2

ー/ー





 俺は、大学卒業後、とある地方銀行に就職した。
 できれば地元からより遠い場所へ行きたい、と思っていた。
 なので、地元からは飛行機の距離の、その地方銀行に就職にできたのは、俺からしたら渡りに船だ。

 そこからたった半年。

 俺は死にたくなっていた。
 
 意味がわからないと思うが、こんな感情はわからない方がいい。

 
 平日は基本的に外回り営業。
 アクの強い主任に連れ回され、顔を覚えてもらうのに必死だ。
 月二回の土曜日は、勤める支店で不動産などのローン相談会が開催されるため、出勤。
 日曜は、だらだらと起きて、朝昼晩ご飯を全て兼ねた食事を夕方に摂る。
 これが、配属されてから毎週繰り返している、一週間の過ごし方だった。

 今日は金曜。明日は土曜。ローン相談会がある日なので、出勤だ。
 この半年、これが当たり前の流れなのだが、明日が出勤日だと思うと、気分が重くなる。
 
 今夜の夕食は、中華料理のチェーン店で食べてきた。
 久しぶりに食べられそうな気がして頼んだ、炒飯と餃子、回鍋肉は、俺の胃のキャパシティを超えていた。
 胸焼けする体を早く横にさせたい、と俺はゆっくり歩きながらも気持ちだけは焦って、自宅へ帰ってきた。
 
 手洗いもそこそこに、ソファに寝そべりると、TVのリモコンを手にした。
 
 TVでは、プロ野球の中継が始まっていた。
 どちらの球団も、関東の都市が本拠地だった。
 この地方で、ゴールデンタイムにこの試合を流しても視聴率が取れるのか、謎でしかない。

 アップになってカメラに映るバッターの姿に、ユニフォーム姿の弟が重なる。

 弟が、そのバッターボックスに立っていたかもしれない、と夢見ている俺がいた。
 
 当の弟は、もうとっくに諦めたはずだろうに。

 俺はソファでそのまま寝入ってしまい、目が覚めた時には、もう朝だった。
 つけっぱなしのTVには、土曜の朝らしく芸能人がどこかの観光地を訪れ、その土地のグルメを紹介する番組が流れていた。
 芸能人は一口頬張るごとに、「おいし〜い」と目を丸くしながら、大袈裟にリアクションしている。
 朝から見るにはうるさい、と思った。
 
 芸能人のリアクションを画面越しに見ながら、アクの強い主任のことを思い出していた。
 主任は、パワハラ、アルハラ、モラハラ、この世の全てのハラスメントを凝縮させてできた生き物だ。
 
 「おはようございます」の声が小さい、と怒鳴りつけ、その場で満足するまで何回もやり直しを強要される。
 
 外回り先へ持っていくノベルティを用意しろと言われ、選んで袋詰めする。すると、「選ぶノベルティのセンスがない」だの「お前は半年も教えてるのに、何も理解していない」だのと言われる。
 結局、主任が選ぶノベルティを持っていくのだから、俺がやる意味はない。俺をこき下ろすためだけに、主任は俺に頼むのだ。
 
 この主任の横暴に付き合っているのはしんどい。
 だが、もっとしんどいのは、長年この地に暮らす高齢者たちの大半が、新参者には手厳しいところだった。
 
 営業は向いていない、と一ヶ月目で思った。
 それでも半年続けたのは、この主任が、せっかく書いた辞表を破り捨てたからだ。(いわ)く、「半年で辞めたら、他のどこでも続かない」。
 
 主任は、視界の中に偉い人がいれば、その偉い人のもとへ一目散に駆け寄っていく。そして、いつもべったり付いて回っている。
 俺が、主任を飛び越して、もっと上にいる部長や支店長に辞表を出そうと思っても、ことごとく邪魔するように現れる。

 だから、俺は考えるのをやめた。
 日々、主任のサンドバッグとして半年、無の境地で仕事していた。
 無愛想に応対されても、営業先へは常に愛想良くしていた。愛想を良くしたところで、営業成績は振るわなかったが。

