「よく来たね」
私は満面の笑みで瀬川だった女を迎えた。
ふっ、と動いた風が、彼女が頭を下げたことを教えてくれた。
「旦那様。末長うお頼み申します」
以前と変わらぬ低く落ち着いた声だが、廓言葉ではないところが実に新鮮だ。
「こちらこそ、宜しく頼むよ」
私は彼女の名を呼ぼうとして――その名を知らぬことにようやく思い至る。
「あっ……そういえば、お前の本当の名を聞いていなかったね」
私の言葉に、彼女は「ふ」と小さく笑った。
そして、
「昔の名前は忘れたので、好きなように呼んで下さいまし」
さらりとした声で、そんなことを言う。
私は考えに考えた末、彼女のことを「およう」と呼ぶことにした。
私は、おようを迎えるにあたり、万全の体制を整えた。
まず、彼女が住まう部屋を改装し、そこには方々から取り寄せた上質な家具や置物を贅沢に並べ立てた。
――花魁だった女だ。下働きの者に何かと世話をしてもらうのが当たり前であっただろう。
そう考えた私は、彼女の世話をする品の良い奥女中を新たに雇い入れた。
そしてこの日。呉服屋と小間物屋に店で一番のものを持参させ、広間一杯にその品々を並べさせたものだ。
広間に入ったところで、おようの足が止まった。
「あ……」
戸惑ったような小さな吐息に、私は優しく彼女の背に手を回す。
「気に入ったものがあれば、遠慮なく言いなさい。全部買ってあげるよ」
私の言葉に、おようは無言だった。
やがて、おようの身体から、以前感じたあの冷淡な香りが漂ってきた。
――吉原で贅を尽くした贈り物をした時と同じ種類の冷たさだ。
「……っ」
戦慄した私に、おようは「ふ」と物憂げに息をついた。
そして、
「このような品は要りません」
きっぱりと、はねつけてきた。
「何故かね?店の者には選りすぐりの物を持って来させたのだよ」
私は心に渦巻く動揺を押し隠して、落ち着いた声音で問い質した。
おようは小さく笑って、こう言った。
「もう着飾るのは、こりごりです」
「!」
私は息を呑んだ。
そして、今更ながらに思い当たる。
おようだって、他の遊女たちと同じく、自ら好き好んで吉原という苦界に身を投じたわけではないことに。
「およう。では、お前が欲しいものは何だね?」
私は掠れた声で、初めておようの意思を尋ねた。
すると、おようは、ふっ、と優しく華やいで、
「当たり前の女の暮らしです」
とだけ、言った。
その言葉の通り――。
おようはここでの暮らしに慣れてくると、炊事や洗濯、掃除に針仕事など、それこそ他の者に任せておけばよいようなことをやりたがった。
たすき掛け姿で下男下女に混ざって働くその様に、遂に私は小言を口にした。
「およう、いい加減になさい。お前はそのようなことをしなくてもいいんだよ」
すると、おようは、ふわっ、と優しい匂いをさせて笑う。
「吉原から出たら、やりたいと思っていたんです。やらせて下さいな」
「……」
私は面食らって二の句が告げなかった。
当代一の花魁・瀬川がこんなことに憧れていたとは、思いもよらなかったのだ。
おようが充実した毎日を過ごしている一方、彼女から何も求められないままの私は複雑な思いだ。
だってそうだろう。鳥山検校ともあろうものが、手に入れた女に何もしてやれないとは、あまりにも情けない話ではないか。
――さて、どうしたものか。
私は腕を組んで、大いにこの禿頭を悩ませる。
全く、金にも贅沢にも靡かない女は厄介だ。
考えに考えた末、私はおようを江戸の名所に連れ出すことにした。
今時分だと、丁度梅が見頃を迎える筈だ。ならば、亀戸の天満宮辺りか。
果たして。
おようは、喜んでついてきた。
「旦那様!早く早く!」
いつもの彼女とは打って変わったはしゃぎように、私は大いに驚いたものだ。
よくよく考えてみれば、おようは長いこと吉原の籠の鳥だった女だ。
そんな彼女にとっての江戸の名所は、噂で聞く程度のものだったろう。
――もっと早く気づいてやるべきだったか。
私はおように手を引かれながら、自らの迂闊さを率直に恥じている。
「まあ……梅が沢山。なんて奇麗……」
おようの唇から素直な感動が漏れる。
そして、
「旦那様。ここに赤い梅が沢山咲いています」
おようは私の手を取ると、そっとその花に触れさせてくれた。
おようはそんな風にして、咲き誇る梅の美しさを目の見えぬ私に精一杯伝えてくれた。
――なんてことだ。
私は、ふと口元に笑みを乗せる。
そもそも、今日はおようを喜ばせたくてここに連れて来たというのに、これでは全くもってあべこべではないか。
「およう」
「はい」
「全く……お前は、何という女なのだ」
私は、おようの手を強く握りしめた。