澪が家に帰ると、居間にいる母親がテレビに視線を向けたまま「おかえり」と言った。
「ただいま」
それだけ言うと、澪は階上の自室へと向かった。ドアを開け中に入ると、ついさっきクレーンゲームで獲得した「たまゴン」のぬいぐるみを「つみれちゃん」の隣に置く。これで十二種類すべて集まった。次は何を集めようか。『寄せ鍋の妖精』シリーズとかいいかな、かわいいし。などと澪は考える。
ぬいぐるみを集めることは澪の数少ない趣味のひとつと言えた。それに興じている間は、ほかの面倒なことについて考えずに済む。勉強のこととか、将来のこととか。
澪は中学のときに起立性調節障害を患った。朝起きて学校に行くのが困難になり、次第に休みがちになった。そして最終的に完全に行かなくなった。
高校も全日制は難しいだろうということから、通信制高校に進学した。自宅で勉強を続けながら症状の改善を目指したが、病気はなかなか良くならなかった。フリースクールに顔を出したり、通信制サポート校と呼ばれる塾のような場所に通っていた時期もあったが、どちらも長続きはしなかった。運動不足解消のためにダンスを習いはじめたこともあったが、それもいまはもうやっていない。
両親はいつからか、澪をどこか諦めたような顔で見るようになっていた。少なくとも澪の目にはそう見えた。両親だけではない。澪に関わるすべてのおとなは、澪を見るときみな似たような顔をする。そのうち澪自身もまた、鏡に映る自分をかれらと同じような顔で見るようになった。そのことに澪本人が気づいているかどうかは別として。
トイレに行こうと階下におりると、母親が澪に声をかけてきた。母親はさっき見たときと同じ姿勢でテレビを観ていた。
「新しい先生、五時からだから」
「うん、覚えてる」
あ、そう。母親はまたテレビに向きなおった。澪は用を足し、自分の部屋に帰った。
去年から家に来ていた家庭教師が先日辞め、今日から新しい教師が来ることになっていた。前に来ていた人と同じで、大学生の女の人らしい。
前に来ていた教師は澪に勉強を教えることはせず、だいたいいつも澪の部屋にあるマンガを読んでいるか、携帯電話でSNSをチェックしているかだった。澪としてもべつにそれでかまわなかった。澪にとって家庭教師とは、高校に提出するレポートの期限が迫っているときに代わりにやってもらう人でしかなかった。親もたぶんそのつもりで雇っているのだろうと澪は思っていた。レポートさえ出しておけば高校は卒業できるのだし、まさか自分が大学に行けるとはきっと両親も思ってはいまい。自分自身が思っていないのと同じように。
なんだか少し頭が痛くなってきた澪は、『おでん御殿』のぬいぐるみたちの配置換えを始めた。今日獲得した「たまゴン」を中心とした新たな配置について考えだすと、頭の痛みは次第におさまってきた。
「こ、これは――」
山田と名のる家庭教師は澪の部屋に入るなり、まっさきに『おでん御殿』のぬいぐるみのほうに向かった。
「あれ。知ってるんだ、『おでん御殿』」
「す、すべて集めたのか」
「毎日ゲーセン通って、ちょっとずつね。まあ暇だからさ。ていうかなに? もしかして先生も集めてるとか?」
「全種類集めることを目標としている」
「まじ? あはは、なんかうける。ねえ、じゃあさ、今度一緒にゲーセン行こうよ。取り方教えてあげるからさ」
「なんと。……い、いや、しかし。それだとまたこちらが一方的に得をすることに……」
「え、なに?」
「なんでもない。それよりもいまは勉強だ。これより授業をとりおこなう」
山田はバッグから問題集を取り出し、机の上に並べはじめた。澪はあわててそれを制止する。山田はきょとんとした顔で澪を見た。
「あたし通信だし、そんなにガチでやんなくても大丈夫なんで。レポートの提出期限が近くなったらちょっと手伝ってもらうこともあると思うけど、それまではまあ、先生も適当に時間を過ごしてもらっていいから。マンガ読んだり、ケータイいじったり」
「しかし、家庭教師は勉強を教えるのが務めであると聞いているが」
「大丈夫、大丈夫。前の人もべつに授業なんかしなかったし、その前の人も基本ずっとマンガ読んでるだけだったから」
「しかし」
山田はいまだ決めかねるといった様子で問題集と澪を交互に見る。この人意外とまじめな人なのかな、と澪は少し面倒くさく感じはじめた。
「大丈夫だって、親にはチクんないし。ていうか親もたぶんわかってると思うしさ。だから思う存分サボっちゃってよ。ぶっちゃけ先生だって、そっちのほうが楽でしょ?」
「だがこの時間は、そなたが勉強をするために買われた時間なのではないか? 人間にとって時間は有限なのだし、あまり無駄にしないほうがよいと思うのだが」
「ああもう、うるさいな。いいのあたしはべつに勉強なんかしなくたって。勉強したって大学に行けるわけでもないんだし、そっちのほうがむだでしょ」
「大学? そなた、大学に行きたいのか」
「え? ……いや、べつに。……無理だし」
「違ったのか。それがそなたの望みかと思ったのだが」
「望みっていうか……まあ、行けるなら……そりゃ、行きたいけど」
「なんだ、やはり行きたいのか? どっちなのだ。はっきりと申せ」
「……行けるなら、まあ」
「大学に行きたい。それがそなたの望みなのだな?」
澪はこくんと頷いた。まあ無理だけど、とぶつぶつ呟きながら。すると山田はなにやら満足そうな顔で、そうかそうか、と何度か首を振った。
「では、そなたの望みを叶えてしんぜよう」
「は? どうやって?」
「簡単なことだ。勉強をすればよい。必要な知識を身につけ、しかるべき試験に合格すれば大学へ行くことができる。家庭教師として潜にゅ……いや、そなたの家に来るにあたって、事前に調べておいたのだ。どうだ、驚いたか」
「それくらいあたしだって知ってるよ。それが無理だって言ってるの」
「なぜ」
「なぜって。だってあたし、すごい、バカだし……。なにやっても、長続きしないし……」
言っているうちに、澪の声は小さくなっていった。自覚していることではあるが、あえて口に出すのは気分のよいことではなかった。しかし山田はそれを聞くと、はっはっは、と豪快に笑いだした。
「心配することはない。この国の入学試験というものは、見たところ知性ではなく知識を測るためのもののようだ。日々こつこつと勉強をして、覚えるべきことを覚えれば、きっと合格できよう」
「……あたしでも?」
「そなたはむしろ向いているのではないか。そなた、あのぐうぞ――ぬいぐるみを、どうやって集めたのだ? 最初から機械を上手に動かせたか? 日々遊技場に通い、徐々に技術を高めていったのだろう。勉強も同じことだ。毎日続け、少しずつ知識を増やしていけばよい」
「全然、同じじゃないと思うけど」
山田の言うことはひどく非現実的に思えた。自分が大学に行けるなどとは、澪には到底信じられなかった。しかし澪は、ちょっとだけやってみようかな、という気になりはじめていた。自分を諦めた顔で見ない人間に、澪は不登校になって以来初めて出会った。