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 勉強は澪にとってけっして楽しいものではなかった。特にやりはじめのころは解けない問題ばかりであったし、それまでいっさい勉強の習慣がなかった彼女には、長時間机に座っていること自体がまず苦痛だった。
 それでもちょっとずつ知識が増え、書かれている内容が理解できるようになってくると、少し楽しくなった。前に解けなかった問題が自力で解けたときには成長を感じられた。そういうとき、山田が澪を
「まさに万物の霊長。実に見事な学習能力だ」
 などとことさら大げさに褒めてくれるのも、澪には可笑しく、またうれしかった。
「先生って、下の名前なんていうの?」
 ある日の授業中、澪はなにげなく山田に訊いてみた。山田は少し考えるような顔をして、
彦兵衛(ひこべえ)だ」
 と言った。澪は腹を抱えて笑った。
「なにがおかしい」
「だって、まじめな顔で急に変なこと言うから」
 澪はまだ笑っていた。
「何が変だったのだ?」
「だってそれ、おもいっきり男の名前じゃん。なんか昔の人の名前っぽいし」
 なるほど、と山田は腕組みをし、ちらと澪のほうを見た。
「ちなみに、そなたの下の名はなんというのだ?」
「澪」
 みお、と山田は語感を確かめるように何度かつぶやき、言った。
「では、(わたし)の下の名はまおだ」
「まお?」
「これならおかしくないであろう」
「おかしくはないけど……なんか似てない?」
「うむ。今っぽい女の名だからな」
 山田は少し変わった先生だった。あるとき、澪の母親が運んできたケーキに施しがどうのこうのと言ってなかなか手をつけずにいるので、「食べないならちょうだいよ」と言うと、こころよくくれた。喜んだ澪が
「いいの? やった、先生まじ神」
 と言うと、
「そなた、気づいていたのか」
 と、なぜか激しく動揺しだした。「神」という表現の意味を説明してやると、山田は落ち着きを取りもどした。そしてなんだかうれしそうだった。
 変わったところの多い先生だったが、澪は山田のことが気に入った。取り立てて教え方がうまいというわけではなかったが、山田はいつも前向きに澪のことを応援してくれた。山田と一緒に勉強をしていると、澪自身も前向きな気持ちになれた。そして自分を少しだけ信じられるようになった。澪は着実に勉強量を増やしていった。
 三年生になると、澪は模試を受けるようになった。模試の結果は最初あまり振るわなかったが、慣れてくると次第に成績が上がってきた。第一志望校の判定は最後まで低いままだったが、それでも澪は諦めずに勉強を続けた。
 年が明けたある日の授業中、澪の両親が神社で買ってきてくれた合格グッズの鉛筆を山田は怪訝そうな顔で見ていたが、「『五角』と『合格』をかけてるんだって」と澪が説明してやると、途端に笑いだした。
「なるほど。アイツめ、なかなかうまい商売を考えついたものだ」
 山田は最後までちょっとおかしな先生だった。でもこの人のおかげで、自分はここまで来れた。良い結果で終われるよう精一杯がんばろう。先生のためにも、自分のためにも。そう澪は思った。
 そして始まった入試期間は、あっという間に過ぎていった。澪は第一志望には受からなかったものの、第二志望にしていた大学から、ある日合格通知が届いた。両親は大いに喜び、澪を祝福した。親にこんなに褒めてもらえるのなんていつぶりだろうと澪は思った。
 澪はその足で自分の部屋に行き、三年生になってからはずっと封印していた携帯電話を取り出した。この喜びと感謝を早く伝えたいと思った。
 しかし携帯電話のロックを解除したところで、はて、と澪は思った。自分はいま、何をしようとしていたのだろう。たしか、だれかに連絡をしようと思っていた気がするのだが、それがだれなのかどうしても思い出せなかった。
 両親への報告は済ませたし、友人と呼べるような相手は自分にはいない。電話帳を見れば思い出すかと思い上から順に見てみるが、ぴんとくる名前は特になかった。ただ一件、登録した覚えのない「まお先生」という見知らぬ人物の電話番号が見つかっただけで。
 それから一か月あまりが過ぎた。いよいよ来週から始まる大学生活を前に、澪は期待よりも不安のほうが大きかった。まともに学校に通うのは中学のとき以来だ。自分はうまくやっていけるのだろうか。考えだすと、必ず眠れなくなった。
 だがそんなとき、ふと澪の中に浮かんでくる言葉があった。それは男のような、女のような声で、澪の脳内で再生された。
 ――大学に毎日通うことなど、遊技場に毎日通うことと大差ないではないか。
 なんだそれ、と我ながら苦笑してしまう。しかしそれを思うたび、かつて似たようなことをだれかに言われたような、不思議となつかしく心地よい感覚に澪は包まれるのだった。
 全然違うと思うけど。でも、がんばってみよう。


