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5-1・本当にそれでいいのだろうか。

ー/ー



 あの日以来美穂ちゃんとは連絡がとれない。
 こっちからメッセージを送っても、電話をかけても反応なし。もうお手上げだ。
 どうしてあんなふうに拒絶されてしまったのだろう。
 俺は知らないうちに彼女の地雷を踏み抜いてしまった。それも1回だけじゃない。あの感じからすると、何度かそういうことがあって、とうとう爆発してしまったのかもしれない。
 察するに美穂ちゃんはなにか特別な事情を抱えている。これまで彼女が自分で言ってたのは不眠という話だけで、それ以外の不調は一度も訴えてこなかった。
 しかし冷静になって考えればそれも当然だ。俺は美穂ちゃんの保護者じゃないのだから、わざわざ言う必要はない。
 だけど、言ってくれても良かったんじゃないかとも思ってしまう。
 美穂ちゃんにとって俺なんてただの安眠枕くんだけど、俺にとって彼女はそれだけじゃない。こんな形でなにもかもなくなってしまうのは悲しい。
 また会って、せめて話だけでもしたい。彼女に何があったのか知りたいんだ。
「――で、頼んでた論文は?」
 頭上から声が聴こえ、俺は「はれ?」と声を出した。
 近くに誰かいるのか。そもそもここはどこなんだ。ていうか俺さっきまでなにしてたっけ。
 キョロキョロとその場で顔を動かす。大学構内のいつものラウンジ。丸テーブルの反対側には宗志が座っていて、はわわわと口に手をかぶせて戦慄いている。
 一体どうしたんだ。そういえばさっきの声は宗志じゃなかった。だとしたら一体誰が――ふと顔をあげると、そこには激烈に不機嫌フェイスの徒町七葉ちゃんが立っていた。
 これはマズい。あからさまに怒っている。しかも宗志の表情から察するに、彼女にこんな顔をさせている原因はとうやら俺にあるらしい。
 ここにきてようやく良くない状況だと理解する。だが、これを覆す方法は全く思いつかない。
「えっと……論文、論文ですよね? 論文……ちょっと待ってもらってもいいですか?」
 俺はにへらっと力のない笑みを浮かべ、必死にバッグを漁る。
 論文、とひとくちに言ってもそれは様々だ。七葉ちゃんの講義での提出物の小論か、頼まれていた邦訳する論文か、どっちにしても出来ていない。
 どうする、どうすればこの窮地を乗り越えられる。ここはもう素直に謝るべきなのか。
「あ、あの……徒町先生……」
「なに?」
「その……論文なんですが、まだ片付いてなくて……」
「期日は今日だけど、なにやってんの?」
「す、すいません……その……あ、明後日には、必ず」
「明後日?」
「明日までに仕上げます。なので、もう少しだけお待ちいただければ……」
 氷のような冷たい視線をぶつけてくる七葉ちゃん。ドキドキしながら返事を待っていると、やがて、はぁーっと大きなため息を吐いた。
「明日の昼12時まで。それ以上は待たない」
 ピシャリと、刻限を告知され、俺は「……ひゃい」と弱弱しい声で返事する。
 そして七葉ちゃんは俺を一瞥し、カツカツと足音を鳴らしながら去って行く。
 滞留していた空気がようやく流れだし、身体にドッと汗が流れる。
「サコッシュ、マジでヤバかったな」
 静かなるハリケーンが過ぎ去ったところで、宗志が話しかけてきた。
 俺は額に浮かんだ汗を拭いながらふぅーっと息を吐く。
「あぁ……なぁ、七葉ちゃんっていつからいたんだ? 全然、記憶がないんだが」
 今更な問いかけに宗志はうわぁっという顔をする。確かいつも通りラウンジにやってきて、色々話をして、この前の美穂ちゃんとのデートの話になって、事の顛末をかいつまんで話して――それで、どうなったんだ。
「お前が美穂ちゃんと連絡つかないって話して、どうすればいいのかなーって言って急に落ちていってさ、そしたら、七葉ちゃんが来たんだよ。お前に話しかけて、お前もなんかぼんやりしながらも一応返事はしてて……って感じかな」
「……なるほど」
 七葉ちゃんが来たタイミングは相変わらず思い出せないが、なぜこうなったのかは大体理解できた。そうだ、結局美穂ちゃんとのこともなにも解決してないじゃないか。
 テーブルに置いたスマホで時間を確認する。今から駅に向かえば彼女に会えるかもしれない。
 会って話をすれば、なにか進展があるかも。たとえそうならなかったとしても、どうしてあんなにも拒絶されたのかだけでも分かれば――
「やめとけよ、サコッシュ」
 彼女と会う算段を考えていると宗志が思考に割り込むような鋭さで切り込んできた。
