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悲しい雨

ー/ー



 声をかき消すほどの豪雨が、カルント山を激しく打っていた。

 ミュールは弟のガロの手を強く握り、視界の悪い獣道を一気に駆け下りる。木々がざわめき、冷たい風が吹き荒れる。ぬかるんだ地面に、何度も足を取られそうになった。
 
「兄ちゃん、里が……」

 ガロの震える声が耳に届く。ミュールは振り向かず、弟の小さな手を強く握り返した。

 守らなければならない。今は、それだけだった。
 
 ガロは今年で十二歳になる。小柄で、体もあまり丈夫ではない。けれど稽古だけはだれよりも熱心だった。いつか父ちゃんや兄ちゃんみたいに強い男になるんだ、と、いつもにこにこ笑っていた。
 
「父ちゃんは? アリシア姉ちゃんは? 里のみんなはどうなっちゃったの?」
 
 か細い声がまた耳に届く。
 
「大丈夫だから、走れ!」
 
 それを言うのが精一杯だった。

 本当は、里のみんなを見捨てたくない。でも今は、振り返らず走るしかなかった。
 
 モッケ族の里が襲われたのは突然だった。結界が破られ、魔族の大群が雪崩れ込んできた。戦える者たちは必死に応戦したが、敵の数が多すぎた。

 里は炎に呑まれ、夜の中で赤く燃えていた。悲鳴が響き、揺れる影が闇に溶けていく。
 
「ガロを連れて逃げろ」
 
 ミュールの父であり、族長でもあるウォルゼはそう言って、戦の前へ出た。ミュールは「オレも戦う」と食い下がったが、断固として退けられた。
 
「里を、頼む」
 
 最後に残したその言葉が、頭の中で何度もよみがえる。

 里を頼むって何だよ。
 オレはまだ――
 
 背後で、獣の咆哮が轟いた。

 雨音に混じって、土を踏み荒らす音が迫ってくる。ミュールは足を止めずに振り向き、目を凝らした。闇の中で、無数の目が不気味に光っている。四足歩行の獣型魔族だった。
 
「兄ちゃん、来るよ!」

 ガロの狼のような耳が、ぴくぴくと震える。
 
 草木が揺れた。次の瞬間、魔族たちが一斉に飛びかかってくる。
 
「くそっ!」
 
 ミュールは弟の手を離し、爪付きのガントレットを構えた。迫ってきた一匹へ掌底を叩き込む。胴をえぐる音とともに、魔族が絶命した。
 
「まだ来てる!」
 
 ガロの声が焦りを帯びる。小さくふわふわした尻尾が逆立っていた。
 
「わかってる!」
 
 次から次へと魔族が飛びかかってくる。数が多い。だが、守らなければならない。
 
「うおおおっ!」
 
 爪一閃。三匹の胴体をまとめて引き裂く。黒い血が噴き出し、ミュールの頬を濡らした。
 
「はぁ、はぁ」
 
 ようやく魔族の気配が消える。だが、立ち止まってはいられない。

 ミュールは荒い息を吐きながら、再び弟の手をつかんだ。
 
「行くぞ、ガロ」
 
「う、うん」
 
 二人は再び走り出した。
 
 やがて視界がひらけ、崖の上の細い道へ出る。崖下では、川がごうごうと唸っていた。
 
「うわぁっ」
 
 ガロがぬかるみに足を取られ、転ぶ。
 
「ガロ!」
 
 ミュールはすぐに駆け寄り、弟の肩を抱いて引き起こした。幼い体の震えが、はっきりと伝わってくる。
 
「大丈夫か」
 
「うん、大丈夫。ありがとう」
 
 ガロが八重歯を見せ、ぎこちなく笑った。
 
「よぉ、かわいいお二人さん。こんな雨の中どこへ行くんだ?」
 
 低く重い声が、ミュールの全身を凍らせた。
 
 崖の反対側、木々の闇の中から現れたのは、竜人型の魔族だった。全身を黒い鱗に覆い、禍々しい翼を背に広げ、太い尻尾をゆっくり揺らしている。

 二メートルを超える巨体が一歩近づくたび、地面が揺れ、空気が震えた。
 
 圧倒的な威圧感が、ミュールの足を縛りつける。

 雨脚がさらに強まる。崖下を流れる川の勢いも増していた。
 
「チッ、モッケ族とやらがどれだけ強いか楽しみにしてたのによぉ。これじゃあ拍子抜けだぜ」
 
 竜人型の魔族は嘲るように鼻で笑い、手にした長い葉巻へ目を落とした。
 
「こんな雨じゃ葉巻だってまともに吸えねぇ。イラつくぜ」
 
 鋭い視線が、ミュールとガロへ向く。
 
「で、お前らは少しでも楽しませてくれるのか? あ?」
 
 ミュールは、回らない頭で必死に考えた。

 一撃を入れて、ひるんだ隙に逃げる。それしかない。
 
 小さく息を吐く。
 
「ガロ、オレが手を離したら走れ。兄ちゃんもすぐ行く」
 
 ミュールの小声に、ガロはこくりとうなずいた。
 
「いくぞ」
 
 地を蹴った。

 次の瞬間、猛烈な衝撃が全身を貫き、視界が跳ね上がった。
 
 ――え?
 