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 勉強は澪にとってけっして楽しいものではなかった。特にやりはじめのころは解けない問題ばかりであったし、それまでいっさい勉強の習慣がなかった彼女には、長時間机に座っていること自体がまず苦痛だった。
 それでもちょっとずつ知識が増え、書かれている内容が理解できるようになってくると、少し楽しくなった。前に解けなかった問題が自力で解けたときには成長を感じられた。そういうとき、山田が澪を
「まさに万物の霊長。実に見事な学習能力だ」
 などとことさら大げさに褒めてくれるのも、澪には可笑しく、またうれしかった。
「先生って、下の名前なんていうの?」
 ある日の授業中、澪はなにげなく山田に訊いてみた。山田は少し考えるような顔をして、
「|彦兵衛《ひこべえ》だ」
 と言った。澪は腹を抱えて笑った。
「なにがおかしい」
「だって、まじめな顔で急に変なこと言うから」
 澪はまだ笑っていた。
「何が変だったのだ?」
「だってそれ、おもいっきり男の名前じゃん。なんか昔の人の名前っぽいし」
 なるほど、と山田は腕組みをし、ちらと澪のほうを見た。
「ちなみに、そなたの下の名はなんというのだ?」
「澪」
 みお、と山田は語感を確かめるように何度かつぶやき、言った。
「では、|私《わたし》の下の名はまおだ」
「まお?」
「これならおかしくないであろう」
「おかしくはないけど……なんか似てない?」
「うむ。今っぽい女の名だからな」
 山田は少し変わった先生だった。あるとき、澪の母親が運んできたケーキに施しがどうのこうのと言ってなかなか手をつけずにいるので、「食べないならちょうだいよ」と言うと、こころよくくれた。喜んだ澪が
「いいの? やった、先生まじ神」
 と言うと、
「そなた、気づいていたのか」
 と、なぜか激しく動揺しだした。「神」という表現の意味を説明してやると、山田は落ち着きを取りもどした。そしてなんだかうれしそうだった。
 変わったところの多い先生だったが、澪は山田のことが気に入った。取り立てて教え方がうまいというわけではなかったが、山田はいつも前向きに澪のことを応援してくれた。山田と一緒に勉強をしていると、澪自身も前向きな気持ちになれた。そして自分を少しだけ信じられるようになった。澪は着実に勉強量を増やしていった。
 三年生になると、澪は模試を受けるようになった。模試の結果は最初あまり振るわなかったが、慣れてくると次第に成績が上がってきた。第一志望校の判定は最後まで低いままだったが、それでも澪は諦めずに勉強を続けた。
 年が明けたある日の授業中、澪の両親が神社で買ってきてくれた合格グッズの鉛筆を山田は怪訝そうな顔で見ていたが、「『五角』と『合格』をかけてるんだって」と澪が説明してやると、途端に笑いだした。
「なるほど。アイツめ、なかなかうまい商売を考えついたものだ」
 山田は最後までちょっとおかしな先生だった。でもこの人のおかげで、自分はここまで来れた。良い結果で終われるよう精一杯がんばろう。先生のためにも、自分のためにも。そう澪は思った。
 そして始まった入試期間は、あっという間に過ぎていった。澪は第一志望には受からなかったものの、第二志望にしていた大学から、ある日合格通知が届いた。両親は大いに喜び、澪を祝福した。親にこんなに褒めてもらえるのなんていつぶりだろうと澪は思った。
 澪はその足で自分の部屋に行き、三年生になってからはずっと封印していた携帯電話を取り出した。この喜びと感謝を早く伝えたいと思った。
 しかし携帯電話のロックを解除したところで、はて、と澪は思った。自分はいま、何をしようとしていたのだろう。たしか、だれかに連絡をしようと思っていた気がするのだが、それがだれなのかどうしても思い出せなかった。
 両親への報告は済ませたし、友人と呼べるような相手は自分にはいない。電話帳を見れば思い出すかと思い上から順に見てみるが、ぴんとくる名前は特になかった。ただ一件、登録した覚えのない「まお先生」という見知らぬ人物の電話番号が見つかっただけで。
 それから一か月あまりが過ぎた。いよいよ来週から始まる大学生活を前に、澪は期待よりも不安のほうが大きかった。まともに学校に通うのは中学のとき以来だ。自分はうまくやっていけるのだろうか。考えだすと、必ず眠れなくなった。
 だがそんなとき、ふと澪の中に浮かんでくる言葉があった。それは男のような、女のような声で、澪の脳内で再生された。
 ――大学に毎日通うことなど、遊技場に毎日通うことと大差ないではないか。
 なんだそれ、と我ながら苦笑してしまう。しかしそれを思うたび、かつて似たようなことをだれかに言われたような、不思議となつかしく心地よい感覚に澪は包まれるのだった。
 全然違うと思うけど。でも、がんばってみよう。