 ムッとして顔をあげると、友人は呆れたような顔で俺を見ている。
「今美穂ちゃんのこと考えてたろ? 落ち着けって、冷静になれ。お前も美穂ちゃんも、少しは落ち着いて考える時間が必要だよ」
「いや俺は別に」
「冷静だって? 頭ん中あの子のことでいっぱいのくせに。いいか? そんなのめり込むな。気持ちは分かるけど、これが向こうの問題だとしたらお前にはどうにもできないよ」
「それは……そうかもしれないけど、なにか助けにはなれるかもしれないだろ」
「だからのめり込むなって。夢中になるな。近づきすぎたら一緒に倒れるだけだ。もっと距離をとって考えた方がいい」
「……そんな器用なことできるかよ」
「できなくてもやるんだよ。無理して追いかけても逃げられるだけだ」
 宗志の言うことは正しい。問題を解決できるのはいつだって本人だけだ。
 だから今は、彼女が落ち着いて、向こうから連絡が来るのを待つしかないのかもしれない。
 分かってる。分かっているけれど、だからといってこのまま何もしないでいいのだろうか。
「美穂ちゃんのこと、好きなんだろ。だったら、彼女のこと信じてやれよ。少しでいいから時間を置いて、待ってやれ」
 宗志の言葉に俺はただ黙って眉間にしわを寄せる。
 本当にそれでいいのだろうか。そりゃあそっちのほうが楽だし、向こうも急かされることはないだろうけど、なんだかそれってひどく『大人』の対応だ。
 確かに俺はもう大人だ。成人済みで、当然世間は子ども扱いしてくれない。
 ならば大人としての振る舞いをするべき。とでもいうのか。
『なんか、大人の男の人みたい』
 美穂ちゃんの言葉が不意に蘇る。
 そうだ、あのときも彼女は俺の対応に恥ずかしがっていた。そしてデートのときも。俺が背伸びをして大人っぽく振舞っていたら変だと言っていた。
 それを踏まえると、悠長に構えていて良いのだろうか。
 大人として距離を取りつつ見守るか、あえてぶつかっていくか――どっちが正しいのか分からなくなってきた。
「ていうか、七葉ちゃんに任された論文は? 明日までに終わらせなきゃいけないんだろ?」
「……分かってるよ」
 視線を逸らしながら小さい声で返事をする。くそっ、せっかく頭の中から排除できてたのに。
 なにをするにもまずは目の前の問題を解決するしかない。家に置いてきた論文を思い出し、俺は背もたれに寄りかかり天井を仰いだ。


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 こっちからメッセージを送っても、電話をかけても反応なし。もうお手上げだ。
 どうしてあんなふうに拒絶されてしまったのだろう。
 俺は知らないうちに彼女の地雷を踏み抜いてしまった。それも1回だけじゃない。あの感じからすると、何度かそういうことがあって、とうとう爆発してしまったのかもしれない。
 察するに美穂ちゃんはなにか特別な事情を抱えている。これまで彼女が自分で言ってたのは不眠という話だけで、それ以外の不調は一度も訴えてこなかった。
 しかし冷静になって考えればそれも当然だ。俺は美穂ちゃんの保護者じゃないのだから、わざわざ言う必要はない。
 だけど、言ってくれても良かったんじゃないかとも思ってしまう。
 美穂ちゃんにとって俺なんてただの安眠枕くんだけど、俺にとって彼女はそれだけじゃない。こんな形でなにもかもなくなってしまうのは悲しい。
 また会って、せめて話だけでもしたい。彼女に何があったのか知りたいんだ。
「――で、頼んでた論文は?」
 頭上から声が聴こえ、俺は「はれ?」と声を出した。
 近くに誰かいるのか。そもそもここはどこなんだ。ていうか俺さっきまでなにしてたっけ。
 キョロキョロとその場で顔を動かす。大学構内のいつものラウンジ。丸テーブルの反対側には宗志が座っていて、はわわわと口に手をかぶせて戦慄いている。
 一体どうしたんだ。そういえばさっきの声は宗志じゃなかった。だとしたら一体誰が――ふと顔をあげると、そこには激烈に不機嫌フェイスの徒町七葉ちゃんが立っていた。
 これはマズい。あからさまに怒っている。しかも宗志の表情から察するに、彼女にこんな顔をさせている原因はとうやら俺にあるらしい。
 ここにきてようやく良くない状況だと理解する。だが、これを覆す方法は全く思いつかない。
「えっと……論文、論文ですよね? 論文……ちょっと待ってもらってもいいですか?」
 俺はにへらっと力のない笑みを浮かべ、必死にバッグを漁る。
 論文、とひとくちに言ってもそれは様々だ。七葉ちゃんの講義での提出物の小論か、頼まれていた邦訳する論文か、どっちにしても出来ていない。
