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トトイの町

ー/ー



 精霊樹の枝から放たれる光は、モッケ族の里があるカルント山へ向かって、まっすぐ伸びていた。

 古びた塔を出て、一週間歩き続けた勇斗たちは、カルント山を望む高原の町トトイへたどり着いた。

 標高が高いせいか、空気はひんやりとしている。抜けるような青空の下、いくつもの風車がからからと回っていた。草花の香りがふんわりと鼻をくすぐる。ホルタやソレインとは違い、町は静かで穏やかな空気に包まれていた。

「この町で休憩してから、カルント山に登ろう。里への道は、オレが案内する」

 トトイの中心部から少し北へ歩くと、二軒の宿屋が並んでいた。片方は大いににぎわい、すでに満室。もう片方は客の気配すらなく、しんと静まり返っている。

 仕方なく、勇斗たちは閑散とした『風詩亭』へ足を踏み入れた。

「すまない。今は食事が出せないんだ」

 痩せこけたオーナーが、申し訳なさそうに頭を下げた。

「料理人が町はずれまで狩りに行ったきり戻ってこなくてね。もう三日になる」

「マジかよー、腹へってるのにー!」

 ランパが両頬を膨らませ、ぶーぶー文句を垂れている。

「三日も帰ってきてないなんて、何かあったんスかね。たとえば魔族に襲われてけがをしてるとか、あるいは――」

 チカップが髪をいじりながら眉をひそめた。

「いや、あの人は一流の狩人でもあるんだ。ここらの魔族なんかに負けるはずがない」

「でも、心配ですよ」

 勇斗が浮かない顔で辺りを見回す。

「ユート、他人の事情に首を突っ込んでいる場合ではありませんわ。他の宿を探しましょう」

 ソーマが勇斗の手を引いた。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんたら、料理ができるなら厨房を貸してやってもいい。食材も余りものを使っていい。その代わり、宿代を半額にしてやる。ど、どうだ?」

 慌てたオーナーが、カウンターを両手でばんと叩いた。

「何言ってんだオッサン?」

 ミュールが目を細める。

「こっちも切羽詰まってるんだよ。ここで客が来なきゃ、本当に潰れちまうんだ!」

「そんなにやばいんスか?」

「ああ。向かいの宿は繁盛してるってのに、うちだけ見向きもされない。それに料理人がいないって噂まで広まって、さらに客が寄りつかなくなった。持て余してる食材も、捨てるくらいならあんたらに使ってもらったほうがましだ。頼む!」

 オーナーは今にも泣き出しそうだった。

「ユート、どうする?」

「……ここにしようよ」

 勇斗が小さく言った。

「あ、ありがとうございますぅ! 五名さまご案内ー!」

 弾んだ大声が、がらんとしたフロアに響き渡った。


 厨房に入ったミュールは、慣れた手つきでエプロンをつけると、鋭い目つきで言った。

「よし、チカップ。まずはチビスケを黙らせてくれ」

「は? 何言ってんだワンコ」

「了解っス」

「おいおい、オイラは味見係だぞ。こんな大切な役を眠らせるなんてどうかして――」

 チカップの催眠魔法が発動すると、ランパはあっという間に豪快ないびきをかき始めた。

「念のため、縛っておきます?」

 ソーマがにやつく。

「そうだな。念には念を入れよう」

 ぐるぐる巻きにされながら、ぐーすか眠るランパを見て、勇斗はふと、しんみりした気持ちになった。
 でも、こうしておかないと、自分たちの食べる分は確実に減る。野宿のたびに、それは嫌というほど思い知らされてきた。

「じゃ、そろそろ始めるか」

 ミュールがナイフを握り、保存されていた獣の肉へ刃を入れた。さくさくと肉がさばかれていく。切り分けられた部位が、まな板の上へきれいに並んでいった。あまりの手際のよさに、勇斗は思わず見入ってしまう。

