多分そうだと思います。日之太さんに迷惑かけたくないからそうならないうちに」
「迷惑なんて……思うわけ……」
 グラスにいれたドリンクを見下ろして、俺は呟く。
 美穂ちゃんの病気と過去。拒絶された理由。そこら辺は理解した。しかし大きな問題はひとつも解決していない。
「美穂のこと、もう諦めた方がいいと思います」
 グーっとテーブルを睨んで悩んでいると、奈保ちゃんが申し訳なさそうな声で切り出した。
 声に反応してゆっくり顔をあげると、彼女が悔しそうにギュッとカップを掴み、フルフルと長いまつ毛を震わせている。
「美穂は怖がりなんです。傷つくのが怖くて、誰とも深く関わろうとしない。私だって幼馴染だけど、美穂は自分のことあまり話さないから、結構、初めて聞いたってことも多いし」
 美穂ちゃんが痛みを感じないのは、あくまで身体に関することだ。心は俺達と同じく傷つき、摩耗する。いや、むしろ痛みを感じないからこそ、そういうことに敏感だったのかもしれない。
 だがそうなると関係の修復はますます困難となる。なにせ向こうはそれを望んでいないのだ。関係を切り離して、孤独になることを望んでいる。
 本当に彼女のことを想うなら、ここで素直に身を引くのがいいんじゃないのか。
 俺が一方的に美穂ちゃんのことを好きで、また同じ時間を過ごしたいと思っているだけ。
 それはなんというかあまりにも勝手な想いだ。俺のエゴでしかない。
「今回のことだってそうですよ。原因不明の不眠が治ったと思ったらいきなり知らない男の人と会って寝てるし、結局それで日之太さんのこと好きになってるし」
「……ん? 奈保ちゃんごめん、今なんて言った?」
 奈保ちゃんの言葉に俺はなにかが引っかかるのを感じ取った。手を突き出して彼女を制し、全神経を注ぐ。
「は? いや……だから、日之太さんのこと好きって」
「ううん、そこじゃなくて。その前だ」
「その前って原因不明の不眠が治ったら~のところですか?」
「それだ! そこだよ!」
 バンッとテーブルを叩いて立ち上がる。奈保ちゃんも宗志も驚いて身をのけぞらせ、周囲の客の視線が突き刺さる。
 やばっ、声出し過ぎた。慌てて椅子に座り、体温を下げるためドリンクを飲む。
 ゴクゴクと飲み干して息をつき、改めて奈保ちゃんと向き合う。
「俺は昨日美穂ちゃんと会ったんだ」
 そう告げると驚いたのは奈保ちゃんではなく宗志だった。そりゃそうだ。会う前に大学でしばらく会わないで時間を置いた方がいいと忠告されたばかりだったのだから。
「お前あれほど言ったのに」
「会いに行ったわけじゃない。偶然鉢合わせたんだ。本当だよ。まぁとにかく、そのとき美穂ちゃんは俺に違う生き物なんだって言った。関係ないともね」
 説明をしながら俺は考える。違う生き物。思い返すとあれはきっと無痛症のことだったのだろう。痛みを感じない自分は普通の人とは全く別の生き物なのだと、自分で自分を追い詰めていた。
 しかしそれは大仰な表現だ。せいぜい違う人間くらいだろう。
 そして違う人間がいるなんて当たり前のことだ。無論そんなこと美穂ちゃんも分かっているので言ってもどうしようもないと思うけど。
「違う生き物っていうのはさ、要するに俺が美穂ちゃんに対して無理解だったから出てきた言葉なんだ。ちゃんと分かっていれば、美穂ちゃんは傷つかなかった。俺はそう思う」
「……それが分かったとして、どうするつもりなんだよ。無理解のせいとは言うけど、向こうが知ってほしいなら自分から情報を開示してるだろ」
「それはまぁそうなんだが、でもそういう気持ちと同じくらいちゃんと知ってほしいって気持ちもあると思うんだよ。ていうかこうして知った以上、美穂ちゃんに理解したことを伝えることが大事なんだと思う。それも表面的なことじゃなくて、もっと深いところでの理解が」
