表示設定
表示設定
目次 目次




番外編・ぐっすり眠ったその日のこと

ー/ー



 寝不足で足元がふらつく日々から逃れたくて、ありとあらゆる方法を試した。
 だけどどれもこれも効果はなくて、疲れと苛立ちばかりが募っていく。
 日之太さんと出会ったのは、そんな日々がしばらく続いた夕方だった。
 電車で隣に座ると、彼の匂いがかすかに漂ってきて、温かくて、柔らかくて、ささくれ立っていた心が不思議と鎮まっていくような気がした。
 試しに目をつぶってみると、彼の匂いがさっきよりも鮮明に感じられる。汗の匂い、制汗スプレーの匂い、下げた瞼がなかなか上がらない。
 不快ではない。むしろ彼の匂いや身体全体から感じる温かさはどこか安心できて、私の意識はみるみるうちに眠りの森へと沈んでいた。
「安心する匂いねぇ……」
 日之太さんと出会った翌日、定期健診で病院へ行ったとき、先生に日之太さんの話をしてみた。最近眠れなかったのに、この人の近くだと眠れたのだと。
「フェロモン、とか? なんて、分かんないけど」
 自分で言っておきながら先生は苦笑いを浮かべる。フェロモン、聞いたことあるような、ないような。なんかうさん臭い響き。
「私は専門じゃないからハッキリしたことは言えないけど、まぁ……ない話ではないよ。フェロモンっていうのは生理活性物質、主に刺激や発育を誘発させるためのもので、本来匂いはしないものなの。じゃあなんで美穂ちゃんは安心する匂いだって思ったかというと、多分フェロモンが作用してそう思わせられてるってことかもね」
 先生の説明に私は首をかしげる。フェロモンのせいでそう思ってるってどういうこと。私の身体というか心はそんな簡単に操られちゃうものなの。
「まっ、人間なんて遺伝子を運ぶための乗り物だし、感情なんて脳の電気信号による化学物質に過ぎない。フェロモンも同じ。同種の個体とスムーズに交配するための暗号キーのようなもの。そういう意味では同種の特定の個体にのみ作用するフェロモンがあってもおかしくはない」
 知らんけど、と最後に言ってカルテを打ち込む先生。正直よく分かんなかったけど、私と日之太さんの出会いは全くの偶然で、私が日之太さんの傍にいると安心してよく眠れるというのはなにか不思議な理由があるらしい。
 だとしたら、せっかく巡り合わせたチャンスだ。無駄にはできない。
 そう判断した私はいつかまた会えたら話しかけようと決意しつつ電車に乗っていたのだが、なんとそこでまた日之太さんと出会ったのだ。
 私は私の安眠のため、日之太さんへ必死にアプローチした。
 大人の男の人と喋るのなんてあまりないから緊張したけど、彼は私が思っていたよりも優しい人で、ほとんど騙すような形で連絡先を手に入れた。
 そこから私は日之太さんを利用して、安眠できる日々を手に入れた。最初にフェロモンの話をされたときはちょっとびっくりしたけど、知らないフリをした。無知を装った方が可愛がってくれると思ったからだ。
 そうやって、私は日之太さんに気に入ってもらうため、出来る限り愛らしい自分を演じた。
 全部、自分のためだ。私の身体のために、日之太さんを利用したのだ。
 日之太さんは優しかった。見ず知らずの私を気遣ってくれたし、彼には何のメリットもないのに私の安眠枕となってくれた。お金も場所も時間も、全部私のために用意してくれた。
 優越感に多幸感、それと少しの猜疑心――彼はあまりにも優しすぎる。
 ある日、日之太さんからテニスを辞めた理由を聞いた。
 イップスによる引退。プロの道を諦めた彼は空っぽになった。
 私は彼が優しすぎる理由を知った。空っぽだから、自分にやりたいことはなにもないから、だから私の無茶なお願いにも応えてくれたのだ。
『今はいいかな。少し寂しいけど、それでいいんだよ』
 そう言って笑う日之太さん。少しなんかじゃない、すごく寂しそうだった。
 どうしてそんな顔するの。貴方はこんなにも優しくて、温かくていい匂いがするのに、空っぽなんかじゃないのに――気付けば、私は日之太さんにキスをしてしまった。
 利用するつもりだった。本気じゃなかった。ある程度良くしてもらったら、有耶無耶にして、この変な関係を解消しようと思っていた。それなのに――なんでマジになっちゃってんの。
 なんで本気で好きになっちゃってんの私。
 しかもいきなりデート誘ってきたし。めちゃくちゃキモい文で冗談かと思ったらやっぱりそうで、だけどデートの誘い自体は本当で、それに喜んじゃってる私がいるし。
 日之太さんは優しくって、大人の男の人みたいに余裕があって、だけどそれは背伸びした姿で、それもまたなんか可愛くて、この人なら、もしかしたらって――勘違いしちゃったの。
 でもそれは間違いだった。日之太さんはを分かっているようで、なにも分かってなかった。
 痛いときは痛いって言ってもいいんだよ――ぐるぐると彼の言葉が頭の中で巡る。
 じゃあ痛くないときは。なにも感じないのにボロボロのときはどうすればいいの。
 痛いって言えない私はまるで欠陥製品だ。私と日之太さんは、違う人間どころか違う生き物なのかもしれない
 友達だと思ってた子達が一斉に引いていったあのときの光景を思い出す。
 そしてあのときの日之太さんの顔を思い出す。私が拒絶したときの、あの顔。
 もう日之太さんとは会えない。だって私達は違う生き物だから。


スタンプを贈って作者を応援しよう!



みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 寝不足で足元がふらつく日々から逃れたくて、ありとあらゆる方法を試した。
 だけどどれもこれも効果はなくて、疲れと苛立ちばかりが募っていく。
 日之太さんと出会ったのは、そんな日々がしばらく続いた夕方だった。
 電車で隣に座ると、彼の匂いがかすかに漂ってきて、温かくて、柔らかくて、ささくれ立っていた心が不思議と鎮まっていくような気がした。
 試しに目をつぶってみると、彼の匂いがさっきよりも鮮明に感じられる。汗の匂い、制汗スプレーの匂い、下げた瞼がなかなか上がらない。
 不快ではない。むしろ彼の匂いや身体全体から感じる温かさはどこか安心できて、私の意識はみるみるうちに眠りの森へと沈んでいた。
「安心する匂いねぇ……」
 日之太さんと出会った翌日、定期健診で病院へ行ったとき、先生に日之太さんの話をしてみた。最近眠れなかったのに、この人の近くだと眠れたのだと。
「フェロモン、とか? なんて、分かんないけど」
 自分で言っておきながら先生は苦笑いを浮かべる。フェロモン、聞いたことあるような、ないような。なんかうさん臭い響き。
「私は専門じゃないからハッキリしたことは言えないけど、まぁ……ない話ではないよ。フェロモンっていうのは生理活性物質、主に刺激や発育を誘発させるためのもので、本来匂いはしないものなの。じゃあなんで美穂ちゃんは安心する匂いだって思ったかというと、多分フェロモンが作用してそう思わせられてるってことかもね」
 先生の説明に私は首をかしげる。フェロモンのせいでそう思ってるってどういうこと。私の身体というか心はそんな簡単に操られちゃうものなの。
「まっ、人間なんて遺伝子を運ぶための乗り物だし、感情なんて脳の電気信号による化学物質に過ぎない。フェロモンも同じ。同種の個体とスムーズに交配するための暗号キーのようなもの。そういう意味では同種の特定の個体にのみ作用するフェロモンがあってもおかしくはない」
 知らんけど、と最後に言ってカルテを打ち込む先生。正直よく分かんなかったけど、私と日之太さんの出会いは全くの偶然で、私が日之太さんの傍にいると安心してよく眠れるというのはなにか不思議な理由があるらしい。
 だとしたら、せっかく巡り合わせたチャンスだ。無駄にはできない。
 そう判断した私はいつかまた会えたら話しかけようと決意しつつ電車に乗っていたのだが、なんとそこでまた日之太さんと出会ったのだ。
 私は私の安眠のため、日之太さんへ必死にアプローチした。
 大人の男の人と喋るのなんてあまりないから緊張したけど、彼は私が思っていたよりも優しい人で、ほとんど騙すような形で連絡先を手に入れた。
 そこから私は日之太さんを利用して、安眠できる日々を手に入れた。最初にフェロモンの話をされたときはちょっとびっくりしたけど、知らないフリをした。無知を装った方が可愛がってくれると思ったからだ。
 そうやって、私は日之太さんに気に入ってもらうため、出来る限り愛らしい自分を演じた。
 全部、自分のためだ。私の身体のために、日之太さんを利用したのだ。
 日之太さんは優しかった。見ず知らずの私を気遣ってくれたし、彼には何のメリットもないのに私の安眠枕となってくれた。お金も場所も時間も、全部私のために用意してくれた。
 優越感に多幸感、それと少しの猜疑心――彼はあまりにも優しすぎる。
 ある日、日之太さんからテニスを辞めた理由を聞いた。
 イップスによる引退。プロの道を諦めた彼は空っぽになった。
 私は彼が優しすぎる理由を知った。空っぽだから、自分にやりたいことはなにもないから、だから私の無茶なお願いにも応えてくれたのだ。
『今はいいかな。少し寂しいけど、それでいいんだよ』
 そう言って笑う日之太さん。少しなんかじゃない、すごく寂しそうだった。
 どうしてそんな顔するの。貴方はこんなにも優しくて、温かくていい匂いがするのに、空っぽなんかじゃないのに――気付けば、私は日之太さんにキスをしてしまった。
 利用するつもりだった。本気じゃなかった。ある程度良くしてもらったら、有耶無耶にして、この変な関係を解消しようと思っていた。それなのに――なんでマジになっちゃってんの。
 なんで本気で好きになっちゃってんの私。
 しかもいきなりデート誘ってきたし。めちゃくちゃキモい文で冗談かと思ったらやっぱりそうで、だけどデートの誘い自体は本当で、それに喜んじゃってる私がいるし。
 日之太さんは優しくって、大人の男の人みたいに余裕があって、だけどそれは背伸びした姿で、それもまたなんか可愛くて、この人なら、もしかしたらって――勘違いしちゃったの。
 でもそれは間違いだった。日之太さんはを分かっているようで、なにも分かってなかった。
 痛いときは痛いって言ってもいいんだよ――ぐるぐると彼の言葉が頭の中で巡る。
 じゃあ痛くないときは。なにも感じないのにボロボロのときはどうすればいいの。
 痛いって言えない私はまるで欠陥製品だ。私と日之太さんは、違う人間どころか違う生き物なのかもしれない
 友達だと思ってた子達が一斉に引いていったあのときの光景を思い出す。
 そしてあのときの日之太さんの顔を思い出す。私が拒絶したときの、あの顔。
 もう日之太さんとは会えない。だって私達は違う生き物だから。