「お料理をするのは、何だか久しぶりですわね」

 パイ生地をこねているソーマが、ゆっくり目を閉じた。その隣では、チカップが野菜や果物を手際よく切っている。

「チカップも料理できるんだ。すごいね」

 勇斗が感心すると、チカップは少し照れくさそうに笑った。

「コノメに教えてもらったんス。男の子でも料理くらいできないとだめなんだって」

「へ、へぇ」

 みんな自然に手を動かしている。対して、自分はただ突っ立っているだけだ。勇斗は、胸の奥に焦りのようなものを覚えた。

「ユートも見てるだけじゃなくて、やってみたらどうだ?」

 ミュールが口角を上げ、白い歯を見せた。

「え、僕、一度も料理なんて」

「オレが教えてやるよ。料理できるようになると楽しいぞ?」

「う、うん……じゃあ、やってみる」

 ミュールは無造作に芋を一つ取り出し、勇斗へ差し出した。紫色の皮をした、手のひらほどの丸い芋だ。表面は滑らかで、ほんのり湿っている。

「まずはこれの皮を剥いてみろ」

 勇斗はナイフを手に取り、慎重に刃を当てた。次の瞬間、芋が手から滑りそうになる。冷や汗がにじんだ。

「刃先の角度が悪いんだよ。ほら、こうやるんだ」

 ミュールは芋を軽く持ち、流れるような手つきで皮をするすると剥いていく。無駄のない動きだった。

「ミュール、すごいや」

「経験の差ってやつだな。慣れたら簡単だよ」

「そ、そうなのかなぁ」

 勇斗は唇を噛みしめ、懸命に皮を剥き続けた。だが、丸かった芋は見るも無惨にでこぼこになっていく。焦るほど、手元がぎこちなくなる。

「力を抜けって。ナイフを動かすんじゃねぇ。指で芋を回すんだ」

 ミュールの助言が飛ぶ。

 勇斗は握る手の力を少し抜き、慎重に芋を回してみた。すると、驚くほど滑らかに皮が剥けた。

「これで、いいの?」

 勇斗がつぶやくと、ミュールは満足そうにうなずいた。

「ふふっ、お見事ですわ」

 ソーマが微笑みながら、軽く手を叩く。

 剣術を教わった時もそうだった。うまくできた瞬間の手応えは、何とも心地いい。はにかみながら、勇斗はきれいに皮が剥けた芋を見つめた。

「ガロも、こんなんだったな」

 ミュールがぼんやりと天井を見上げた。その表情には、ほんのわずかに影が差していた。

「ガロって?」

「……あ、いや、何でもない」

 ミュールはすぐ笑顔に戻り、ナイフを握り直した。

「さ、チビスケが起きる前に完成させるぞ。ユート、皮剥きあと十個頼むわ」

「う、うん」

 ミュールが一瞬だけ見せた、悲しそうな表情。あれは何だったのだろう。

 勇斗は胸の奥に小さな疑問を残したまま、次の芋をつかんだ。


 厨房に入ってから二時間後、風詩亭一階の酒場のテーブルには、できたてのパイとスープが並べられていた。

「いやぁ、余りものの食材でここまでの料理が作れるなんて。きみ、うちで働かない?」

 大きなジョッキを運んできたオーナーが、満足げにミュールを見つめた。

 ミュールは得意げに鼻を鳴らし、ビラードがなみなみと入ったジョッキを受け取った。

「悪い。今は大事な旅の途中なんだ。この旅が終わったら、考えてもいいかなぁ」

 そう言って、ミュールはジョッキを口に運んだ。

「きみ、モッケ族だよね。里の人?」

 オーナーの問いに、ミュールの狼のような耳がぴくっと動いた。

「あ、あぁ。そうだけど」

 オーナーは腕を組み、目を細める。

「大変だったね。モッケ族の里が魔族に襲われるなんて、考えもしなかったよ。この町もやばいのかなぁ」

 ミュールは何も言わず、ビラードを飲み続けた。ジョッキの中の黄色い液体が静かに揺れる。

「そうそう、この町の診療所にモッケ族の女性が半年前から働いてるんだ。もしかしたら、きみの知り合いかもしれない。行ってみたらどうだい?」

「診療所?」

「町の東側にある小さな診療所さ。地図を渡そうか?」

 そう言うと、オーナーは奥の部屋へ消えていった。

 ミュールはビラードを一気に飲み干した。

 それから、小さく息を吐いた。


 診療所へ向かったのは、勇斗とミュールの二人だけだった。チカップは宿に残り、腹を壊したランパの世話をしている。ソーマは「朝のお風呂を楽しみますわ」と言い出し、あっさり同行を断った。

「あそこかな」

 地図から目を離した勇斗が、旗を指さした。

 診療所は町の東側、広場のすぐ近くに建っていた。ロッジ風の建物で、屋根の上には大きな緑色の旗が翻っている。

 扉を押して中に入ると、ふわりとハーブの香りが鼻をくすぐった。木造の壁に囲まれた落ち着いた空間で、患者たちが椅子に座って順番を待っている。白衣をまとった医療スタッフたちが、忙しそうに行き来していた。