「深いところでの理解って、具体的にはなんなんですか」
 俺がぺらぺらと饒舌に喋り出したことに若干引きつつも、奈保ちゃんが首を傾げる。
 俺は「うん」と言って頷き、テーブルに肘をついた。
「美穂ちゃんが眠れない原因だよ。俺も奈保ちゃんも、ヘタすれば美穂ちゃん自身ですらよく分かってないのかもしれない。それを突き止める」
 ポカンと口を開ける二人。驚くのも無理はない。俺は別に医者じゃない。ただの大学生だ。そう簡単にうまくいくとは思えない。
 だがこれしかない。今気持ちがそっぽ向いている彼女を振り向かせるにはこれしかないのだ。
「まずは情報が欲しい。奈保ちゃんはなにか知らない? 眠れなくなった理由」
「えっ……そんなこと言われても……あの、推測になるんですけど。美穂、テニス好きだったから、それ辞めたのが良くないんじゃないかなって」
「テニス……確か中学のとき試合中に怪我して、それを心配したお母さんがって話だっけ?」
「大体合ってます。あのとき美穂は試合中に手首を捻挫して、でも痛みがないからそのことに全く気付いていなくてそのまま試合して。その日の夕方の帰りに気付いたんです。それで、そのとき部員から「どうしてこんなになるまで気付かなかったの!?」って言われて……」
 話を聞いて、その時の光景が思い浮かぶ。きっと美穂ちゃんは傷ついた顔をしていたのだろう。捻挫に気付かなかった自分が周りとは違う生き物なんだと、そう思ったはずだ。
 さもありなんだ。今後もこういうことが起きるかもしれないと思ったら、テニスを続けられないと思うのも理解できる。
「好きだったテニスを自分の身体のせいで辞めることになって、それがストレスに繋がって……みたいな。ことなのかなって」
 ありえなくはない話だ。テニスのための生活習慣も変わっただろうし、そういったところから眠れなくなることもあるだろう。ただ――
「でも結局美穂ちゃんは高校でテニス部に復帰したんでしょ? マネージャーとしてだけど。ある程度は吹っ切れたんじゃないかなぁ」
 疑問を呈したのは宗志だった。そう、確かにプレイヤーとして明日部美穂はなくなってしまったが、それでも好きなテニスに関わる生活をしている。原因に関わっていることはあれど、直接的なものだとは思えない。
 それに、俺が聞いていた話と違う。
『どうだろ……あぁでも、いぬ飼ってました』
 初めて美穂ちゃんとネカフェに行ったときのことだ。
 横になってすぐ眠りに落ちていた彼女へ、俺は不眠の原因に心当たりがないか訊いてみた。強いストレスが引き金になるという話をすると、彼女は突然犬の話をし始めた。
 白くて大きな犬を飼っていた。過去形だ。俺はそこに着目し、かつて大好きだった犬と何らかの出来事があり、別れてしまった。それが不眠の原因ではないかと睨んだ。
 しかし奈保ちゃんの推測もある。俺はひとまず2人に白い犬の話をした。
「――ってことがあったんだけど、奈保ちゃんはなにか知ってる?」
 奈保ちゃんの反応は奇妙だった。驚いてるとか悲しんでいるというより、困惑している。
 今の話になにか不自然なことがあったのか。奈保ちゃんはスマホを取り出して慌ててサッサと画面をスライドさせた。
「美穂が言ってた白くて大きい犬っていうのは、この子です」
 奈保ちゃんが俺達に画面を見せる。真っ白な大型犬。舌が出ていて愛嬌のある顔立ちをしていて、両隣に今より幼い顔立ちの奈保ちゃんと美穂ちゃんが写っている。
 他にも何枚か写真を見せてもらった。どれも幸せそうで、楽しそうな雰囲気が見てとれた。
「こんなにも可愛がってたのに亡くなったとしたら、そりゃあショックだろうなぁ」
 写真を見て宗志が呟く。その言葉に奈保ちゃんはぴくっと反応し、顔を伏せる。
