「……だめだ」
眠れない夜を過ごしていた。
原因は不明だ。いや、分かってる。なんとなくだけど、そんな気がする。
でも本当にそうなのだろうか。なんていうか、信じられない。だってまさか――
「キスされただけなのに……キスされただけで?」
自分で言って情けなくなってくる。
あの日、テニスの練習を終えて電車から降りる寸前、美穂ちゃんは突然俺にキスをしてきた。
別に初めての体験ってわけじゃない。女の子の方からされたのは初めてかもしれないが、それでも、キスぐらいしたことある。
だというのに、どうしてこんなにも、心を乱されているのだろう。
寂しそうだったから――キスをした彼女は、そう言っていた。
俺はあのとき、どんな顔だった。年下の女の子に同情されてしまう顔をしていたのだろうか。
目をつぶると美穂ちゃんの顔が思い浮かぶ。
妙な経緯で知り合った眠れない美少女。俺はともかく彼女は眠れているのだろうか。
俺は彼女のことをまだよく知らない。お嬢様が行くような私立の女子高に通っていて、俺と同じく過去にテニスをやっていた。
でも今はやっていない。俺みたいに故障が原因で辞めたわけではないが、それでも、またテニスをやりたいという想いはないらしい。
『ママに辞めなさいって言われて、私もなんかもういっかなって思ってたんです。だけど、奈保がマネージャーでもいいから一緒にやろうよって言ってくれて……』
どうして辞めてしまったのだろう。一緒にやろうと言われて戻ってくるくらいにはテニスが好きだったはずなのに、なぜプレーヤーとしての自分を手放してしまったのか。
それとも単純に『ママ』に逆らうなんて、考えたことすらないのかもしれない。
まだ彼女のお母さんに会ったことがないのでどうとも言えないが、話を聞く限り厳しいというか過保護というか、普通の優しいお母さんとは少し違う気がする。
しかも自分が不眠で倒れかけるほど悩まされているというのに、親に心配かけたくないから病院には行かないと言っていた。
思春期特有の親離れとは少し違う気がする。どちらにしろ、あんなにも苦しんでいたのに親へ相談できないというのは些か不健全だ。
俺のことも話していないようだし、実はあまりいい関係性じゃないのか。
まぁ、だからといって俺になにができるのかというと、なにもできないのだが。
仕方ない。美穂ちゃんにとって俺はただの安眠枕くんってだけなのだから。
『付き合うつもりもないくせに、こんなことやってるんですか? おかしいですよ』
数日前、奈保ちゃんから言われたことを思い出す。
あのとき俺は明確な答えを出すことができなかった。きっかけはともかく、なぜ続けているのか。そしてこれからも続けられるのか。
例えば美穂ちゃんに恋人ができたら。今まで通り彼女の睡眠に付き合うみたいなことはきっとできないだろう。というか、したくない。どう考えても問題しかない。。
そうなったら、素直に身を引くしかないだろう。それはいい。俺はいいかもしれないが、問題は美穂ちゃんだ。
安眠枕くんがいなくなったら、彼女は眠れるのだろうか。
「……なーにマジになってんだ俺は」
美穂ちゃんの体調を憂いたところで、俺はため息をついて自室の天井に呟く。
別になにも、彼女の安眠枕くんは世界で俺だけじゃない。
今後もそういう人が現れるかもしれないし、もしかしたら恋人が新しい安眠枕くんかもしれないのだ。そうなったら本当に俺の存在価値はなくなる。
また、やりたいことがなにもない空虚な日々に逆戻りといったところか。
考えれば考えるほど寂しくなっていく気がする。ベッドから離れたところにあるスマホへ手を伸ばし――いや、やめよう。もう寝てしまおう。
一度眠れば今抱えている不安は一旦消えていくはずだ。
俺はゴロンと寝返りをうって、ゆっくりと息を吐いて目をつぶった。