「こんにちは。今日はどうされました?」

 受付には二人の女性が座っていた。金髪をまとめた人間の女性と、猫耳のついたモッケ族の女性だ。

「え?」

 モッケ族の女性は、ミュールの姿を見た瞬間、息を呑み、手を口元に当てた。

「ミュールじゃない! 生きていたの!?」

 潤んだ瞳で見つめるその顔は、驚きと安堵に満ちていた。

「アリシアじゃねぇか! 無事だったんだな!」

 ミュールは弾かれたように駆け寄った。

 アリシアの灰色の瞳が、わずかに揺れる。

「ミュール、その人と知り合いなの?」

 そばで様子を見ていた勇斗が尋ねた。

「あぁ、オレの家の隣に住んでたアリシアだよ。昔からの馴染みでさ。気立てのいいやつで、料理もオレより上手くて、それで――」

 アリシアの長い尻尾が、ぴんと立った。

「こ、ここで話すのもあれだから、場所を変えましょう」

 頬を赤くしたアリシアは、もう一人の受付の女性に軽く会釈し、ミュールと勇斗を診療所の奥へ案内した。

 通された小部屋は、簡素ながら清潔に整っていた。薬草の匂いがほのかに漂い、壁際の棚には布の束や医療器具が置かれている。

「アリシア、どうしてここに?」

「里から逃げたあと、怪我をした私を院長先生が助けてくれたの。今はこの診療所で手伝いをしているのよ」

 その声には、安堵と感謝がにじんでいた。

「ほかのみんなは? 親父はどうなった? 知ってたら教えてくれ!」

 ミュールは焦るように詰め寄った。だが、アリシアは目を伏せ、小さく首を横に振る。

「わからない。あの時はもう必死だったから。里にも怖くて戻れないの。あなたのお父さん――族長の行方だって……」

「そうか」

 ミュールは悔しそうに歯を食いしばり、拳を握りしめた。

「そういや、ガロは? ガロはどうしたの?」

 アリシアの問いに、ミュールの指がかすかに震えた。

「あいつは、死んだよ。殺されたんだ――」


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 精霊樹の枝から放たれる光は、モッケ族の里があるカルント山へ向かって、まっすぐ伸びていた。
 古びた塔を出て、一週間歩き続けた勇斗たちは、カルント山を望む高原の町トトイへたどり着いた。
 標高が高いせいか、空気はひんやりとしている。抜けるような青空の下、いくつもの風車がからからと回っていた。草花の香りがふんわりと鼻をくすぐる。ホルタやソレインとは違い、町は静かで穏やかな空気に包まれていた。
「この町で休憩してから、カルント山に登ろう。里への道は、オレが案内する」
 トトイの中心部から少し北へ歩くと、二軒の宿屋が並んでいた。片方は大いににぎわい、すでに満室。もう片方は客の気配すらなく、しんと静まり返っている。
 仕方なく、勇斗たちは閑散とした『風詩亭』へ足を踏み入れた。
「すまない。今は食事が出せないんだ」
 痩せこけたオーナーが、申し訳なさそうに頭を下げた。
「料理人が町はずれまで狩りに行ったきり戻ってこなくてね。もう三日になる」
「マジかよー、腹へってるのにー!」
 ランパが両頬を膨らませ、ぶーぶー文句を垂れている。
「三日も帰ってきてないなんて、何かあったんスかね。たとえば魔族に襲われてけがをしてるとか、あるいは――」
 チカップが髪をいじりながら眉をひそめた。
「いや、あの人は一流の狩人でもあるんだ。ここらの魔族なんかに負けるはずがない」
「でも、心配ですよ」
 勇斗が浮かない顔で辺りを見回す。
「ユート、他人の事情に首を突っ込んでいる場合ではありませんわ。他の宿を探しましょう」
 ソーマが勇斗の手を引いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。あんたら、料理ができるなら厨房を貸してやってもいい。食材も余りものを使っていい。その代わり、宿代を半額にしてやる。ど、どうだ?」
 慌てたオーナーが、カウンターを両手でばんと叩いた。
「何言ってんだオッサン?」
 ミュールが目を細める。
