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3-9・こちらこそ楽しかったと、嘘を吐いたのだ。

ー/ー



「……全国大会で優勝したとき、なんだか拍子抜けだった」
 歪むコートを眺めながら俺は語り始める。
 これはきっと自分の傷口を開く行為だ。宗志の言葉に倣うなら、虫歯の治療。黒くなってるところをドリルで削る行為。
「楽勝ってわけじゃなかった。かといって負けるとも思ってなかった。決勝のゲームはしんどかったけど、それでも、大方予想通りだったんだよ。俺にとってはね」
 優勝したその日の夜。ホテルで宗志にその話をしたら普通に引かれた。俺はお前が怖いと、面と向かって言われてしまったのだ。
「そんな風になんの感慨もなく優勝しちゃったからさ、こんなものかと思ったよ。しかもそれが2年生のときだったから3年生としての目標がなくなった」
 優勝してしばらくは忙しさから考える暇なんてなかったから大丈夫だったけど、だけど段々と、徐々に不安は大きくなっていった。次は何をしようという問いが俺の身体を締め付けた。
「やることがなくなって、燃え尽きちゃったんですか?」
「それもあるけど、ちょっと違うかな。えーっとね……」
 途中で言葉を切って、俺はスマホを取り出す。とあるプロの名前をネットで検索すると、彼がラケットを持った画像が出てくる。
「この人、ペドロ・アルボラン。知ってる?」
「し、知ってるもなにも、ATPランキング3位の選手じゃないですか」
「うん、18歳のときにさ、俺この人と試合してるんだよ。草試合ではあったけど」
「へぇ~……えぇっ!?」
 目をかっぴらいて驚く美穂ちゃん。そりゃそうだ。驚くだろ。俺も会ったときは驚いたし。
 ただ、当時の彼はまだそれほど有名じゃなかった。ホームのスペインではそれなりに名の知れた選手だったが、日本ではまだ知る人ぞ知るくらいの知名度だったのだ。
「3年生の夏だった。大会前の平日に、突然やってきた。なんでも日本の友人に会うため来日してたらしくてね。それで、そのお友達が偶然うちの高校のOBだったってわけ」
「えぇ~すごい偶然。そんなことあるんですね」
「驚いたよ。日本の高校生チャンピオンと試合したいって。1セットだけやることになった」
 最初彼が友人と一緒に現れたとき、誰もその存在に気付いていなかった。コーチから紹介があってもやはりその頃まだ日本では知名度が低かったのでどこかピンと来なくて、皆距離感を測りあぐねていた。
 だが、彼がラケットを持ってコートに入ったその瞬間、空気が変わったんだ。
「強かった。というより、大きかった。身長の話じゃなくてなんかこう、存在感というか、オーラというか。スター性っていうのかな。相手をしている俺でもキラキラしてるって感じたよ」
 実力の差は歴然だった。俺が打つボールは悉く予想と違うコースに返され、サーブは触れることなく通り過ぎていく。
 彼がポイントを得るたびに歓声があがる。俺がなんとかポイントを取ると嘆声が漏れる。
 ホームだというのにまるでアウェイの空気だった。プレッシャーにギリギリと身体を締め付けられていつもの調子が出ない。
 コートが歪む。彼の姿が揺らぎ、自分の荒い呼吸音しか聴こえなくなる。
 気付けば俺は手に汗を搔いていて、まともにトスもできなくなっていた。
 それでもなんとかラケットを振った。弾に当たった瞬間ラケットがあらぬ方向へと飛んだ。
「勝てなかったどころじゃない。あまりにも酷い試合、いや、試合にすらなってなかった。あの日は、ありえないくらい長くて、ありえないくらい暑かった。いつの間にか俺は部室のベンチで仰向けになってて、周りには誰もいなかった」
 憶えていることで言えば、終わった後の彼との会話だった。英会話を勉強していた甲斐もあってか、簡単な会話くらいならできた。