 時計代わりに点けていたテレビを消し、俺は部屋を出た。
 出勤するために、いつも通りの決まった時間に駐車場へ行き、車に乗った。
 運転席のシートベルトを締めた瞬間、俺は涙が溢れ出していた。
 
 悲しいなんて感情はない。怒りも悲しみも、何も感じていないはずのに、涙は勝手に出てきた。
 
 こんなのは初めてだった。
 どうにかしなくては、と焦れば焦るほど、呼吸は荒くなって涙がボロボロ落ちてくる。

 仕事に行かなくては。
 
 いや、遅刻するなんて連絡をしたら、主任が何を言ってくるかわからない。
 
 こんな状態で、電話できるはずがない。
 ショートメッセージやメッセージアプリ? そんなツールを使ったら、社会人としての常識がないだとか、無礼だとか、主任がドヤしてくる。
 
 主任の顔がちらつくたびに、心拍数が上がっていく。自分の声にならない泣き声よりも、心臓の音の方が大きく聞こえる。
 
 この辺りでやっと、この現象がなぜ起きたのか把握できた気がした。
 
 俺の精神は限界に近づいているのだ。
 逃げたい。逃げたい。死にたい。死にたい。どこかへ行きたい。姿形を消したい。――そんな感情が渦巻いて、さらに呼吸は荒くなる。
 
 その瞬間、日焼けした顔で、満足げに「今日の試合、勝てたよ」と笑う弟の姿が目の前に浮かんだ。
 漠然と、その時に思った。
 
 あぁ、弟が野球ができなくなった時、こんな気持ちだったんじゃないのか。

 もちろん、弟が置かれた状況と俺が置かれている状況は全く別物で、同じだと思い込むのはいけないんだろう。だが、今の俺には、弟の苦悩と俺の苦悩に、どんな差があるのかなんて、考えられる余裕がなかった。
 この時点で、俺はものすごく、不安になっていたのだ。
 
 
 このまま仕事に行ったら、死ぬんじゃないか。


 自殺するのか、主任を巻き込んで死ぬのか、どちらなのかはわからないが、俺は死のうとするだろう。
 
 判断力が著しく低下した俺の頭でも、それだけはわかった。

 



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 俺は、大学卒業後、とある地方銀行に就職した。
 できれば地元からより遠い場所へ行きたい、と思っていた。
 なので、地元からは飛行機の距離の、その地方銀行に就職にできたのは、俺からしたら渡りに船だ。

 そこからたった半年。

 俺は死にたくなっていた。
 
 意味がわからないと思うが、こんな感情はわからない方がいい。

 
 平日は基本的に外回り営業。
 アクの強い主任に連れ回され、顔を覚えてもらうのに必死だ。
 月二回の土曜日は、勤める支店で不動産などのローン相談会が開催されるため、出勤。
 日曜は、だらだらと起きて、朝昼晩ご飯を全て兼ねた食事を夕方に摂る。
 これが、配属されてから毎週繰り返している、一週間の過ごし方だった。

 今日は金曜。明日は土曜。ローン相談会がある日なので、出勤だ。
 この半年、これが当たり前の流れなのだが、明日が出勤日だと思うと、気分が重くなる。
 
 今夜の夕食は、中華料理のチェーン店で食べてきた。
 久しぶりに食べられそうな気がして頼んだ、炒飯と餃子、回鍋肉は、俺の胃のキャパシティを超えていた。
 胸焼けする体を早く横にさせたい、と俺はゆっくり歩きながらも気持ちだけは焦って、自宅へ帰ってきた。
 
 手洗いもそこそこに、ソファに寝そべりると、TVのリモコンを手にした。
 
 TVでは、プロ野球の中継が始まっていた。
 どちらの球団も、関東の都市が本拠地だった。
 この地方で、ゴールデンタイムにこの試合を流しても視聴率が取れるのか、謎でしかない。

 アップになってカメラに映るバッターの姿に、ユニフォーム姿の弟が重なる。

 弟が、そのバッターボックスに立っていたかもしれない、と夢見ている俺がいた。
 
 当の弟は、もうとっくに諦めたはずだろうに。

 俺はソファでそのまま寝入ってしまい、目が覚めた時には、もう朝だった。
 つけっぱなしのTVには、土曜の朝らしく芸能人がどこかの観光地を訪れ、その土地のグルメを紹介する番組が流れていた。
 芸能人は一口頬張るごとに、「おいし〜い」と目を丸くしながら、大袈裟にリアクションしている。
 朝から見るにはうるさい、と思った。
 