「こっちも切羽詰まってるんだよ。ここで客が来なきゃ、本当に潰れちまうんだ!」
「そんなにやばいんスか?」
「ああ。向かいの宿は繁盛してるってのに、うちだけ見向きもされない。それに料理人がいないって噂まで広まって、さらに客が寄りつかなくなった。持て余してる食材も、捨てるくらいならあんたらに使ってもらったほうがましだ。頼む!」
 オーナーは今にも泣き出しそうだった。
「ユート、どうする?」
「……ここにしようよ」
 勇斗が小さく言った。
「あ、ありがとうございますぅ! 五名さまご案内ー!」
 弾んだ大声が、がらんとしたフロアに響き渡った。
 厨房に入ったミュールは、慣れた手つきでエプロンをつけると、鋭い目つきで言った。
「よし、チカップ。まずはチビスケを黙らせてくれ」
「は? 何言ってんだワンコ」
「了解っス」
「おいおい、オイラは味見係だぞ。こんな大切な役を眠らせるなんてどうかして――」
 チカップの催眠魔法が発動すると、ランパはあっという間に豪快ないびきをかき始めた。
「念のため、縛っておきます?」
 ソーマがにやつく。
「そうだな。念には念を入れよう」
 ぐるぐる巻きにされながら、ぐーすか眠るランパを見て、勇斗はふと、しんみりした気持ちになった。
 でも、こうしておかないと、自分たちの食べる分は確実に減る。野宿のたびに、それは嫌というほど思い知らされてきた。
「じゃ、そろそろ始めるか」
 ミュールがナイフを握り、保存されていた獣の肉へ刃を入れた。さくさくと肉がさばかれていく。切り分けられた部位が、まな板の上へきれいに並んでいった。あまりの手際のよさに、勇斗は思わず見入ってしまう。
「お料理をするのは、何だか久しぶりですわね」
 パイ生地をこねているソーマが、ゆっくり目を閉じた。その隣では、チカップが野菜や果物を手際よく切っている。
「チカップも料理できるんだ。すごいね」
 勇斗が感心すると、チカップは少し照れくさそうに笑った。
「コノメに教えてもらったんス。男の子でも料理くらいできないとだめなんだって」
「へ、へぇ」
 みんな自然に手を動かしている。対して、自分はただ突っ立っているだけだ。勇斗は、胸の奥に焦りのようなものを覚えた。
「ユートも見てるだけじゃなくて、やってみたらどうだ?」
 ミュールが口角を上げ、白い歯を見せた。
「え、僕、一度も料理なんて」
「オレが教えてやるよ。料理できるようになると楽しいぞ?」
「う、うん……じゃあ、やってみる」
 ミュールは無造作に芋を一つ取り出し、勇斗へ差し出した。紫色の皮をした、手のひらほどの丸い芋だ。表面は滑らかで、ほんのり湿っている。
「まずはこれの皮を剥いてみろ」
 勇斗はナイフを手に取り、慎重に刃を当てた。次の瞬間、芋が手から滑りそうになる。冷や汗がにじんだ。
「刃先の角度が悪いんだよ。ほら、こうやるんだ」
 ミュールは芋を軽く持ち、流れるような手つきで皮をするすると剥いていく。無駄のない動きだった。
「ミュール、すごいや」
「経験の差ってやつだな。慣れたら簡単だよ」
「そ、そうなのかなぁ」
 勇斗は唇を噛みしめ、懸命に皮を剥き続けた。だが、丸かった芋は見るも無惨にでこぼこになっていく。焦るほど、手元がぎこちなくなる。
「力を抜けって。ナイフを動かすんじゃねぇ。指で芋を回すんだ」
 ミュールの助言が飛ぶ。
 勇斗は握る手の力を少し抜き、慎重に芋を回してみた。すると、驚くほど滑らかに皮が剥けた。
「これで、いいの?」
 勇斗がつぶやくと、ミュールは満足そうにうなずいた。
「ふふっ、お見事ですわ」
 ソーマが微笑みながら、軽く手を叩く。
 剣術を教わった時もそうだった。うまくできた瞬間の手応えは、何とも心地いい。はにかみながら、勇斗はきれいに皮が剥けた芋を見つめた。
「ガロも、こんなんだったな」
 ミュールがぼんやりと天井を見上げた。その表情には、ほんのわずかに影が差していた。
「ガロって?」
「……あ、いや、何でもない」
 ミュールはすぐ笑顔に戻り、ナイフを握り直した。
「さ、チビスケが起きる前に完成させるぞ。ユート、皮剥きあと十個頼むわ」