 何が起きたのか、理解できない。
 
「ぐぶぉぁ……」
 
 仰向けに倒れたミュールの口から血がこぼれる。激痛が全身を駆け巡った。
 
「兄ちゃん!」
 
「やっぱり弱すぎる。もっと歯ごたえのあるやつはいないのか? オレ様は飢えてるんだよ」
 
 竜人型の魔族は、手についた血を乱暴に振り払って舌打ちした。
 
「さて、次はお前の番だ」
 
 異常な殺意が、ガロへ向かう。
 
「ガキ、お前は楽しませてくれるのか?」
 
「ぼ、ぼくは、父ちゃん、族長の息子なん、だ。お、お前なんかに負けないくらい強いんだ」
 
 ガロは震える両手を固く握りしめ、顎を無理やり上げた。
 
「ハッ! 面白ぇ。これまでの連中とは少し違うな」
 
 厚みのある笑い声が、雨音をかき消してミュールの耳へ届く。
 
 鋭い爪が、ガロへゆっくり伸びていく。

 やめろ。やめてくれ――
 
 胸が苦しく締めつけられる。体が動かない。何もできない。目の前で弟の命が奪われようとしているのに、名前も呼べない。逃げろ、と叫ぶことすらできない。声が喉の奥で詰まった。
 
