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3ー10・人生は、無理にでも人を前に進ませる。

ー/ー



 練習も無事終わり、皆で軽く食事もして、俺達は帰りの電車に乗っていた。
 車内には俺と宗志、美穂ちゃんと奈保ちゃんがいる。と言っても帰宅のラッシュに巻き込まれ、俺は美穂ちゃんと、宗志は奈保ちゃんとそれぞれ近くにいる状況だ。
「奈保だいじょぶかな……」
 美穂ちゃんはチラチラと車両の反対側にいる奈保ちゃんを見ている。宗志と2人っきりという状況が心配なのだろう。奴の軽薄さは俺から聞いているので、不安なのかもしれないが――
「大丈夫じゃない? ほら、奈保ちゃんしっかりしてるし」
「え? そんなことないですよ? 奈保はカッコいい男の人の前だとへにゃへにゃですから」
「え? そうなの? なんか意外だな……奈保ちゃんってそういう子だったんだ……」
 チラッと俺も宗志と奈保ちゃんを見る。そう言われてみると心なしか奈保ちゃんの顔がいつもより和らいでいるような。
「まぁどうりでカッコよくない俺には厳しいわけだ……」
「あははは、日之太さんには私がいるじゃないですか」
 ひそかに落ち込んでいると美穂ちゃんが笑いながら二の腕をぽんぽんと叩いてくれた。カッコよくないという部分は否定してくれないらしい。
 とはいえ年下の女の子に気を遣われてしまうのも良くない。そう思ったところで丁度電車が駅に着き、俺の目の前の座席が空いた。
「美穂ちゃん座って」
 スッとズレて彼女に座るよう促す。美穂ちゃんは「わっ、ありがとうございます」と言いながら空いた席に座る。
 電車の扉が閉まり、再び動き出す。つり革を掴んで揺られていると前から視線を感じる。その場で下を向くと、美穂ちゃんがジーっとこちらを見上げていた。
「どうしたの? 美穂ちゃん」
「あっ、あの。日之太さん疲れてないかなって思って」
「明日は筋肉痛だよ」
 はははっと笑ってみせる。美穂ちゃんはクスっと笑い、空いている俺の左手に触れてくる。
「……美穂ちゃん?」
 電車内でいきなり手を握ってくるなんて。意外と大胆な子だ。
 こんなところ奈保ちゃんに見られたらぶっ飛ばされるな。宗志と奈保ちゃんの姿を電車の窓に見つけるが、幸いなことに気付かれていないようだった。
「日之太さんって、レフティだったんですね」
「ん? あぁ、そうだね。うん」
「……テニス、またやりたいですか?」
 オレンジ色の瞳が俺を覗き込む。突然の質問に俺は目を見開き、口をつぐむ。
 夏の大会を棄権した俺は、調子を取り戻すために様々なアプローチを試した。
 だが結果はこの通り。上手くいくことはなかった。進学の話もあったので、一度テニスから離れたらどうかという顧問の話を深く考えず了承し、そして、二度と戻れなくなったのだ。
 今でもテニスは好きだ。試合中継は見るし、宗志がいるテニス部の試合も観に行ったりする。
 でも、戻りたいかと訊かれると、分からない。
 俺は今21歳。もう21だ。プロとして世界へ出るには遅すぎる。
 イップスが克服できたとしても、それはマイナスからゼロに戻っただけ。
 なにより、またテニスをやりたいという情熱が、今の俺に残っているのか。あの――なにもかも捕まえて、夢中になって進むあの情熱。
 心配そうに美穂ちゃんが見上げる。俺はフッと力なく笑い、彼女の手をそっと握り返した。
「今はいいかな。うん、いいんだよ」
 ゆっくりと顔をあげ、ジッと流れていく外の景色を眺める。
 3年前までテニスは俺にとって全てだった。
 だけど、あっけなく失った。空っぽになって、抜け殻のような人生を送るのだろうと、本気でそう思っていた。いや、そう思わなきゃこれまでが嘘になるからそう言い聞かせていたんだ。
 でも実際は違った。人生は、無理にでも人を前に進ませる。
 やがて電車が次の駅へと到着する。確かこの駅は美穂ちゃんの最寄り駅のはずだ。
 俺が声をかけるよりも先に美穂ちゃんが席を立つ。移動の邪魔にならないよう少しズレると、彼女がまた手を伸ばしてきた。
 さっきみたいに左手を掴むのではなく、スッと両肩に手を乗せてきたのだ。
「美穂ちゃん? どう――」
 どうしたのという言葉は、一瞬で行き場を失い立ち止まった。
 フルフルと震える、長いまつげ。揺れる髪から微かに感じるシャンプーの匂い。
 そして、唇の感触。柔らかくて、瑞々しい彼女の唇。
 プシューっと電車のドアが開く音が聴こえる。驚いて固まっていると、彼女が口を離した。
 オレンジ色の瞳が、俺を捉えて離さない。思わず左手を動かすが、躱されてしまう。
 宙に突き出した俺の手を見て、美穂ちゃんはオレンジ色の瞳を細めて笑った。
「日之太さん、寂しそうだったから」