「はい……ショックでした。私も妹もお母さんも泣いて、お父さんが供養してお骨の一部を持ち帰ってきてくれて」
「……奈保ちゃんのお父さんが?」
「はい、この子、うちの子でしたから」
 目を丸くして固まる。どうにか顔を動かして宗志と目を合わせると、同じ顔で驚いていた。
 一体どういうことだ。どうして俺を欺こうとしたんだ。
「あーほら、本当に奈保ちゃんとこの子が好きだったんじゃねぇの。写真だっていっぱいあるし。かなり思い入れはあったんだと思うけど」
「だとしたらそういうはずだ。友達の家の犬だって。しかもあの子、写真はないって言ってた。好きだったら写真くらい残すだろ」
「それに、うちの子が死んじゃったのはもう何年も前です。ここ最近の話じゃありません」
 奈保ちゃんからの補足に俺はますます頭を抱える。だとしたら奈保ちゃんのテニスを辞めるきっかけなのか。いや、あれも結局奈保ちゃんの推測に過ぎない。
 犬の話に関しては嘘だと断定してもいいだろう。だがそうなると一切の手掛かりがなくなる。
 クラゲのときの話もそうだが、美穂ちゃんはどうにも自分の身を守るために嘘を吐く。それが良い悪いはこの際どうでもいい。問題は彼女の発言に信憑性が欠如してしまうということだ。
「ここ最近で思ったけど、美穂ちゃんが眠れなくなったのはほんとにここ最近なんだよね?」
 訊いてきたのは宗志だ。奈保ちゃんはコクコクと頷き、メッセージアプリの画面を開く。
「眠れないって話はそうです。こうやってメッセージも来てましたし、美穂のお母さんからも同じころに最近眠れてないみたいって相談されました」
「それに関しては本当みたいだね。じゃあさ、美穂ちゃんの発言じゃなくて行動、事故とか事件から特定できないかな。ほら、さっきの奈保ちゃんのテニス部の話とか。あれもどっちかというと怪我をしたっていう事故だし。嘘ではないよね」
 宗志の提案に俺は頷く。確かに時期が分かっている以上、原因はそれなりに近いところにあるはず。さらにそれは美穂ちゃん自身の発言ではなく、行動から読み取ることができれば。
 とはいえ、俺が美穂ちゃんと出会ったとき、既に彼女には不眠に悩まされていた。宗志は言わずもがなだ。つまりそれを知るカギは幼馴染である奈保ちゃんしか持っていない。
 ジッと2人で奈保ちゃんを見る。彼女は「うっ」と言って上体を引いて、気まずい顔をしながらカフェラテを飲む。
 ゆっくりと飲み続け、やがて飲み干したのか、カップをテーブルに置いた。
「全然思いつかないです。特にないですよ」
 ガクッと2人で項垂れる。唯一の手がかりだというのにこれでは八方ふさがりだ。
「なんか憶えてることは? 珍しく体調を崩したとか」
「うーん、思い当たることは特に。休みだって毎月の……あっ」
 奈保ちゃんが顔をあげる。なにか大事なことを思い出したみたいな顔で口を手で覆う。
 突然の閃きに俺達はグッと身を乗り出す。
「なんか思い出した?」
「美穂はその、毎月検査があるんです。身体の不調を見つけるためと、身体に変化がないか。無痛症の五型の患者は珍しいので、そうやってデータを取ってるんですよ」
「その日美穂ちゃんは学校来るの?」
「いえ、休みです。ただ、何ヶ月か前に美穂が休んだ日があって、でもその月は数日前に検査をしてたんです」
「月1の検査は済んでたのに休んだのか。なんで休んだか憶えてる?」
「確かそれは――」
 奈保ちゃんが思い出しながら語る。それは言ってしまえば単なる体調不良に過ぎなかったが、俺にとってその話はなんというか、どこかで聞いたことがあるような――いや、むしろ体験したことがあるような、そんな出来事だった。


