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あの日見た彼女の背中、少年の日の終わり

ー/ー



 まだ少年だったあのころ、本屋という場所は輝いていた。
 それはたとえば、公園の横、やたらどんぐりを落とす木の下や、普段歩く道から一本外れた、とたんに見たことのない風景が広がる裏道の探検、あるいは破れた金網フェンスの向こうにある茂みの、なんとなくひんやりとして暗いあの空間、あれらと同じくらい、未知と発見に満ちた、そんな場所だった。
 そんな、少年心のわくわくの塊のようなあの場所で、僕は彼女と出会った。





 その日はテストが終わって、親との約束通りマンガを買うのを許された日だった。
 僕は帰るなり、ランドセルを投げ捨てるように置いて、自転車をこいで、ちょっと離れた大きな本屋へと向かった。

 いつものマンガを買うだけなら、近くの本屋でもよかった。
 けれど当時の僕は、つい最近知ったその大きな本屋の、たくさん並ぶ雑誌や図鑑の色鮮やかな表紙や、まだ読む気はなかったけれどマンガではない小説の毛色の違う装丁や、色とりどりに並ぶペンやファイルや使い方のよく分からない文房具、それらが集まるその場所に入るのが、楽しくて仕方なかった。

 そんな本屋に入り、蛍光灯に明るく照らされたそれらの風景をうわついた気分でながめながら、僕は買う予定のマンガを探した。
 それは男子児童向けのコーナーで、平積みされていた。
 その他のマンガの表紙も、買えないながらも見渡して楽しみながら、僕は目当てのマンガに手を伸ばした。

 そのとき同時に伸びた手があって、ちょうど本の上で、触れ合う形になった。

 大人になった今なら、もっと気の利いた対応もできただろう。
 けれどそのときの僕は、ただびっくりして、その手の主に顔を向けて、固まるだけしかできなかった。
 見下ろしてきたその人は、女の人だった。

 セーラー服。毛量の多い、もさっとした髪の毛。
 ちょっとずれた眼鏡の奥から、びっくりしたような目を僕に向けている。

 その人はしばらく固まって、それからゆるりと微笑んで、僕に本を差し出してきた。
 僕は何も声に出せず、ただ受け取って、目を伏せたまま、レジに走るしかできなかった。

 驚いてしまったのはなぜだろう。
 そのマンガが男子児童向けのもので、年上の女の人が読むイメージがなかったからかもしれない。
 そもそもセーラー服の年代の女の人と、接する機会なんてなかったからかもしれない。
 ただ僕はそのとき、触れてしまった手の感触、見上げたその人の僕を見つめる目が、どうにも印象強く残ってしまって、離れなかった。



 それから僕は、ちょくちょくその本屋に通った。
 もともと楽しい場所だったそこは、なんだか後ろめたいような、秘密の喜びを帯びるようになった。
 通っていると、ときどき、その彼女と会った。
 会ううちに、彼女も僕を覚えてくれて、笑いかけてきたりするようになった。

 なんとなく、その本屋に来たときは、周りを気にするようになった。
 学区外ではあったが、クラスメートが来る可能性だってあって、それをなぜだか、ひどく警戒していた。
 そんなことをつゆと知らないように、彼女とはやがて、会話をするようになった。

 セーラー服の彼女。きちっとはしていない、よれたセーラー服だった覚えがある。
 もさっとした髪の毛に、眼鏡がしょっちゅうずれていて、直していた印象が強い。
 ややぼんやりした顔つきで、決して美人ではない、どちらかといえば野暮ったい雰囲気。
 喋り方ものべっとした、眠いのか疲れているのか、そんな声の出し方をした。

 そんな声で、僕と喋るときは楽しそうに、好きな本の話をした。
 少年マンガも少女マンガも好きで、小説もよく読むけれど、おこづかいが限られているから厳選していると。
 だから、貸し借りできる友達がいるとうれしいのだと。
 だから、僕とはマンガを貸し借りするようになった。
 彼女の持ち物が、僕の手元にあるようになった。
 僕はそれを、親にも気づかれないように、こっそりと読んだ。
 抱きしめるように、読んだ。



「××くんは、小説は読むの?」

 その問いかけは、単なる雑談の中のひとつで、きっと深い意味はなかった。
 趣味を共有できたらうれしい、そのくらいの意味だったろう。

 僕はそのとき、見栄を張った。
 小説なんて、全然読んでなかった。
 けれど僕はそうは言わず、少し読むけれど、まだ自分のハマる作品に出会えていない、くらいの答え方をしたと思う。

 彼女はおすすめの作品を考えてくれた。
 いつもの本屋。彼女に連れられて歩いた。その当時の僕はあまり近寄ることのなかった、ライトノベルのコーナー。
 もしかすると、意識的に避けていたかもしれない。
 女の子の絵が描かれた表紙が多かったし、タイトルもラブコメディーを連想させるものが多かったから。

 彼女はきっと、見栄を張った僕の趣味に合わせて、児童文学でなく少し上の年代に向けた本を考えてくれたのだろう。
 棚を見上げた僕は、緊張していたと思う。
 壁際の棚で、高い位置まで本が詰まっていた。

