「……うん、よくできてる。助かるよ」
夏真っ盛りの平日、俺は七葉ちゃんこと徒町七葉准教授の大学の私室を訪れていた。
彼女の部屋は他の教授や准教授と比べるとやや狭い。多分ありとあらゆる本で埋め尽くされているからだろう。いくら私室とはいえこんなにも私物化していいものなのかと思うが、彼女がこの大学へ赴任してからずっとこうらしいので、まぁ問題にはなっていないのだろう。もしくは諦められているか。
「じゃあ次はこれね。そんなに難しくないから、うん、10日あればやれるでしょ」
七葉ちゃんはそう言って俺に一束の論文を差し出してきた。
受け取った論文はずっしりと重く、チラッと内容を見ると文字をパソコンとかで打ち込んだものではなく手書きだった。しかも筆記体だ。
「こ、これを10日でやるんですか……」
「内容は多分そんな難解じゃないし、大した量でもないから大丈夫」
「結構重いんですけど」
「特殊な紙を使ってるからね。そもそも今時手書きの論文だし、特別なインクと紙だし、変わり者の研究者、ていうか作家なの。報酬はいつもより多くしてあげるから頑張ってみて」
「……あい」
粛々と受け取り、論文をケースに入れてバッグにしまう。
俺の英文学の成績を見込んでこういった仕事を振ってくれるのだが、正直結構大変だったりする。とはいえ、しっかりとした報酬をいただけるので続けてしまっている。
ひとまず以前頼まれていた論文の邦訳も提出できたので「それじゃあ、失礼します」と言って頭を下げ、部屋から出ていく。
「あぁそうだ。佐古くん」
ドアノブに手をかけたところで、七葉ちゃんが俺の名前を呼んだ。
ノブから手を離して振り向くと、ヒラヒラとチケットっぽい紙を揺らしている。
「なんですか、徒町先生」
「これ、知り合いから貰ったんだけどさ、私は特に使う予定ないからあげるよ」
そう言って俺になにかを差し出してくる七葉ちゃん。近づいて確認すると、それはとある水族館のチケットで、しかもよくよく見ると2枚あった。
「え? いいんですか? 貰いもの、なんですよね?」
「うん、でもご覧の通り2枚あるんだ。私は2人にはなれないからね」
「……はぁ」
だったら友達なら恋人なり家族なり誘って行けばいいのでは。なんて言おうとしたが、そこはプライベートなところだ。詮索するべきじゃないだろう。
察するに知り合いからの貰いものをそのまま処分するわけにもいかないから学生に押し付けたいのだろう。俺だって特に使う予定はないけれど、多分受け取らなければ話が終わらないので、大人しくチケットを2枚貰うことにした。
「彼女とでも行けばいいよ」
フッと笑って七葉ちゃんは椅子を回転させて背中を向ける。
そんな相手いないのだが、せっかくお堅い准教授がユーモアと共にくれたのだ。俺は「どうも、ありがとうございます」とだけ言って、チケットを懐にしまい、部屋を後にした。