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「多分そうだと思います。日之太さんに迷惑かけたくないからそうならないうちに」
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 美穂ちゃんの病気と過去。拒絶された理由。そこら辺は理解した。しかし大きな問題はひとつも解決していない。
「美穂のこと、もう諦めた方がいいと思います」
 グーっとテーブルを睨んで悩んでいると、奈保ちゃんが申し訳なさそうな声で切り出した。
 声に反応してゆっくり顔をあげると、彼女が悔しそうにギュッとカップを掴み、フルフルと長いまつ毛を震わせている。
「美穂は怖がりなんです。傷つくのが怖くて、誰とも深く関わろうとしない。私だって幼馴染だけど、美穂は自分のことあまり話さないから、結構、初めて聞いたってことも多いし」
 美穂ちゃんが痛みを感じないのは、あくまで身体に関することだ。心は俺達と同じく傷つき、摩耗する。いや、むしろ痛みを感じないからこそ、そういうことに敏感だったのかもしれない。
 だがそうなると関係の修復はますます困難となる。なにせ向こうはそれを望んでいないのだ。関係を切り離して、孤独になることを望んでいる。
 本当に彼女のことを想うなら、ここで素直に身を引くのがいいんじゃないのか。
 俺が一方的に美穂ちゃんのことを好きで、また同じ時間を過ごしたいと思っているだけ。
 それはなんというかあまりにも勝手な想いだ。俺のエゴでしかない。
「今回のことだってそうですよ。原因不明の不眠が治ったと思ったらいきなり知らない男の人と会って寝てるし、結局それで日之太さんのこと好きになってるし」
「……ん? 奈保ちゃんごめん、今なんて言った?」
 奈保ちゃんの言葉に俺はなにかが引っかかるのを感じ取った。手を突き出して彼女を制し、全神経を注ぐ。
「は? いや……だから、日之太さんのこと好きって」
「ううん、そこじゃなくて。その前だ」
「その前って原因不明の不眠が治ったら~のところですか?」
「それだ! そこだよ!」
 バンッとテーブルを叩いて立ち上がる。奈保ちゃんも宗志も驚いて身をのけぞらせ、周囲の客の視線が突き刺さる。
 やばっ、声出し過ぎた。慌てて椅子に座り、体温を下げるためドリンクを飲む。
 ゴクゴクと飲み干して息をつき、改めて奈保ちゃんと向き合う。
「俺は昨日美穂ちゃんと会ったんだ」
 そう告げると驚いたのは奈保ちゃんではなく宗志だった。そりゃそうだ。会う前に大学でしばらく会わないで時間を置いた方がいいと忠告されたばかりだったのだから。
「お前あれほど言ったのに」
「会いに行ったわけじゃない。偶然鉢合わせたんだ。本当だよ。まぁとにかく、そのとき美穂ちゃんは俺に違う生き物なんだって言った。関係ないともね」
 説明をしながら俺は考える。違う生き物。思い返すとあれはきっと無痛症のことだったのだろう。痛みを感じない自分は普通の人とは全く別の生き物なのだと、自分で自分を追い詰めていた。
 しかしそれは大仰な表現だ。せいぜい違う人間くらいだろう。
 そして違う人間がいるなんて当たり前のことだ。無論そんなこと美穂ちゃんも分かっているので言ってもどうしようもないと思うけど。
「違う生き物っていうのはさ、要するに俺が美穂ちゃんに対して無理解だったから出てきた言葉なんだ。ちゃんと分かっていれば、美穂ちゃんは傷つかなかった。俺はそう思う」
「……それが分かったとして、どうするつもりなんだよ。無理解のせいとは言うけど、向こうが知ってほしいなら自分から情報を開示してるだろ」
「それはまぁそうなんだが、でもそういう気持ちと同じくらいちゃんと知ってほしいって気持ちもあると思うんだよ。ていうかこうして知った以上、美穂ちゃんに理解したことを伝えることが大事なんだと思う。それも表面的なことじゃなくて、もっと深いところでの理解が」
