夏の日に俺は道路の真ん中に立っていて、汗を掻いていた。
道路はまっすぐに伸びていて、地平線の向こうが揺らいでいる。
それだけ。周りにはなにもなくて原っぱが広がっていた。
陽射しを遮るものがないせいかひどく暑い。あまりにも暑いのでその場から動一歩も動けない。道を進むことも戻ることもできない。
ていうか、倒れそうだ。頭がクラクラする。
世界が歪む。ぐにゃぐにゃと形を変え、やがて俺の足元も歪む。
立ってられない。汗が滴り落ちて地面に飲み込まれ、俺はそのまま前へと倒れる。
近づいてくる地面――しかし、俺が思うよりもずっと地面は柔らかかった。
ふよんと衝撃を吸収する弾力に、俺はハッとする。
これは現実じゃない。夢だ――認識したその瞬間、俺の意識は現実へと帰還した。
「……夢だ」
目の前に広がるのは真っ白な布の台地。他の景色も見ようと思い顔を動かすが、彼女の腕が俺の頭をガッシリ掴んでいるので逃れられない。
いや、彼女の腕だけじゃない。俺もまた、抱き着くように腕を回し、自分で自分の身体を固定していたのだ。
「やべ……」
呟きながらひとまず自分の腕を解く。右腕を外し、左腕を引いて、次は彼女の左腕を外し、そのまま頭の位置を下へとズラす。
ひとまず拘束からは逃れられた。あとはゆっくり起きればいい。
どうにかベッドの外に出て天井に向かって息を吐く。
そういえばどのくらい眠っていたのだろう。かなり深く眠りについていたから結構な時間が経っているかもしれない。
テーブルの上に置いてあるスマホを手に取って時間を確認する。時刻は現在7時丁度。家に帰ってきたのが4時過ぎで寝たのは確か5時頃。2時間ちょっとしか寝ていないはず。
思っていたよりも寝てない。眠りの深さから結構な時間寝ていたと思ったが、そんなことはなかったようだ。
とはいえもう7時だ。俺はベッドで寝息を立てている彼女を見下ろして、視線を下にやる。
ついさっき部屋に上がったとき見つけたが、彼女は足を怪我していてかかとの辺りが血でにじんでいた。
多分靴擦れだろう。今は傷があるだけでさすがに血は止まっているようだが。
このまま帰すわけにはいかない。俺はぐっすり眠っている彼女の肩を揺さぶった。
「美穂ちゃん、起きて。もう時間だから。美穂ちゃん」
繰り返し名前を呼ぶと、美穂ちゃんが「んうぅ……」と唸り、やがてゆっくりと目を開ける。
ボーっとしながらも美穂ちゃんが俺を見上げる。くしくしと目の周りを揉んで手を伸ばしてきたので、俺は彼女の手を掴んで起こしてあげた。
「ふぇ……今何時ですか……?」
「今は7時くらい。とりあえずそろそろ帰ろう。送ってくから」
穏やかな声色で語りかけると美穂ちゃんは一瞬寂しそうな表情を浮かべ、すぐに「分かりましたぁ」と眠そうな声で答える。
まずは出掛ける準備をしよう。そう思って俺は美穂ちゃんから離れ、壁にかけられた上着のパーカーをハンガーごと回収した。
後は財布とスマホを用意するだけ。そう思って振り返ったそのとき――
「ひゃあっ!」
ベットから降りたはずの美穂ちゃんがすっ転んでいた。
一体なにに引っかかったのだろうか。美穂ちゃんが一瞬だけ空中で横になり、そのままべしんっと音を立てて床に倒れる。
うつぶせの状態で床にへばりつき、微動だにしない。おいおい、大丈夫なのかこの子。まだ起きてないんじゃないか。
「美穂ちゃん? 大丈夫?」
ひとまず近寄って手を差し伸べる。すると彼女は顔だけあげて俺を見上げ、「うぅ……」と言いながらゆっくりと手を伸ばしてきた。
彼女の小さな手をギュッと握りしめ、引き起こす。よくよく見るとおでこにフローリングの痕がついている。
「どうしたのよ、急に転んで」
「うぅ……なんか、滑っちゃって」
「結構な音鳴ってたよ? どこ打ったの?」
「……多分おでこです」
「膝も打ったでしょ。ほら、痕ついてるよ」
そう言って、彼女の膝を指す。すると美穂ちゃんは「えー?」なんて言いながらベッドに腰かけ、ほのかに赤くなっている膝を撫でた。
「やだぁ、ほんとに赤くなってる……」
「気付かなかった? 痛かったでしょ?」
「……え? あ、それは」