『君と試合できて良かった。日本に来て良かった。いい経験ができたよ』
 彼は笑顔でそう言った。俺は意識もうろうとしながらもなんとかお礼を述べて、頭を下げた。こちらこそ楽しかったと、嘘を吐いたのだ。
「結局、その年の大会は1回戦で負けた。試合中に痙攣で途中棄権」
 美穂ちゃんが俺を見てショックを受けた顔をする。だが話はこれで終わりじゃない。むしろこれからだった。
「全国大会はなんとなく勝てたとか言っておいてこのザマだ。世界の壁は俺が思っていたより何倍もぶ厚くて高い。そして俺は自分が思っていたよりずっと意志が弱くて薄っぺらかった」
 俺の独白めいた語りに今度は悲しそうな顔をする美穂ちゃん。しかし事実だ。
 プロの選手と試合をしてから、上手くいかなくなった。トスが狂い、ラケットが握れない。コートに立っているだけで気分が悪くなる。
 テニス選手としての佐古日之太は、とっくにダメになっていたのだ。
「本当にショックだったのは負けたことじゃないんだ。自分の実力がプロに通じなくて、俺は悔しかった。だけど、そこから立ち上がることができなかった。イップスになって、苦しんで、それでもまだ、と思えなかったのがショックだった。そして、イップスも克服できなくて、テニスを手放す決断をしたことに、どこか安心している自分がいるのも許せなかった」
 幼い頃からやっていたテニスを辞める。プロになったとき必要だからと思って英語も英会話も勉強していたのに、無駄になってしまった――だというのに、俺は苦しみから逃れられたことに喜んでいた。
「最初からプロになんてなれなかったんだ。たった1回の敗北で心が折れて、しかもそこから這い上がろうとしなかった。結局出来上がったのは今の自分だ。本当に、情けないよ」
 言い切ったところで左手にぬくもりが生まれる。
 美穂ちゃんが俺の左手をソッと包み込むように、両手で触れていた。
「……どうして、今日の練習、断らなかったんですか」
 そのオレンジ色の瞳に、涙を浮かべながら彼女が詰めてくる。
 さっきまでわずかに距離が空いていたというのに、今やぴったりとくっついて、顔も近い。
「日之太さん今日1回もサーブ打ってないし、途中で何度も手のひら拭いてました。ボールを全然追わなかったのは、走れなかったからなんですよね?」
 まいった。上手く隠して胡麻化していたつもりだったが、普通にバレていたらしい。
 彼女の大きな目から涙がこぼれそうになる。俺はその場で右手を動かしてスッと涙を拭う。
 だが美穂ちゃんの表情は変わらない。悲しんでるような怒ってるような、そんな表情だった。
「私にだけでも言ってくれれば、全部、言う必要はなくても、イップスなんだって言ってくれれば、私の方から奈保に連絡して、断ることだってできたのに。なんでこんな……」
「宗志に言われたんだよ。トラウマは自然治癒しないって。あとは奈保ちゃんからの敵意を和らげたかったから、とかかな」
 ちょっとちょけた感じで答えて笑ってみせる。しかし美穂ちゃんは変わらず涙目で俺を見つめてくるだけだ。
「……いたくないんですか?」
「痛い? いや、そんなことは……あぁ、大丈夫だよ。今は」
 スリスリと美穂ちゃんが俺の手をさする。きっと、心配してくれてるんだろう。身体以上に、心のことも。
「本当ですか? 私、そういうの分からないから。本当につらかったら、ちゃんと言ってください」
「……ありがとう。大丈夫だよ」
 美穂ちゃんが切なそうに俺を見上げる。困った。なんて言えば笑ってくれるのだろうか。この子が苦しんだり悲しんだりしている顔はどうにも苦手だ。心がザワつく。
 涙で潤んでいるオレンジ色の瞳を見つめ、俺は肩をすくめて笑う。
「それに、今日来たのはもうひとつ理由あるよ」
「え? なんですか?」
 首を傾げる美穂ちゃん。俺は彼女の手をそっと握り返した。
