「……なんとか、片付いたな」
ひとり暮らしの部屋でパソコンに表示されている時計を見る。
時刻は現在午前8時。タイムリミットまで残り4時間。なんとか間に合ったようだ。
大学からの帰り道、偶然駅で美穂ちゃんと出会い、どうにもならなくて仕方なく帰宅した。
もう泥のように眠りたかったけど、七葉ちゃんから頼まれていた論文を片付けねばならない。
ゆえに帰ってから眠ることなくひたすら作業に没頭し、ようやく終わったのだが。
「ねむた……いやでも……」
今寝れば絶対寝過ごす。このままサッとシャワーでも浴びてそのまま大学へ行ってしまおう。
それにしても疲れた。身体も心も摩耗している。
階段をのぼっておりて、全力疾走して、挙句の果てには徹夜での作業だ。随分無茶な身体の使い方をしてしまった。
だけどなにより効いたのは美穂ちゃんとの会話だ。真正面から拒絶され、俺は彼女を引き留めるどころか、言い返すことすらできなかった。
俺達の関係は、このまま終わってしまうのだろうか。
シャワーを浴びるため乱雑に服を脱ぎ捨ててパンツだけになって洗面所へと向かう。
「……関係ない、か」
鏡に映った自分を見て呟いた言葉は換気扇の中へ消えていった。
彼女からの拒絶は辛い。少し前まで仲良くしてて、文字通り一緒に寝る仲だったというのに。
でも、そんなことよりも、拒絶したはずの彼女自身が俺よりも傷ついているように見えたから、素直に諦めきれないでいる。
あの子はこれからどうやって眠るのだろう。真っ暗な部屋のベッドの上でジッとして、目をつぶっても眠れない毎日が続くのだろうか。
そうやって、眠れない夜を過ごして、またどこかで真っ白な顔をしてそのまま倒れてしまうんじゃないか。そうなったら今度こそおしまいだ。
洗面台に手をついて頭を下げ、目をつぶると彼女の顔が浮かんでくる。
笑っている顔、喜んでいる顔、ちょっと拗ねてる顔。そして、彼女の眠っている顔。
俺の手を握り、小さな子供のように身体を丸めて眠る彼女。小さくて、柔らかくて、温かくて。彼女といるときだけは、ザワついていた心も鎮まっていたし、空っぽの自分がゆっくりと満たされていく気がした。
そうだ、最初から全部分かってたんじゃないか。
美穂ちゃんが傍で眠ってくれることで、俺は救われてきたんだ。
「どうにかして……また会えないかな」
まるでストーカーみたいなことをぼやき、ほとんど裸の状態で顔をあげて歯ブラシをとる。
鏡に映る元気のない自分を力なく睨みながら歯を磨く。
「……違う生き物」
そう言って、美穂ちゃんは俺から離れていった。
あれはどういう意味の言葉だったのだろう。
違う生き物、そう言われれば確かにそうだ。年齢も性別も違う。体型も性格も、これまで歩んできた人生も全く違うものだ。
そもそも、俺は美穂ちゃんのことをよく知らない。彼女のことが好きで、ただ一緒にいるだけで良かったから、興味を持とうと思っていなかった。
いや、もしかしたら俺は怖かったのかもしれない。
他人の中へ踏み込むのが怖かった。傷つきたくなくて当たり障りのない優しい時間を選んだ。
思い返せば最初からそうだった。どうして美穂ちゃんは眠れないのか。ちゃんと原因を探って、追及するべきだったのに、俺は彼女に触れられるのが嬉しくて、俺の傍で寝ている彼女の寝顔が可愛くて、問題を先延ばしにした。
美穂ちゃんが眠れていないのは彼女自身の問題だが、俺にだってできることがあるはずだ。
とにかくもう一度会わなければ。会って、話を聞いて――ブーッと洗面所の外からスマホが振動する音が聴こえてきた。
着信を知らせるバイブレーション。こんなときに誰なんだ。歯ブラシを置いて洗面所を出て、テーブルの上に置いていたスマホを手に取る。
「……もしもし?」
『おー出た出た。おはよーサコッシュ』
着信相手は宗志だった。友人からのモーニングコールにげんなりしてしまう。
「なに? 悪いけど今忙しいんだ」
『七葉ちゃんからの依頼終わった? まだ修羅場?』
「ついさっき終わったよ。これから持っていくんだ」
『おーやるじゃん。じゃあさ、そのあと飯でも行かない?』
「飯って……お前の奢り?」
『いや、サコッシュの』
一旦会話を中断し、俺はスマホの画面をジト目で睨む。
「なんで俺が奢んなきゃいけないんだよ」
『お~? いいのかそんなこと言って。スペシャルゲストも来るのに?』
「スペシャルゲスト?」
『そっ、まぁそういうことだから、今日の夕方な。場所は後で連絡するわ』
「おい、まだ行くとは――」
プツッと切れる音が鳴り、通話が終了する。
スペシャルゲストだなんて、見当がつかない。
美穂ちゃんじゃないことは確かだ。なにせ俺がダメだったんだから、宗志の呼びかけで来るわけがない。
「……違うよな、絶対」
スマホをテーブルに置いて、ひとり部屋で呟く。
これでもしも美穂ちゃんだったら多分俺は立ち直れない。
絶対違うはず。自分の心に言い聞かせ、俺はシャワーを浴びるためバスルームへ向かった。