「深いところでの理解って、具体的にはなんなんですか」
 俺がぺらぺらと饒舌に喋り出したことに若干引きつつも、奈保ちゃんが首を傾げる。
 俺は「うん」と言って頷き、テーブルに肘をついた。
「美穂ちゃんが眠れない原因だよ。俺も奈保ちゃんも、ヘタすれば美穂ちゃん自身ですらよく分かってないのかもしれない。それを突き止める」
 ポカンと口を開ける二人。驚くのも無理はない。俺は別に医者じゃない。ただの大学生だ。そう簡単にうまくいくとは思えない。
 だがこれしかない。今気持ちがそっぽ向いている彼女を振り向かせるにはこれしかないのだ。
「まずは情報が欲しい。奈保ちゃんはなにか知らない? 眠れなくなった理由」
「えっ……そんなこと言われても……あの、推測になるんですけど。美穂、テニス好きだったから、それ辞めたのが良くないんじゃないかなって」
「テニス……確か中学のとき試合中に怪我して、それを心配したお母さんがって話だっけ?」
「大体合ってます。あのとき美穂は試合中に手首を捻挫して、でも痛みがないからそのことに全く気付いていなくてそのまま試合して。その日の夕方の帰りに気付いたんです。それで、そのとき部員から「どうしてこんなになるまで気付かなかったの!?」って言われて……」
 話を聞いて、その時の光景が思い浮かぶ。きっと美穂ちゃんは傷ついた顔をしていたのだろう。捻挫に気付かなかった自分が周りとは違う生き物なんだと、そう思ったはずだ。
 さもありなんだ。今後もこういうことが起きるかもしれないと思ったら、テニスを続けられないと思うのも理解できる。
「好きだったテニスを自分の身体のせいで辞めることになって、それがストレスに繋がって……みたいな。ことなのかなって」
 ありえなくはない話だ。テニスのための生活習慣も変わっただろうし、そういったところから眠れなくなることもあるだろう。ただ――
「でも結局美穂ちゃんは高校でテニス部に復帰したんでしょ? マネージャーとしてだけど。ある程度は吹っ切れたんじゃないかなぁ」
 疑問を呈したのは宗志だった。そう、確かにプレイヤーとして明日部美穂はなくなってしまったが、それでも好きなテニスに関わる生活をしている。原因に関わっていることはあれど、直接的なものだとは思えない。
 それに、俺が聞いていた話と違う。
『どうだろ……あぁでも、いぬ飼ってました』
 初めて美穂ちゃんとネカフェに行ったときのことだ。
 横になってすぐ眠りに落ちていた彼女へ、俺は不眠の原因に心当たりがないか訊いてみた。強いストレスが引き金になるという話をすると、彼女は突然犬の話をし始めた。
 白くて大きな犬を飼っていた。過去形だ。俺はそこに着目し、かつて大好きだった犬と何らかの出来事があり、別れてしまった。それが不眠の原因ではないかと睨んだ。
 しかし奈保ちゃんの推測もある。俺はひとまず2人に白い犬の話をした。
「――ってことがあったんだけど、奈保ちゃんはなにか知ってる?」
 奈保ちゃんの反応は奇妙だった。驚いてるとか悲しんでいるというより、困惑している。
 今の話になにか不自然なことがあったのか。奈保ちゃんはスマホを取り出して慌ててサッサと画面をスライドさせた。
「美穂が言ってた白くて大きい犬っていうのは、この子です」
 奈保ちゃんが俺達に画面を見せる。真っ白な大型犬。舌が出ていて愛嬌のある顔立ちをしていて、両隣に今より幼い顔立ちの奈保ちゃんと美穂ちゃんが写っている。
 他にも何枚か写真を見せてもらった。どれも幸せそうで、楽しそうな雰囲気が見てとれた。
「こんなにも可愛がってたのに亡くなったとしたら、そりゃあショックだろうなぁ」