「美穂ちゃんにいいところを見せたかったから」




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 歪むコートを眺めながら俺は語り始める。
 これはきっと自分の傷口を開く行為だ。宗志の言葉に倣うなら、虫歯の治療。黒くなってるところをドリルで削る行為。
「楽勝ってわけじゃなかった。かといって負けるとも思ってなかった。決勝のゲームはしんどかったけど、それでも、大方予想通りだったんだよ。俺にとってはね」
 優勝したその日の夜。ホテルで宗志にその話をしたら普通に引かれた。俺はお前が怖いと、面と向かって言われてしまったのだ。
「そんな風になんの感慨もなく優勝しちゃったからさ、こんなものかと思ったよ。しかもそれが2年生のときだったから3年生としての目標がなくなった」
 優勝してしばらくは忙しさから考える暇なんてなかったから大丈夫だったけど、だけど段々と、徐々に不安は大きくなっていった。次は何をしようという問いが俺の身体を締め付けた。
「やることがなくなって、燃え尽きちゃったんですか?」
「それもあるけど、ちょっと違うかな。えーっとね……」
 途中で言葉を切って、俺はスマホを取り出す。とあるプロの名前をネットで検索すると、彼がラケットを持った画像が出てくる。
「この人、ペドロ・アルボラン。知ってる?」
「し、知ってるもなにも、ATPランキング3位の選手じゃないですか」
「うん、18歳のときにさ、俺この人と試合してるんだよ。草試合ではあったけど」
「へぇ~……えぇっ!?」
 目をかっぴらいて驚く美穂ちゃん。そりゃそうだ。驚くだろ。俺も会ったときは驚いたし。
 ただ、当時の彼はまだそれほど有名じゃなかった。ホームのスペインではそれなりに名の知れた選手だったが、日本ではまだ知る人ぞ知るくらいの知名度だったのだ。
「3年生の夏だった。大会前の平日に、突然やってきた。なんでも日本の友人に会うため来日してたらしくてね。それで、そのお友達が偶然うちの高校のOBだったってわけ」
「えぇ~すごい偶然。そんなことあるんですね」
「驚いたよ。日本の高校生チャンピオンと試合したいって。1セットだけやることになった」
 最初彼が友人と一緒に現れたとき、誰もその存在に気付いていなかった。コーチから紹介があってもやはりその頃まだ日本では知名度が低かったのでどこかピンと来なくて、皆距離感を測りあぐねていた。
 だが、彼がラケットを持ってコートに入ったその瞬間、空気が変わったんだ。
「強かった。というより、大きかった。身長の話じゃなくてなんかこう、存在感というか、オーラというか。スター性っていうのかな。相手をしている俺でもキラキラしてるって感じたよ」
 実力の差は歴然だった。俺が打つボールは悉く予想と違うコースに返され、サーブは触れることなく通り過ぎていく。
 彼がポイントを得るたびに歓声があがる。俺がなんとかポイントを取ると嘆声が漏れる。
 ホームだというのにまるでアウェイの空気だった。プレッシャーにギリギリと身体を締め付けられていつもの調子が出ない。
 コートが歪む。彼の姿が揺らぎ、自分の荒い呼吸音しか聴こえなくなる。
 気付けば俺は手に汗を搔いていて、まともにトスもできなくなっていた。
 それでもなんとかラケットを振った。弾に当たった瞬間ラケットがあらぬ方向へと飛んだ。
「勝てなかったどころじゃない。あまりにも酷い試合、いや、試合にすらなってなかった。あの日は、ありえないくらい長くて、ありえないくらい暑かった。いつの間にか俺は部室のベンチで仰向けになってて、周りには誰もいなかった」
 憶えていることで言えば、終わった後の彼との会話だった。英会話を勉強していた甲斐もあってか、簡単な会話くらいならできた。
『君と試合できて良かった。日本に来て良かった。いい経験ができたよ』