「まぁでもおでこの方が痛いか。腫れないといいけど。まだ痛い?」
「あの、えっと……」
「そうだ、怪我で思い出した。美穂ちゃん、足いいかな」
彼女に背を向けながら訊ねる。さっき買ってきた飲み物とかが入っていた袋から絆創膏を取り出した。これで靴擦れをどうにかできるだろう。
「あ……あし、ですか? 私の足ですよね?」
「うん……って違うよ!? なんかそういう、やらしい意味じゃなくて! 純粋に見せてほしい、いや違うな。見せてほしいっていうか、かかと、かかとをさ、見せてほしいんだよ」
「日之太さん、かかとが好きなんですか?」
「そうじゃなくて! ほら、怪我してただろ? だからこれ、絆創膏」
慌てて言い訳をして振り向き、絆創膏を見せる。美穂ちゃんはキョトンとした顔から一変し、どこか焦った様子で自分のかかとを見た。
「あっ、ほんとだ……」
「痛かっただろ? 我慢しないで言ってくれても良かったのに……っと、違うな。これは俺が気付くべきだった。申し訳ない」
言いながら、俺は彼女の足元へ近づき跪く。アルコール入りのウェットティッシュと絆創膏を用意して患部を覗く。
「ちょっとしみるかも」
ウェットティッシュで傷口をソッと拭く。靴擦れとはいえそれほど傷は深くないので残ることは多分ないだろう。傷口の周りを清潔にして、絆創膏を貼った。
両足とも処置を終え、俺は顔をあげる。
美穂ちゃんはなんだか随分とショックを受けているようで、オレンジ色の瞳を震わせながらギュっと口を引き結んで黙り込んでいた。
どうしたというのだろう。もしかしてさっき転んだところがまだ痛いのか。それとも、足の傷の話をされ、痛みの記憶が蘇ったのか。
俺はフッと笑い、彼女の隣に座った。
「気付けなくってごめん。でもさ、次からは痛いって言ってほしいな。美穂ちゃんはそういうの我慢出来ちゃう子なのかもしれないけど、痛いときは痛いって言っていいんだよ」
隣に座っている彼女へ語りかけるが、怯えたような顔で俺を見るだけだ。
うーん、こういう感じじゃないか。もう少しこう、明るい感じでもいいかな。
俺は彼女と見つめ合いながら、次にかける言葉を考え、再び口を開いた。
「とにかくさ、次からそういうときが来たら痛いって叫ぶか、俺の腕とかグイって引っ張ってくれてもいいから。まぁ、美穂ちゃんが実は生まれつき痛みを感じない特殊能力を――」
「違うっ!」
叫び声が狭い部屋に響いた。
気付けば彼女は立ち上がって俺を見つめている。オレンジ色の瞳を、グラグラと揺らしながら、ブルブルと肩を震わせている。
彼女の大きな声を聴くのはこれが初めてだった。そりゃあ、今までだって大声くらい聴いてきたけど、こんな悲鳴にも似た叫びは聴いたことがない。
一体なにが彼女の心を乱しているのか。言葉を失って呆然とする俺を見て、美穂ちゃんはギュッと両手を握り締め、バタバタと動き出す。
自分のバッグや荷物を回収しているようだった。俺は慌てて立ち上がり、彼女へ声をかける。
「あの、美穂ちゃん? 俺なにか」
「かえる」
一言、ただそれだけ言って、美穂ちゃんが玄関へと向かう。
このままじゃまずい。絶対にダメだ。俺は財布だけ突っ込んで同じく玄関へと向かった。
「美穂ちゃん、帰るなら送ってくから」
「ひとりでいい。もうかえるから」
「いやそういうわけには、もう遅いし」
「こないでっ!」
バッと差し出した手が振り払われた。
同時に彼女が振り向く。いつも明るくて屈託なく笑う美少女。だけど今は、俺の前にいる彼女は、いつもの様子なんてどこにもなくて、ただその大きな目に大粒の涙を浮かべている。
さっきの、俺に対して同情してくれたときの涙とは違う。悲しみが籠ったその泣き顔に、俺は振り払われた状態から動くことができない。
そんな俺を見て、美穂ちゃんは何も言わない。背中を向けて逃げるように部屋を出ていった。
「……あっ、ちょっ! 美穂ちゃん!」
遅れて飛び出して彼女の名前を呼ぶ。だけどもうすでに彼女の姿は近くになくて、暗くなり始めた空があるだけだ。
さっきまで一緒に寝ていたのに――強い孤独感に見舞われ、俺は目をつぶってドアノブを強く握りしめることしかできなかった。