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ー/ー



 
「なんで、って言われても」
 それはこっちの台詞だよ、と言いかけたが言葉にならなかった。
 精神的に参ってしまうと、会話するのもエネルギーを使うのだ、とこの時気づいた。
 
 弟は、そんな俺の事情など知らぬ顔で、グラウンドの片隅で素振り練習をしている、さっきのホームラン打者の少年を指差す。
 
「あいつ、由比(ゆい) (かける)って言うんだけど、名前覚えておくといいよ。将来、メジャーで活躍しちゃうかもよ」
 珍しい名字だな、という印象しかなかったが、なんとなくその名前は記憶にインプットされた。
 
 弟は、由比少年のバッティングフォームの特徴を滔々と説明してくれたのだが、それは頭に入ってこなかった。今の俺には、インプットできる情報とできない情報があるらしい。
 
「野球、やってるんだな」
 俺がそんな状態だったから、弟が由比少年について説明している途中で、ぶった切る形で言ってしまった。
 
「コーチをね。プレイヤーじゃない」
 弟は少し困った顔をしたが、答えてくれた。
 
「自分では、もうやらないんだ?」
「やらないね。楽しくなくなっちゃったから」
「そっか」
「子供たちが勝ったり負けたりするのを手伝う方が、楽しい」
 それもまた、弟らしい気がした。
 弟は、自分が目指した場所に行けない、とわかった瞬間、全てを捨てた。夢の捨て方は良くなかったが、別の方法で「好き」から離れなかった。
 
「ここは、どういう繋がりで?」
 どうして、実家から遠く離れたこの地域にいるのか。どうして、この野球チームでコーチをしているのか。細かく聞きたかったのだが、出てきた言葉が、これだった。
 
「ここ、俺の奥さんの地元。その伝手で、コーチやらせてもらってる」
「えっ」
 弟の口から「奥さん」の存在を出されて、俺は声が裏返る。
 地元の友人たちから、弟は「キャバ嬢に入れあげて暴力沙汰を起こした」と聞いていた。「奥さん」は果たしてそのキャバ嬢か。というか、それは聞いていいのだろうか。
 
「何かいろいろ言われてるらしいけど、今はちゃんと暮らしてるから安心して」
 俺の当惑っぷりを見て、弟は苦笑いを浮かべた。
 弟はスマートフォンを取り出すと、待ち受けにしている画像を見せてくれた。生まれたばかりの赤ちゃんの写真だった。弟はその待ち受けを、「俺の娘なんだ」と嬉しそうに紹介してくれた。
 俺はいつの間にか、伯父さんになっていたらしい。両親も、いつの間にかおじいちゃん・おばあちゃんに。
 
 そこで両親の姿が頭に思い浮かんで、俺は口ごもる。
「……母さんや父さんには、言わないでおくよ」
 俺には、そう言うだけで精いっぱいだった。
 
「助かる」
 弟は小さく頭を下げた。
 家を出た弟は、新天地にこの場所を選んで、家族と暮らしている。
 
 奥さんの実家が電気工事の仕事をしていて、そこで働かせてもらっているそうだ。
 仕事が休みの日は、こうして少年野球チームのコーチをして、好きだった野球とともに、今も生きている。
 今日、奥さんは子供と親とで出掛けているそうで、この試合には来ていないそうだ。
 奥さんの写真も、弟は見せてくれた。小さな頃の弟に似て、明るくて元気そうな人だった。
 
 充実した日々を送れているみたいだった。それでいい。
 
「これからも、頑張れよ」
 俺は今、どんな顔をしているのかわからない。
 泣いているのかもしれないし、泣かないで済んでいるかもしれない。なんだか胸が熱くて、何年ぶりかに会った弟に、こんな中身のない言葉しか掛けられない。
 
「アキ、また、どっかで会えるかな?」
 弟は、明確に、いつ会おうなんて言わない。
 弟はそれだけの覚悟を持って、家を出た。俺よりも早い段階で、全部捨てる覚悟をした。たくさん間違った代わりに、納得した答えを見つけた。
 
「会える」
 自信を持って、俺は言う。連絡先の交換なんてしないが、それでいい。弟の覚悟に、俺は心底感動したんだ。
 
「お互い生きてる限り、会おうと思えば会えるんだ」
 外回り営業で培った営業スマイル全開で、俺は微笑んだ。

 
 今日は、決して無駄な一日じゃなかった。
 
 いつかどこかで、また弟に会えたらいいと思うが、会えなくてもいい。
 俺の人生の中で特別な日なんて、片手で足りるはずだ。そして今日はきっと、その特別な日の一つだ。


 
 俺は、公園で弟に会ったその足で、職場に向かった。
 不思議と、何も怖いと思わなかった。主任のことで悩んでいたのが、馬鹿みたいだと思うほどに。
 
 職場に着くと、顔を真っ赤にした主任が、俺の胸ぐらを掴んで喚いてきた。
 
 だけど俺の胸は、楽しそうに野球を見ている弟が見られた満足感で、いっぱいだった。
 主任の怒声など、蚊が近くで飛んでいるくらいのうるささでしかない。
 
 どうしてこんなのに、怯えて暮らしていたのだろうか。
 
 我ながら面白くなってしまって、主任の声を聞くたびに肩を震わせて笑いをこらえるのに必死だった。そんな俺を見た、他の職員たちは、腫れものでも触るような眼で見てきた。
 どうだっていい。
 
 主任と俺を引き剥がした支店長に、「もう辞めます」と宣言し、退職にまつわる書類は全て郵送でお願いした。
 後日、退職手続きの書類が届き、それを返送して、俺はめでたく無職になった。