「あばよ」
 
 凶悪な爪がガロを貫く瞬間、心臓が止まったような気がした。
 
 次の瞬間、ミュールの目の前には、鮮血が雨の中に舞い散る光景が広がっていた。
 
 嘘だ。嘘だ――
 
 竜人型の魔族の腕が、ガロの胴体を突き破っていた。
 
 ずるりと幼い体が地面へ崩れ落ちる。ガロは喉を引きつらせ、目を見開いたまま震えていた。裂けた傷口からあふれた血が雨と混ざり、ゆっくりと赤い湖を広げていく。
 
「仕上げといくか」
 
 竜人型の魔族はガロの体を鷲掴みにした。頭上まで持ち上げ、そのまま容赦なく地面へ叩きつける。血が乱雑に弾けた。

 ぐにゃりと横たわる幼い体を、冷たい目が見下ろしていた。
 
 稲光が走る。
 
「貴様ぁぁッ!」
 
 ミュールは無理やり体を起こし、突進した。痛みは、もう感じなかった。どす黒い感情だけが渦巻いている。
 
 殺す。殺してやる――
 
「やれやれ。スマートじゃねぇな」
 
 重い衝撃が全身を襲い、骨が砕けるような鈍い音が響く。
 
「がはっ――」
 
 ミュールの体は無慈悲に崖下へ弾き飛ばされた。
 
 冷たい水が鼻から喉へ流れ込み、呼吸を奪う。意識が遠のいていく中、最後に見えたのは、崖の上で微動だにしない弟の小さな体だった。

 ◇

「――そのあと、ロンのじーちゃんに助けられ、勇斗と出会ったんだ」

 ミュールの話が終わると、診療所の小部屋には張り詰めた静寂が満ちた。冷えた空気が肌を刺し、息づかいさえ重く感じられる。

 だれも何も言えなかった。

 音もなく、アリシアが立ち上がる。そっと手を伸ばし、ミュールの背中をさすった。

 ミュールは無言のまま俯いていた。虚ろな目が、木張りの床へ落ちている。

「アリシア! 急患! 手伝って!」

 突然、扉の向こうから叫び声が響いた。静寂を引き裂くような鋭い声だった。

「――ごめん、ミュール。仕事みたい。行ってくるね」

 アリシアは一瞬だけミュールを見つめ、それから白衣の裾をひるがえして、足早に部屋を出ていった。

 ミュールは、小さくうなずくだけだった。

 部屋に、また沈黙が落ちる。

 勇斗はミュールの横顔をそっとうかがった。笑顔の裏に消えない影が、そこにはあった。

「ミュール、大丈夫?」

 勇斗は唾を飲み込み、ようやく声を絞り出した。

「――ごめんな。もっと早く言うべきだったかな。みんなに心配をかけたくなかった」

 ミュールは肩をすくめ、口元だけで作ったような歪な笑みを浮かべた。

「へこんでる場合じゃないよな。よし、気を取り直してカルント山に向かうぞ」

 ミュールがゆっくり立ち上がり、扉へ向かって歩き出す。

「うん」

 勇斗もそのあとに続いた。

 診療所のロビーは、緊迫した空気に包まれていた。白衣を着た者たちが慌ただしく動き回り、低く重い声が飛び交っている。

 床に横たわる男のまわりには、医療スタッフが集まっていた。

 男は肩で息をし、衣服は血に染まっている。

「ひでぇな」

 ミュールが低くつぶやいた。

 勇斗は、無意識に口元を押さえていた。

「何があったのですか?」

 勇斗は近くにいた老人へ声をかけた。

「狩りの最中に、竜人型の魔族に襲われたらしい。致命傷を負いながらも逃げて、通りかかった旅人に助けられたんだとよ」

 勇斗の心臓が跳ねた。竜人型の魔族。もしかして――

 そっと横目でミュールを見る。

 ミュールは、恐ろしいほど険しい顔をしていた。こめかみに青筋が浮かび、強く握りしめた拳が小刻みに震えている。

 勇斗は思わず一歩引いた。

「あいつが」

 ミュールが、低くかすれた声でつぶやく。

「あいつが、いるのか」

 その言葉は、周囲の喧騒に呑まれて消えた。


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「里を、頼む」
 最後に残したその言葉が、頭の中で何度もよみがえる。
 里を頼むって何だよ。
 オレはまだ――
 背後で、獣の咆哮が轟いた。
 雨音に混じって、土を踏み荒らす音が迫ってくる。ミュールは足を止めずに振り向き、目を凝らした。闇の中で、無数の目が不気味に光っている。四足歩行の獣型魔族だった。
「兄ちゃん、来るよ!」
 ガロの狼のような耳が、ぴくぴくと震える。
 草木が揺れた。次の瞬間、魔族たちが一斉に飛びかかってくる。
「くそっ!」
 ミュールは弟の手を離し、爪付きのガントレットを構えた。迫ってきた一匹へ掌底を叩き込む。胴をえぐる音とともに、魔族が絶命した。
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「わかってる!」
 次から次へと魔族が飛びかかってくる。数が多い。だが、守らなければならない。
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「はぁ、はぁ」
 ようやく魔族の気配が消える。だが、立ち止まってはいられない。
 ミュールは荒い息を吐きながら、再び弟の手をつかんだ。
「行くぞ、ガロ」
「う、うん」
 二人は再び走り出した。
 やがて視界がひらけ、崖の上の細い道へ出る。崖下では、川がごうごうと唸っていた。
「うわぁっ」
 ガロがぬかるみに足を取られ、転ぶ。
「ガロ!」
 ミュールはすぐに駆け寄り、弟の肩を抱いて引き起こした。幼い体の震えが、はっきりと伝わってくる。
「大丈夫か」
「うん、大丈夫。ありがとう」
 ガロが八重歯を見せ、ぎこちなく笑った。
「よぉ、かわいいお二人さん。こんな雨の中どこへ行くんだ?」
 低く重い声が、ミュールの全身を凍らせた。