 彼は笑顔でそう言った。俺は意識もうろうとしながらもなんとかお礼を述べて、頭を下げた。こちらこそ楽しかったと、嘘を吐いたのだ。
「結局、その年の大会は1回戦で負けた。試合中に痙攣で途中棄権」
 美穂ちゃんが俺を見てショックを受けた顔をする。だが話はこれで終わりじゃない。むしろこれからだった。
「全国大会はなんとなく勝てたとか言っておいてこのザマだ。世界の壁は俺が思っていたより何倍もぶ厚くて高い。そして俺は自分が思っていたよりずっと意志が弱くて薄っぺらかった」
 俺の独白めいた語りに今度は悲しそうな顔をする美穂ちゃん。しかし事実だ。
 プロの選手と試合をしてから、上手くいかなくなった。トスが狂い、ラケットが握れない。コートに立っているだけで気分が悪くなる。
 テニス選手としての佐古日之太は、とっくにダメになっていたのだ。
「本当にショックだったのは負けたことじゃないんだ。自分の実力がプロに通じなくて、俺は悔しかった。だけど、そこから立ち上がることができなかった。イップスになって、苦しんで、それでもまだ、と思えなかったのがショックだった。そして、イップスも克服できなくて、テニスを手放す決断をしたことに、どこか安心している自分がいるのも許せなかった」
 幼い頃からやっていたテニスを辞める。プロになったとき必要だからと思って英語も英会話も勉強していたのに、無駄になってしまった――だというのに、俺は苦しみから逃れられたことに喜んでいた。
「最初からプロになんてなれなかったんだ。たった1回の敗北で心が折れて、しかもそこから這い上がろうとしなかった。結局出来上がったのは今の自分だ。本当に、情けないよ」
 言い切ったところで左手にぬくもりが生まれる。
 美穂ちゃんが俺の左手をソッと包み込むように、両手で触れていた。
「……どうして、今日の練習、断らなかったんですか」
 そのオレンジ色の瞳に、涙を浮かべながら彼女が詰めてくる。
 さっきまでわずかに距離が空いていたというのに、今やぴったりとくっついて、顔も近い。
「日之太さん今日1回もサーブ打ってないし、途中で何度も手のひら拭いてました。ボールを全然追わなかったのは、走れなかったからなんですよね?」
 まいった。上手く隠して胡麻化していたつもりだったが、普通にバレていたらしい。
 彼女の大きな目から涙がこぼれそうになる。俺はその場で右手を動かしてスッと涙を拭う。
 だが美穂ちゃんの表情は変わらない。悲しんでるような怒ってるような、そんな表情だった。
「私にだけでも言ってくれれば、全部、言う必要はなくても、イップスなんだって言ってくれれば、私の方から奈保に連絡して、断ることだってできたのに。なんでこんな……」
「宗志に言われたんだよ。トラウマは自然治癒しないって。あとは奈保ちゃんからの敵意を和らげたかったから、とかかな」
 ちょっとちょけた感じで答えて笑ってみせる。しかし美穂ちゃんは変わらず涙目で俺を見つめてくるだけだ。
「……いたくないんですか?」
「痛い? いや、そんなことは……あぁ、大丈夫だよ。今は」
 スリスリと美穂ちゃんが俺の手をさする。きっと、心配してくれてるんだろう。身体以上に、心のことも。
「本当ですか? 私、そういうの分からないから。本当につらかったら、ちゃんと言ってください」
「……ありがとう。大丈夫だよ」
 美穂ちゃんが切なそうに俺を見上げる。困った。なんて言えば笑ってくれるのだろうか。この子が苦しんだり悲しんだりしている顔はどうにも苦手だ。心がザワつく。
 涙で潤んでいるオレンジ色の瞳を見つめ、俺は肩をすくめて笑う。
「それに、今日来たのはもうひとつ理由あるよ」
「え? なんですか?」
 首を傾げる美穂ちゃん。俺は彼女の手をそっと握り返した。
「美穂ちゃんにいいところを見せたかったから」