 


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「なんで、って言われても」
 それはこっちの台詞だよ、と言いかけたが言葉にならなかった。
 精神的に参ってしまうと、会話するのもエネルギーを使うのだ、とこの時気づいた。
 
 弟は、そんな俺の事情など知らぬ顔で、グラウンドの片隅で素振り練習をしている、さっきのホームラン打者の少年を指差す。
 
「あいつ、由比(ゆい) (かける)って言うんだけど、名前覚えておくといいよ。将来、メジャーで活躍しちゃうかもよ」
 珍しい名字だな、という印象しかなかったが、なんとなくその名前は記憶にインプットされた。
 
 弟は、由比少年のバッティングフォームの特徴を滔々と説明してくれたのだが、それは頭に入ってこなかった。今の俺には、インプットできる情報とできない情報があるらしい。
 
「野球、やってるんだな」
 俺がそんな状態だったから、弟が由比少年について説明している途中で、ぶった切る形で言ってしまった。
 
「コーチをね。プレイヤーじゃない」
 弟は少し困った顔をしたが、答えてくれた。
 
「自分では、もうやらないんだ?」
「やらないね。楽しくなくなっちゃったから」
「そっか」
「子供たちが勝ったり負けたりするのを手伝う方が、楽しい」
 それもまた、弟らしい気がした。
 弟は、自分が目指した場所に行けない、とわかった瞬間、全てを捨てた。夢の捨て方は良くなかったが、別の方法で「好き」から離れなかった。
 
「ここは、どういう繋がりで?」
 どうして、実家から遠く離れたこの地域にいるのか。どうして、この野球チームでコーチをしているのか。細かく聞きたかったのだが、出てきた言葉が、これだった。
 
「ここ、俺の奥さんの地元。その伝手で、コーチやらせてもらってる」
「えっ」
 弟の口から「奥さん」の存在を出されて、俺は声が裏返る。
 地元の友人たちから、弟は「キャバ嬢に入れあげて暴力沙汰を起こした」と聞いていた。「奥さん」は果たしてそのキャバ嬢か。というか、それは聞いていいのだろうか。
 
「何かいろいろ言われてるらしいけど、今はちゃんと暮らしてるから安心して」
 俺の当惑っぷりを見て、弟は苦笑いを浮かべた。
 弟はスマートフォンを取り出すと、待ち受けにしている画像を見せてくれた。生まれたばかりの赤ちゃんの写真だった。弟はその待ち受けを、「俺の娘なんだ」と嬉しそうに紹介してくれた。
 俺はいつの間にか、伯父さんになっていたらしい。両親も、いつの間にかおじいちゃん・おばあちゃんに。
 
 そこで両親の姿が頭に思い浮かんで、俺は口ごもる。
「……母さんや父さんには、言わないでおくよ」
 俺には、そう言うだけで精いっぱいだった。
 
「助かる」
 弟は小さく頭を下げた。
 家を出た弟は、新天地にこの場所を選んで、家族と暮らしている。
 
 奥さんの実家が電気工事の仕事をしていて、そこで働かせてもらっているそうだ。
 仕事が休みの日は、こうして少年野球チームのコーチをして、好きだった野球とともに、今も生きている。
 今日、奥さんは子供と親とで出掛けているそうで、この試合には来ていないそうだ。
 奥さんの写真も、弟は見せてくれた。小さな頃の弟に似て、明るくて元気そうな人だった。
 
 充実した日々を送れているみたいだった。それでいい。
 
「これからも、頑張れよ」
 俺は今、どんな顔をしているのかわからない。
 泣いているのかもしれないし、泣かないで済んでいるかもしれない。なんだか胸が熱くて、何年ぶりかに会った弟に、こんな中身のない言葉しか掛けられない。
 
「アキ、また、どっかで会えるかな?」
 弟は、明確に、いつ会おうなんて言わない。
 弟はそれだけの覚悟を持って、家を出た。俺よりも早い段階で、全部捨てる覚悟をした。たくさん間違った代わりに、納得した答えを見つけた。
 
「会える」
 自信を持って、俺は言う。連絡先の交換なんてしないが、それでいい。弟の覚悟に、俺は心底感動したんだ。
 
「お互い生きてる限り、会おうと思えば会えるんだ」
 外回り営業で培った営業スマイル全開で、俺は微笑んだ。

 
 今日は、決して無駄な一日じゃなかった。
 
 いつかどこかで、また弟に会えたらいいと思うが、会えなくてもいい。
 俺の人生の中で特別な日なんて、片手で足りるはずだ。そして今日はきっと、その特別な日の一つだ。


 
 俺は、公園で弟に会ったその足で、職場に向かった。
 不思議と、何も怖いと思わなかった。主任のことで悩んでいたのが、馬鹿みたいだと思うほどに。
 
 職場に着くと、顔を真っ赤にした主任が、俺の胸ぐらを掴んで喚いてきた。
 
 だけど俺の胸は、楽しそうに野球を見ている弟が見られた満足感で、いっぱいだった。
 主任の怒声など、蚊が近くで飛んでいるくらいのうるささでしかない。
 
 どうしてこんなのに、怯えて暮らしていたのだろうか。
 
 我ながら面白くなってしまって、主任の声を聞くたびに肩を震わせて笑いをこらえるのに必死だった。そんな俺を見た、他の職員たちは、腫れものでも触るような眼で見てきた。
 どうだっていい。
 
 主任と俺を引き剥がした支店長に、「もう辞めます」と宣言し、退職にまつわる書類は全て郵送でお願いした。
 後日、退職手続きの書類が届き、それを返送して、俺はめでたく無職になった。



 


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