 写真を見て宗志が呟く。その言葉に奈保ちゃんはぴくっと反応し、顔を伏せる。
「はい……ショックでした。私も妹もお母さんも泣いて、お父さんが供養してお骨の一部を持ち帰ってきてくれて」
「……奈保ちゃんのお父さんが?」
「はい、この子、うちの子でしたから」
 目を丸くして固まる。どうにか顔を動かして宗志と目を合わせると、同じ顔で驚いていた。
 一体どういうことだ。どうして俺を欺こうとしたんだ。
「あーほら、本当に奈保ちゃんとこの子が好きだったんじゃねぇの。写真だっていっぱいあるし。かなり思い入れはあったんだと思うけど」
「だとしたらそういうはずだ。友達の家の犬だって。しかもあの子、写真はないって言ってた。好きだったら写真くらい残すだろ」
「それに、うちの子が死んじゃったのはもう何年も前です。ここ最近の話じゃありません」
 奈保ちゃんからの補足に俺はますます頭を抱える。だとしたら奈保ちゃんのテニスを辞めるきっかけなのか。いや、あれも結局奈保ちゃんの推測に過ぎない。
 犬の話に関しては嘘だと断定してもいいだろう。だがそうなると一切の手掛かりがなくなる。
 クラゲのときの話もそうだが、美穂ちゃんはどうにも自分の身を守るために嘘を吐く。それが良い悪いはこの際どうでもいい。問題は彼女の発言に信憑性が欠如してしまうということだ。
「ここ最近で思ったけど、美穂ちゃんが眠れなくなったのはほんとにここ最近なんだよね?」
 訊いてきたのは宗志だ。奈保ちゃんはコクコクと頷き、メッセージアプリの画面を開く。
「眠れないって話はそうです。こうやってメッセージも来てましたし、美穂のお母さんからも同じころに最近眠れてないみたいって相談されました」
「それに関しては本当みたいだね。じゃあさ、美穂ちゃんの発言じゃなくて行動、事故とか事件から特定できないかな。ほら、さっきの奈保ちゃんのテニス部の話とか。あれもどっちかというと怪我をしたっていう事故だし。嘘ではないよね」
 宗志の提案に俺は頷く。確かに時期が分かっている以上、原因はそれなりに近いところにあるはず。さらにそれは美穂ちゃん自身の発言ではなく、行動から読み取ることができれば。
 とはいえ、俺が美穂ちゃんと出会ったとき、既に彼女には不眠に悩まされていた。宗志は言わずもがなだ。つまりそれを知るカギは幼馴染である奈保ちゃんしか持っていない。
 ジッと2人で奈保ちゃんを見る。彼女は「うっ」と言って上体を引いて、気まずい顔をしながらカフェラテを飲む。
 ゆっくりと飲み続け、やがて飲み干したのか、カップをテーブルに置いた。
「全然思いつかないです。特にないですよ」
 ガクッと2人で項垂れる。唯一の手がかりだというのにこれでは八方ふさがりだ。
「なんか憶えてることは? 珍しく体調を崩したとか」
「うーん、思い当たることは特に。休みだって毎月の……あっ」
 奈保ちゃんが顔をあげる。なにか大事なことを思い出したみたいな顔で口を手で覆う。
 突然の閃きに俺達はグッと身を乗り出す。
「なんか思い出した?」
「美穂はその、毎月検査があるんです。身体の不調を見つけるためと、身体に変化がないか。無痛症の五型の患者は珍しいので、そうやってデータを取ってるんですよ」
「その日美穂ちゃんは学校来るの?」
「いえ、休みです。ただ、何ヶ月か前に美穂が休んだ日があって、でもその月は数日前に検査をしてたんです」
「月1の検査は済んでたのに休んだのか。なんで休んだか憶えてる?」
「確かそれは――」
 奈保ちゃんが思い出しながら語る。それは言ってしまえば単なる体調不良に過ぎなかったが、俺にとってその話はなんというか、どこかで聞いたことがあるような――いや、むしろ体験したことがあるような、そんな出来事だった。