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 車内には俺と宗志、美穂ちゃんと奈保ちゃんがいる。と言っても帰宅のラッシュに巻き込まれ、俺は美穂ちゃんと、宗志は奈保ちゃんとそれぞれ近くにいる状況だ。
「奈保だいじょぶかな……」
 美穂ちゃんはチラチラと車両の反対側にいる奈保ちゃんを見ている。宗志と2人っきりという状況が心配なのだろう。奴の軽薄さは俺から聞いているので、不安なのかもしれないが――
「大丈夫じゃない? ほら、奈保ちゃんしっかりしてるし」
「え? そんなことないですよ? 奈保はカッコいい男の人の前だとへにゃへにゃですから」
「え? そうなの? なんか意外だな……奈保ちゃんってそういう子だったんだ……」
 チラッと俺も宗志と奈保ちゃんを見る。そう言われてみると心なしか奈保ちゃんの顔がいつもより和らいでいるような。
「まぁどうりでカッコよくない俺には厳しいわけだ……」
「あははは、日之太さんには私がいるじゃないですか」
 ひそかに落ち込んでいると美穂ちゃんが笑いながら二の腕をぽんぽんと叩いてくれた。カッコよくないという部分は否定してくれないらしい。
 とはいえ年下の女の子に気を遣われてしまうのも良くない。そう思ったところで丁度電車が駅に着き、俺の目の前の座席が空いた。
「美穂ちゃん座って」
 スッとズレて彼女に座るよう促す。美穂ちゃんは「わっ、ありがとうございます」と言いながら空いた席に座る。
 電車の扉が閉まり、再び動き出す。つり革を掴んで揺られていると前から視線を感じる。その場で下を向くと、美穂ちゃんがジーっとこちらを見上げていた。
「どうしたの? 美穂ちゃん」
「あっ、あの。日之太さん疲れてないかなって思って」
「明日は筋肉痛だよ」
 はははっと笑ってみせる。美穂ちゃんはクスっと笑い、空いている俺の左手に触れてくる。
「……美穂ちゃん?」
 電車内でいきなり手を握ってくるなんて。意外と大胆な子だ。
 こんなところ奈保ちゃんに見られたらぶっ飛ばされるな。宗志と奈保ちゃんの姿を電車の窓に見つけるが、幸いなことに気付かれていないようだった。
「日之太さんって、レフティだったんですね」
「ん? あぁ、そうだね。うん」
「……テニス、またやりたいですか?」
 オレンジ色の瞳が俺を覗き込む。突然の質問に俺は目を見開き、口をつぐむ。
 夏の大会を棄権した俺は、調子を取り戻すために様々なアプローチを試した。
 だが結果はこの通り。上手くいくことはなかった。進学の話もあったので、一度テニスから離れたらどうかという顧問の話を深く考えず了承し、そして、二度と戻れなくなったのだ。
 今でもテニスは好きだ。試合中継は見るし、宗志がいるテニス部の試合も観に行ったりする。
 でも、戻りたいかと訊かれると、分からない。
 俺は今21歳。もう21だ。プロとして世界へ出るには遅すぎる。
 イップスが克服できたとしても、それはマイナスからゼロに戻っただけ。
 なにより、またテニスをやりたいという情熱が、今の俺に残っているのか。あの――なにもかも捕まえて、夢中になって進むあの情熱。
 心配そうに美穂ちゃんが見上げる。俺はフッと力なく笑い、彼女の手をそっと握り返した。
「今はいいかな。うん、いいんだよ」
 ゆっくりと顔をあげ、ジッと流れていく外の景色を眺める。
 3年前までテニスは俺にとって全てだった。
 だけど、あっけなく失った。空っぽになって、抜け殻のような人生を送るのだろうと、本気でそう思っていた。いや、そう思わなきゃこれまでが嘘になるからそう言い聞かせていたんだ。
 でも実際は違った。人生は、無理にでも人を前に進ませる。
 やがて電車が次の駅へと到着する。確かこの駅は美穂ちゃんの最寄り駅のはずだ。
 俺が声をかけるよりも先に美穂ちゃんが席を立つ。移動の邪魔にならないよう少しズレると、彼女がまた手を伸ばしてきた。
 さっきみたいに左手を掴むのではなく、スッと両肩に手を乗せてきたのだ。
「美穂ちゃん? どう――」
 どうしたのという言葉は、一瞬で行き場を失い立ち止まった。
 フルフルと震える、長いまつげ。揺れる髪から微かに感じるシャンプーの匂い。
 そして、唇の感触。柔らかくて、瑞々しい彼女の唇。
 プシューっと電車のドアが開く音が聴こえる。驚いて固まっていると、彼女が口を離した。
 オレンジ色の瞳が、俺を捉えて離さない。思わず左手を動かすが、躱されてしまう。
 宙に突き出した俺の手を見て、美穂ちゃんはオレンジ色の瞳を細めて笑った。
「日之太さん、寂しそうだったから」