ある朝目を覚ますと、ベッドにユウくんがいなかった。ほかの部屋にもいない。最近ユウくんは、ときどきこうしてふっといなくなるときがある。ひとりで家にいても退屈なので、わたしは外に散歩に出ることにした。
外はあまりいい天気じゃなかった。空に雲が目立つ。そのまましばらく歩きつづけて、すこし疲れたのでベンチで休んでいると、頭にぽつりと水滴が落ちてきた。ああ、降ってきちゃった。しかたない帰ろう、とベンチから立ち上がると、ふいに頭のなかにある映像が流れた。
映像のなかには、わたしがいた。バス停のベンチに座ってバスを待っている。バス停に屋根はなく、いまと同じように雨が降っていた。
そこへ、ひとりの男の人が現れた。男の人はユウくんだ。ユウくんは座っているわたしの前まで来ると、「よかったら」と遠慮がちに傘を差し出した。
「その、風邪、ひいちゃいますから」
「……ありがとう、ございます」
バスはなかなかやってこなかった。そのうち、後ろに並んでいる人たちが「バス、止まってるってよ」と話している声が聞こえてきた。
「なんか、しばらく来ないみたいですね」
ユウくんが言った。運行状況を確認していた携帯電話から顔を上げ、「ですね」とわたしはうなずいた。電車だと少し遠まわりになるけれど、このままバスを待つよりは早いだろう。わたしはベンチから立ち上がった。
「傘、ありがとうございました」
「あ、あの」
頭を下げ、その場から去ろうとしたわたしをユウくんが呼び止めた。ユウくんはなんだかもじもじとしていて、なかなか用件を切り出さない。
「あの……」
わたしが声をかけると、ユウくんは弾かれたように背をしゃんと伸ばし、小さく息を吸ってから言った。
「よ、よかったら、一緒に近くのファミレスにでもい、行きませんか?」
「は? ……あなたと?」
「は、はい。なんか、バス、しばらく来ないみたいだし、どこかで食事でもしながら待つっていうのは、どうかなあ、って……」
「はあ……」
わたしは訝しむように眉を寄せた。
「あ、あの、えっと、僕、この近くにある会社に勤めてるんですけど、その、よくここでバスを待っているあなたをお見かけしていて、い、一度、お話がしてみたいなって思うようになって、それで声をかけたんです。だ、だから、えっと、決してあやしい者ではなくて、ですね、あ、あなたを騙そうとか、変な勧誘をしようとか、そういう、悪いことを企んでいるわけでは、決して……あ、で、でも、嫌だったら、全然、断ってくれてかまいませんし、それで逆恨みしてストーカーみたいになるとか、絶対しないですし……ああ、いや、違う、なに言ってるんだろう。すいません、こんなこと言ったら逆に怖いですよね……ほんと、すいません……。ええと、そうじゃなくて、その、つまり――」
ユウくんはひとりでしゃべって、ひとりで申し訳なさそうにしていた。ああもうなに言ってるんだ僕は、そうじゃなくて、ええと、とあわてながら一生懸命に話しているユウくんの様子を見ていたら、なんだかおかしくなってきて、わたしはつい噴き出してしまった。
「……すいません。あやしくないってことを伝えたかったはずなのに、僕いま、めちゃめちゃあやしいやつですよね……」
「はい。あなた、すっごくあやしいです」
わたしは笑いながらそう言った。
映像はそこで途切れた。視界には再び、降りだしたばかりの雨が映った。いまのは、記憶。わたしとユウくんの、もうひとつの出会いの記憶だ。
わたしは家に向かって歩きはじめた。手を傘代わりにしながら、来た道を戻った。
ドアを開けると、家の中にユウくんの気配があった。ユウくんはリビングにいた。「おかえり」と、わたしを見て微笑む。
「それ、なあに?」
リビングのテーブルの上に白い箱が載っていた。
「ケーキだよ」
「ケーキ?」
「今日は僕と紗羽が出会った記念日だから」
そう言ってユウくんはまたやさしく微笑む。ユウくんは記念日を大事にするタイプの死神なのだ。わたしはうれしくなって、ユウくんに思いきり飛びついた。
ケーキはわたしの大好きなティラミスだった。ユウくんはわたしの好みをちゃんと覚えていてくれる。それだけでも充分なのに、なんとユウくんはプレゼントまで用意してくれていた。これまでにふたりで撮った写真がたくさん収められたアルバム。本当にユウくんは、なんて素敵な死神なんだろう。
「ユウくん」
「紗羽」
ユウくんの唇がわたしの唇に触れる。ふわりとあまい、ティラミス味のキス。
わたしたちは残りのティラミスを食べながら、アルバムの写真を眺めた。笑っているわたし、笑っているユウくん、はしゃいでいるわたし、ちょっと困ったような顔で微笑むユウくん。
わたしとユウくんはいつも一緒だった。わたしの時間のなかにユウくんがいて、ユウくんの時間のなかにわたしがいる。出会ったときからずっと。生まれたときからずっと。
「ユウくん」
「なあに、紗羽?」
「幸せ」
「僕も、紗羽と一緒にいられて幸せだよ」
ユウくんがわたしの肩を抱き寄せる。わたしはユウくんの肩に自分の頭を乗せる。ユウくん、いいにおいがする。紗羽もいいにおいがするよ。わたしたちからはどんなにおいがしているんだろう。似たにおいなのかな。それとも、ちょっとちがっているのかな。
その夜も、わたしはユウくんの腕のなかで眠った。ユウくんのあまいにおいに包まれながら、わたしは夢を見る。