 崖の反対側、木々の闇の中から現れたのは、竜人型の魔族だった。全身を黒い鱗に覆い、禍々しい翼を背に広げ、太い尻尾をゆっくり揺らしている。
 二メートルを超える巨体が一歩近づくたび、地面が揺れ、空気が震えた。
 圧倒的な威圧感が、ミュールの足を縛りつける。
 雨脚がさらに強まる。崖下を流れる川の勢いも増していた。
「チッ、モッケ族とやらがどれだけ強いか楽しみにしてたのによぉ。これじゃあ拍子抜けだぜ」
 竜人型の魔族は嘲るように鼻で笑い、手にした長い葉巻へ目を落とした。
「こんな雨じゃ葉巻だってまともに吸えねぇ。イラつくぜ」
 鋭い視線が、ミュールとガロへ向く。
「で、お前らは少しでも楽しませてくれるのか? あ?」
 ミュールは、回らない頭で必死に考えた。
 一撃を入れて、ひるんだ隙に逃げる。それしかない。
 小さく息を吐く。
「ガロ、オレが手を離したら走れ。兄ちゃんもすぐ行く」
 ミュールの小声に、ガロはこくりとうなずいた。
「いくぞ」
 地を蹴った。
 次の瞬間、猛烈な衝撃が全身を貫き、視界が跳ね上がった。
 ――え?
 何が起きたのか、理解できない。
「ぐぶぉぁ……」
 仰向けに倒れたミュールの口から血がこぼれる。激痛が全身を駆け巡った。
「兄ちゃん!」
「やっぱり弱すぎる。もっと歯ごたえのあるやつはいないのか? オレ様は飢えてるんだよ」
 竜人型の魔族は、手についた血を乱暴に振り払って舌打ちした。
「さて、次はお前の番だ」
 異常な殺意が、ガロへ向かう。
「ガキ、お前は楽しませてくれるのか?」
「ぼ、ぼくは、父ちゃん、族長の息子なん、だ。お、お前なんかに負けないくらい強いんだ」
 ガロは震える両手を固く握りしめ、顎を無理やり上げた。
「ハッ! 面白ぇ。これまでの連中とは少し違うな」
 厚みのある笑い声が、雨音をかき消してミュールの耳へ届く。
 鋭い爪が、ガロへゆっくり伸びていく。
 やめろ。やめてくれ――
 胸が苦しく締めつけられる。体が動かない。何もできない。目の前で弟の命が奪われようとしているのに、名前も呼べない。逃げろ、と叫ぶことすらできない。声が喉の奥で詰まった。
「あばよ」
 凶悪な爪がガロを貫く瞬間、心臓が止まったような気がした。
 次の瞬間、ミュールの目の前には、鮮血が雨の中に舞い散る光景が広がっていた。
 嘘だ。嘘だ――
 竜人型の魔族の腕が、ガロの胴体を突き破っていた。
 ずるりと幼い体が地面へ崩れ落ちる。ガロは喉を引きつらせ、目を見開いたまま震えていた。裂けた傷口からあふれた血が雨と混ざり、ゆっくりと赤い湖を広げていく。
「仕上げといくか」
 竜人型の魔族はガロの体を鷲掴みにした。頭上まで持ち上げ、そのまま容赦なく地面へ叩きつける。血が乱雑に弾けた。
 ぐにゃりと横たわる幼い体を、冷たい目が見下ろしていた。
 稲光が走る。
「貴様ぁぁッ!」
 ミュールは無理やり体を起こし、突進した。痛みは、もう感じなかった。どす黒い感情だけが渦巻いている。
 殺す。殺してやる――
「やれやれ。スマートじゃねぇな」
 重い衝撃が全身を襲い、骨が砕けるような鈍い音が響く。
「がはっ――」
 ミュールの体は無慈悲に崖下へ弾き飛ばされた。
 冷たい水が鼻から喉へ流れ込み、呼吸を奪う。意識が遠のいていく中、最後に見えたのは、崖の上で微動だにしない弟の小さな体だった。
 ◇
「――そのあと、ロンのじーちゃんに助けられ、勇斗と出会ったんだ」
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 だれも何も言えなかった。
 音もなく、アリシアが立ち上がる。そっと手を伸ばし、ミュールの背中をさすった。
 ミュールは無言のまま俯いていた。虚ろな目が、木張りの床へ落ちている。
「アリシア! 急患! 手伝って!」
 突然、扉の向こうから叫び声が響いた。静寂を引き裂くような鋭い声だった。
「――ごめん、ミュール。仕事みたい。行ってくるね」
 アリシアは一瞬だけミュールを見つめ、それから白衣の裾をひるがえして、足早に部屋を出ていった。
 ミュールは、小さくうなずくだけだった。
 部屋に、また沈黙が落ちる。
 勇斗はミュールの横顔をそっとうかがった。笑顔の裏に消えない影が、そこにはあった。
「ミュール、大丈夫?」
 勇斗は唾を飲み込み、ようやく声を絞り出した。
「――ごめんな。もっと早く言うべきだったかな。みんなに心配をかけたくなかった」
 ミュールは肩をすくめ、口元だけで作ったような歪な笑みを浮かべた。
「へこんでる場合じゃないよな。よし、気を取り直してカルント山に向かうぞ」
 ミュールがゆっくり立ち上がり、扉へ向かって歩き出す。
「うん」
 勇斗もそのあとに続いた。
 診療所のロビーは、緊迫した空気に包まれていた。白衣を着た者たちが慌ただしく動き回り、低く重い声が飛び交っている。
 床に横たわる男のまわりには、医療スタッフが集まっていた。
 男は肩で息をし、衣服は血に染まっている。
「ひでぇな」
 ミュールが低くつぶやいた。
 勇斗は、無意識に口元を押さえていた。
「何があったのですか?」
 勇斗は近くにいた老人へ声をかけた。
「狩りの最中に、竜人型の魔族に襲われたらしい。致命傷を負いながらも逃げて、通りかかった旅人に助けられたんだとよ」
 勇斗の心臓が跳ねた。竜人型の魔族。もしかして――
 そっと横目でミュールを見る。
 ミュールは、恐ろしいほど険しい顔をしていた。こめかみに青筋が浮かび、強く握りしめた拳が小刻みに震えている。
 勇斗は思わず一歩引いた。
「あいつが」
 ミュールが、低くかすれた声でつぶやく。
「あいつが、いるのか」
 その言葉は、周囲の喧騒に呑まれて消えた。