「う、うん」
 ミュールが一瞬だけ見せた、悲しそうな表情。あれは何だったのだろう。
 勇斗は胸の奥に小さな疑問を残したまま、次の芋をつかんだ。
 厨房に入ってから二時間後、風詩亭一階の酒場のテーブルには、できたてのパイとスープが並べられていた。
「いやぁ、余りものの食材でここまでの料理が作れるなんて。きみ、うちで働かない?」
 大きなジョッキを運んできたオーナーが、満足げにミュールを見つめた。
 ミュールは得意げに鼻を鳴らし、ビラードがなみなみと入ったジョッキを受け取った。
「悪い。今は大事な旅の途中なんだ。この旅が終わったら、考えてもいいかなぁ」
 そう言って、ミュールはジョッキを口に運んだ。
「きみ、モッケ族だよね。里の人?」
 オーナーの問いに、ミュールの狼のような耳がぴくっと動いた。
「あ、あぁ。そうだけど」
 オーナーは腕を組み、目を細める。
「大変だったね。モッケ族の里が魔族に襲われるなんて、考えもしなかったよ。この町もやばいのかなぁ」
 ミュールは何も言わず、ビラードを飲み続けた。ジョッキの中の黄色い液体が静かに揺れる。
「そうそう、この町の診療所にモッケ族の女性が半年前から働いてるんだ。もしかしたら、きみの知り合いかもしれない。行ってみたらどうだい?」
「診療所?」
「町の東側にある小さな診療所さ。地図を渡そうか?」
 そう言うと、オーナーは奥の部屋へ消えていった。
 ミュールはビラードを一気に飲み干した。
 それから、小さく息を吐いた。
 診療所へ向かったのは、勇斗とミュールの二人だけだった。チカップは宿に残り、腹を壊したランパの世話をしている。ソーマは「朝のお風呂を楽しみますわ」と言い出し、あっさり同行を断った。
「あそこかな」
 地図から目を離した勇斗が、旗を指さした。
 診療所は町の東側、広場のすぐ近くに建っていた。ロッジ風の建物で、屋根の上には大きな緑色の旗が翻っている。
 扉を押して中に入ると、ふわりとハーブの香りが鼻をくすぐった。木造の壁に囲まれた落ち着いた空間で、患者たちが椅子に座って順番を待っている。白衣をまとった医療スタッフたちが、忙しそうに行き来していた。
「こんにちは。今日はどうされました?」
 受付には二人の女性が座っていた。金髪をまとめた人間の女性と、猫耳のついたモッケ族の女性だ。
「え?」
 モッケ族の女性は、ミュールの姿を見た瞬間、息を呑み、手を口元に当てた。
「ミュールじゃない! 生きていたの!?」
 潤んだ瞳で見つめるその顔は、驚きと安堵に満ちていた。
「アリシアじゃねぇか! 無事だったんだな!」
 ミュールは弾かれたように駆け寄った。
 アリシアの灰色の瞳が、わずかに揺れる。
「ミュール、その人と知り合いなの?」
 そばで様子を見ていた勇斗が尋ねた。
「あぁ、オレの家の隣に住んでたアリシアだよ。昔からの馴染みでさ。気立てのいいやつで、料理もオレより上手くて、それで――」
 アリシアの長い尻尾が、ぴんと立った。
「こ、ここで話すのもあれだから、場所を変えましょう」
 頬を赤くしたアリシアは、もう一人の受付の女性に軽く会釈し、ミュールと勇斗を診療所の奥へ案内した。
 通された小部屋は、簡素ながら清潔に整っていた。薬草の匂いがほのかに漂い、壁際の棚には布の束や医療器具が置かれている。
「アリシア、どうしてここに?」
「里から逃げたあと、怪我をした私を院長先生が助けてくれたの。今はこの診療所で手伝いをしているのよ」
 その声には、安堵と感謝がにじんでいた。
「ほかのみんなは? 親父はどうなった? 知ってたら教えてくれ!」
 ミュールは焦るように詰め寄った。だが、アリシアは目を伏せ、小さく首を横に振る。
「わからない。あの時はもう必死だったから。里にも怖くて戻れないの。あなたのお父さん――族長の行方だって……」
「そうか」
 ミュールは悔しそうに歯を食いしばり、拳を握りしめた。
「そういや、ガロは? ガロはどうしたの?」
 アリシアの問いに、ミュールの指がかすかに震えた。
「あいつは、死んだよ。殺されたんだ――」