 どうする、どうすればこの窮地を乗り越えられる。ここはもう素直に謝るべきなのか。
「あ、あの……徒町先生……」
「なに?」
「その……論文なんですが、まだ片付いてなくて……」
「期日は今日だけど、なにやってんの?」
「す、すいません……その……あ、明後日には、必ず」
「明後日?」
「明日までに仕上げます。なので、もう少しだけお待ちいただければ……」
 氷のような冷たい視線をぶつけてくる七葉ちゃん。ドキドキしながら返事を待っていると、やがて、はぁーっと大きなため息を吐いた。
「明日の昼12時まで。それ以上は待たない」
 ピシャリと、刻限を告知され、俺は「……ひゃい」と弱弱しい声で返事する。
 そして七葉ちゃんは俺を一瞥し、カツカツと足音を鳴らしながら去って行く。
 滞留していた空気がようやく流れだし、身体にドッと汗が流れる。
「サコッシュ、マジでヤバかったな」
 静かなるハリケーンが過ぎ去ったところで、宗志が話しかけてきた。
 俺は額に浮かんだ汗を拭いながらふぅーっと息を吐く。
「あぁ……なぁ、七葉ちゃんっていつからいたんだ? 全然、記憶がないんだが」
 今更な問いかけに宗志はうわぁっという顔をする。確かいつも通りラウンジにやってきて、色々話をして、この前の美穂ちゃんとのデートの話になって、事の顛末をかいつまんで話して――それで、どうなったんだ。
「お前が美穂ちゃんと連絡つかないって話して、どうすればいいのかなーって言って急に落ちていってさ、そしたら、七葉ちゃんが来たんだよ。お前に話しかけて、お前もなんかぼんやりしながらも一応返事はしてて……って感じかな」
「……なるほど」
 七葉ちゃんが来たタイミングは相変わらず思い出せないが、なぜこうなったのかは大体理解できた。そうだ、結局美穂ちゃんとのこともなにも解決してないじゃないか。
 テーブルに置いたスマホで時間を確認する。今から駅に向かえば彼女に会えるかもしれない。
 会って話をすれば、なにか進展があるかも。たとえそうならなかったとしても、どうしてあんなにも拒絶されたのかだけでも分かれば――
「やめとけよ、サコッシュ」
 彼女と会う算段を考えていると宗志が思考に割り込むような鋭さで切り込んできた。
 ムッとして顔をあげると、友人は呆れたような顔で俺を見ている。
「今美穂ちゃんのこと考えてたろ? 落ち着けって、冷静になれ。お前も美穂ちゃんも、少しは落ち着いて考える時間が必要だよ」
「いや俺は別に」
「冷静だって? 頭ん中あの子のことでいっぱいのくせに。いいか? そんなのめり込むな。気持ちは分かるけど、これが向こうの問題だとしたらお前にはどうにもできないよ」
「それは……そうかもしれないけど、なにか助けにはなれるかもしれないだろ」
「だからのめり込むなって。夢中になるな。近づきすぎたら一緒に倒れるだけだ。もっと距離をとって考えた方がいい」
「……そんな器用なことできるかよ」
「できなくてもやるんだよ。無理して追いかけても逃げられるだけだ」
 宗志の言うことは正しい。問題を解決できるのはいつだって本人だけだ。
 だから今は、彼女が落ち着いて、向こうから連絡が来るのを待つしかないのかもしれない。
 分かってる。分かっているけれど、だからといってこのまま何もしないでいいのだろうか。
「美穂ちゃんのこと、好きなんだろ。だったら、彼女のこと信じてやれよ。少しでいいから時間を置いて、待ってやれ」
 宗志の言葉に俺はただ黙って眉間にしわを寄せる。
 本当にそれでいいのだろうか。そりゃあそっちのほうが楽だし、向こうも急かされることはないだろうけど、なんだかそれってひどく『大人』の対応だ。
 確かに俺はもう大人だ。成人済みで、当然世間は子ども扱いしてくれない。
 ならば大人としての振る舞いをするべき。とでもいうのか。
『なんか、大人の男の人みたい』
 美穂ちゃんの言葉が不意に蘇る。
 そうだ、あのときも彼女は俺の対応に恥ずかしがっていた。そしてデートのときも。俺が背伸びをして大人っぽく振舞っていたら変だと言っていた。
 それを踏まえると、悠長に構えていて良いのだろうか。
 大人として距離を取りつつ見守るか、あえてぶつかっていくか――どっちが正しいのか分からなくなってきた。
「ていうか、七葉ちゃんに任された論文は? 明日までに終わらせなきゃいけないんだろ?」
「……分かってるよ」
 視線を逸らしながら小さい声で返事をする。くそっ、せっかく頭の中から排除できてたのに。
 なにをするにもまずは目の前の問題を解決するしかない。家に置いてきた論文を思い出し、俺は背もたれに寄りかかり天井を仰いだ。