練習を始めてからだいぶ時間が経った。
俺はひとまず壁際にあるベンチに腰を下ろし、皆が和気あいあいと練習している姿を眺める。
自分が思ってた以上に身体が鈍ってる。少ししか運動してないし、まともにプレーだってしていないというのに、なんだかドッと疲れてしまった。
「日之太さん、おつかれさまです」
ボーっと遠くを眺めていると、左隣から美穂ちゃんの声が聴こえてきた。顔をあげるとそこにはやっぱり美穂ちゃんがいて、にっこり微笑んでいる。
「どうぞ。うちの部でよく作ってるスペシャルドリンクですよ」
そう言って美穂ちゃんが水色のドリンクボトルを差し出してくる。ちょうど疲れていたので俺は「ありがとう」と言って受け取った。
空いたスペースに美穂ちゃんが座り――すぐにお尻をあげて距離を詰めてくる。
太もも同士が触れあいそうになって、ふわっと彼女の匂いが鼻腔をかすめ、一瞬だけドキッとしてしまう。
いつもと同じ距離といえばそれまでだが、それでもなんとなく意識してしまう。しかも今の俺は運動した後だから汗掻いてるし。
とりあえずタオルで汗を拭いて、その上から汗拭きシートを使う。ある程度清涼感を取り戻せたところで、美穂ちゃんから貰ったスペシャルドリンクを飲む。
しっかりとした冷たさと仄かな甘さ、そして酸っぱさが喉を通り過ぎる。運動して熱くなっていた身体が少しだけ冷えてくれた気がした。
「あーうまい。うん、美味しいよ」
「ほんとですか? ふふっ、良かった」
にこやかに笑いながら美穂ちゃんが両手を合わせる。
少し飲んでふたを閉めて、また練習を眺める。奥のコートでは宗志が指導しているのだが、それなりに上手くやっているようで楽しそうだ。
「白井さん、すっごい上手なんですね」
同じように美穂ちゃんも練習風景を眺めながら話す。今はちょうど実戦形式のラリーをやっているようで、宗志の方がハンデありで打ち合っている。
「そうだね、アイツも高校のときは結構いいとこまで行ってたし。大学でも上級生相手にして勝ったこともあるらしいし」
「えーすごい。そんなすごい人呼んじゃったんですね」
「呼んだのは俺だけど。まぁでも、それを言うなら皆の方がすごいと思うよ」
美穂ちゃんが可愛らしく小首を傾げる。俺はフッと笑ってベンチの背もたれに身を預けた。
「皆上手だよ。才能ある。俺が同じ年の頃は……まぁ、俺の方が上手かったけど」
「上手いんじゃないですか」
「さすがにね。でもマジで上手だよ。なによりやる気がある。部活が休みの日にわざわざやってきてさ、遊びもせずに練習なんて。いやぁ、偉いよほんとに」
様々な言葉で褒めると、美穂ちゃんの「そう、なんですね……」という声が聴こえてくる。
なんだか素直に受け止めきれてないような、そんな声だ。気になって視線を向けると、前を向いている美穂ちゃんの耳が赤くなっていた。
部員が褒められて照れているのだろうか。俺の知っているマネージャーはこんな素直で可愛い子じゃなかった。そもそも男子だったし。
というか、あんまり絡んだこともなかったからよく憶えていない。マネージャーだけじゃない。部員すら顔と名前が一致してなかった。
別に仲が悪いわけじゃなかったし、いじめられてるというわけでもなかった。ただ単純に、興味がなかったんだ。多分、お互いに。
要らぬ心配だと思うが、美穂ちゃんにはこうなってほしくない。もっとマネージャーとして、ひとりの部員として――
「そういえば、美穂ちゃんも昔は選手としてプレーしてたんだよね?」
つい先日、奈保ちゃんの家で見たクラブのトロフィーを思い出す。彼女は美穂ちゃんと一緒にダブルスとして出場して、そのときに貰ったと言っていた。
慢性的な不眠に見舞われている以外、美穂ちゃんに身体の故障は見受けられない。なぜ今彼女は選手としてではなく、マネージャーとしてテニス部で活動しているのだろうか。
「あーそうですね、昔はというか、中学生までは選手でした」
赤くなっていた彼女の耳が元の色へと戻っていく。俺と同じようにベンチの背もたれに寄りかかり、胸の下で指先を弄ぶ。
「なにかあったの? その、怪我とか?」
訊いてすぐに俺は後悔した。もしデリケートな問題だったら――これまでやってたテニスを辞めてるんだぞ。デリケートな問題に決まってる――かなり無神経だ。
むずむずと口の中で舌を動かして、親指の爪で鼻の頭を掻く。
「あーえっと、話したくなかったら別に――」
「中学生のとき、試合中に怪我をしちゃったんです。それでママが危ないからもうだめって」
俺の言葉を遮って美穂ちゃんが説明する。
こんなこと思うのもアレだが、思っていたよりもあっさりとした理由だ。試合中の怪我だなんて、そりゃまぁ親から見れば大変なことかもしれないが、普通にあるだろうに。
不眠の対策として病院へ行った方がいいと勧めたときも、彼女は確か親に心配かけたくないと言っていた。察するに美穂ちゃんの両親、特にお母さんは結構に過保護なのかもしれない。
しかし美穂ちゃんはそれで納得しているのだろうか。怪我の度合いがどんなものか分からないが、一度怪我したくらいで辞めさせられるなんて。
「ママに辞めなさいって言われて、私もなんかもういっかなって思ってたんです。だけど、奈保がマネージャーでもいいから一緒にやろうよって言ってくれて……」
語りながら、美穂ちゃんはコートで練習をしている奈保ちゃんを見る。きっと奈保ちゃんは許せなかったんだろう。親友がいないテニスに、堪えられなかったのかもしれない。
美穂ちゃんをマネージャーへと誘ったのは、言ってしまえば奈保ちゃんのわがままだ。だけど、美穂ちゃんがそれを了承したということは、彼女もきっと、どこかでテニスから離れたくないという想いを抱えていたのだろう。
だから今彼女はマネージャーとしてここにいる。持ち前の優しさと明るさで、きっと部員の助けになっているはず。
「……日之太さんは、なんでテニス辞めちゃったんですか。高校生チャンピオンになったのに」
美穂ちゃんの話を聞いたところで、彼女が同じ質問をしてきた。
さすがに訊かれるか。確かに、俺だって身体に故障があるわけじゃないし。
スッと顔をあげる。記憶の蓋をわずかに開けただけでもあの時の記憶が鮮明に蘇る。
視界の中にあるテニスコートにどこかから陽射しがさし込んだ。コートに立っている宗志が陽炎みたいに揺れて、その姿が変わっていく。
そして手前側にはあのときの俺がいた。肩で息をして動けないでいる。手に汗を掻いてラケットが滑り落ちる。
あのときもこんな、酷く暑い夏だった。