 芸能人のリアクションを画面越しに見ながら、アクの強い主任のことを思い出していた。
 主任は、パワハラ、アルハラ、モラハラ、この世の全てのハラスメントを凝縮させてできた生き物だ。
 
 「おはようございます」の声が小さい、と怒鳴りつけ、その場で満足するまで何回もやり直しを強要される。
 
 外回り先へ持っていくノベルティを用意しろと言われ、選んで袋詰めする。すると、「選ぶノベルティのセンスがない」だの「お前は半年も教えてるのに、何も理解していない」だのと言われる。
 結局、主任が選ぶノベルティを持っていくのだから、俺がやる意味はない。俺をこき下ろすためだけに、主任は俺に頼むのだ。
 
 この主任の横暴に付き合っているのはしんどい。
 だが、もっとしんどいのは、長年この地に暮らす高齢者たちの大半が、新参者には手厳しいところだった。
 
 営業は向いていない、と一ヶ月目で思った。
 それでも半年続けたのは、この主任が、せっかく書いた辞表を破り捨てたからだ。(いわ)く、「半年で辞めたら、他のどこでも続かない」。
 
 主任は、視界の中に偉い人がいれば、その偉い人のもとへ一目散に駆け寄っていく。そして、いつもべったり付いて回っている。
 俺が、主任を飛び越して、もっと上にいる部長や支店長に辞表を出そうと思っても、ことごとく邪魔するように現れる。

 だから、俺は考えるのをやめた。
 日々、主任のサンドバッグとして半年、無の境地で仕事していた。
 無愛想に応対されても、営業先へは常に愛想良くしていた。愛想を良くしたところで、営業成績は振るわなかったが。

 時計代わりに点けていたテレビを消し、俺は部屋を出た。
 出勤するために、いつも通りの決まった時間に駐車場へ行き、車に乗った。
 運転席のシートベルトを締めた瞬間、俺は涙が溢れ出していた。
 
 悲しいなんて感情はない。怒りも悲しみも、何も感じていないはずのに、涙は勝手に出てきた。
 
 こんなのは初めてだった。
 どうにかしなくては、と焦れば焦るほど、呼吸は荒くなって涙がボロボロ落ちてくる。

 仕事に行かなくては。
 
 いや、遅刻するなんて連絡をしたら、主任が何を言ってくるかわからない。
 
 こんな状態で、電話できるはずがない。
 ショートメッセージやメッセージアプリ? そんなツールを使ったら、社会人としての常識がないだとか、無礼だとか、主任がドヤしてくる。
 
 主任の顔がちらつくたびに、心拍数が上がっていく。自分の声にならない泣き声よりも、心臓の音の方が大きく聞こえる。
 
 この辺りでやっと、この現象がなぜ起きたのか把握できた気がした。
 
 俺の精神は限界に近づいているのだ。
 逃げたい。逃げたい。死にたい。死にたい。どこかへ行きたい。姿形を消したい。――そんな感情が渦巻いて、さらに呼吸は荒くなる。
 
 その瞬間、日焼けした顔で、満足げに「今日の試合、勝てたよ」と笑う弟の姿が目の前に浮かんだ。
 漠然と、その時に思った。
 
 あぁ、弟が野球ができなくなった時、こんな気持ちだったんじゃないのか。

 もちろん、弟が置かれた状況と俺が置かれている状況は全く別物で、同じだと思い込むのはいけないんだろう。だが、今の俺には、弟の苦悩と俺の苦悩に、どんな差があるのかなんて、考えられる余裕がなかった。
 この時点で、俺はものすごく、不安になっていたのだ。
 
 
 このまま仕事に行ったら、死ぬんじゃないか。


 自殺するのか、主任を巻き込んで死ぬのか、どちらなのかはわからないが、俺は死のうとするだろう。
 
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