 彼女がすすめてくれた作品は、棚の上の方にあった。
 僕の背では、とても届かない位置だった。
 彼女が背伸びして、うんと手を伸ばして、取ろうとした。

 きっと、彼女は気づいていなかった。
 僕も見るつもりなどなかった。
 背伸びをして、セーラー服が持ち上がって、すそから彼女の背中が、素肌が、見えた。

 本を取って、彼女は僕に手渡してくれた。
 そのときどんな会話をしたか、僕は覚えていない。
 とても、会話をできる状況ではなかった。
 小学生だった僕には、それはあまりにも鮮烈で、頭を真っ白に飛ばすに余りある光景だった。

 帰路についてからも、家に帰ってからも、その光景は目に焼きついて離れなかった。

 ちらりと見えた、彼女の白い素肌。
 その上に染みついた、おびただしい量の青あざと、引っかき傷。





 その本屋に行かなくなったから、彼女と会わなくなったのか。
 それとも彼女と会わなくなったから、本屋に行かなくなったのか。
 どちらが先だったのか、覚えていない。
 けれどいつからだったか、僕はその本屋に行かなくなったし、彼女も会うこともなくなった。

 少年期が終わり、思春期となり、青年期を過ぎた。
 時間の中で、あのとき見た彼女の背中は、ぐるぐると意味を変えて、汚れては彩度を増して、ずっと僕の思い出の中にあった。
 忘れることができなかった。

 あの本屋は今でも、あの場所にある。
 公園の横の木の下は、今でもやたらどんくりが落ちているし、裏道は見たことのない景色が見つかるし、破れたフェンスは今もそのまま、向こうに茂みを見せている。
 けれどあのときのようには、輝いては見えない。
 そうなってしまったのが誰のせいなのか、今の僕には、分からない。


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 まだ少年だったあのころ、本屋という場所は輝いていた。
 それはたとえば、公園の横、やたらどんぐりを落とす木の下や、普段歩く道から一本外れた、とたんに見たことのない風景が広がる裏道の探検、あるいは破れた金網フェンスの向こうにある茂みの、なんとなくひんやりとして暗いあの空間、あれらと同じくらい、未知と発見に満ちた、そんな場所だった。
 そんな、少年心のわくわくの塊のようなあの場所で、僕は彼女と出会った。
 その日はテストが終わって、親との約束通りマンガを買うのを許された日だった。
 僕は帰るなり、ランドセルを投げ捨てるように置いて、自転車をこいで、ちょっと離れた大きな本屋へと向かった。
 いつものマンガを買うだけなら、近くの本屋でもよかった。
 けれど当時の僕は、つい最近知ったその大きな本屋の、たくさん並ぶ雑誌や図鑑の色鮮やかな表紙や、まだ読む気はなかったけれどマンガではない小説の毛色の違う装丁や、色とりどりに並ぶペンやファイルや使い方のよく分からない文房具、それらが集まるその場所に入るのが、楽しくて仕方なかった。
 そんな本屋に入り、蛍光灯に明るく照らされたそれらの風景をうわついた気分でながめながら、僕は買う予定のマンガを探した。
 それは男子児童向けのコーナーで、平積みされていた。
 その他のマンガの表紙も、買えないながらも見渡して楽しみながら、僕は目当てのマンガに手を伸ばした。
 そのとき同時に伸びた手があって、ちょうど本の上で、触れ合う形になった。
 大人になった今なら、もっと気の利いた対応もできただろう。
 けれどそのときの僕は、ただびっくりして、その手の主に顔を向けて、固まるだけしかできなかった。
 見下ろしてきたその人は、女の人だった。
 セーラー服。毛量の多い、もさっとした髪の毛。
 ちょっとずれた眼鏡の奥から、びっくりしたような目を僕に向けている。
 その人はしばらく固まって、それからゆるりと微笑んで、僕に本を差し出してきた。
 僕は何も声に出せず、ただ受け取って、目を伏せたまま、レジに走るしかできなかった。
 驚いてしまったのはなぜだろう。
 そのマンガが男子児童向けのもので、年上の女の人が読むイメージがなかったからかもしれない。
 そもそもセーラー服の年代の女の人と、接する機会なんてなかったからかもしれない。
 ただ僕はそのとき、触れてしまった手の感触、見上げたその人の僕を見つめる目が、どうにも印象強く残ってしまって、離れなかった。
 それから僕は、ちょくちょくその本屋に通った。
 もともと楽しい場所だったそこは、なんだか後ろめたいような、秘密の喜びを帯びるようになった。
 通っていると、ときどき、その彼女と会った。
 会ううちに、彼女も僕を覚えてくれて、笑いかけてきたりするようになった。
 なんとなく、その本屋に来たときは、周りを気にするようになった。
 学区外ではあったが、クラスメートが来る可能性だってあって、それをなぜだか、ひどく警戒していた。
 そんなことをつゆと知らないように、彼女とはやがて、会話をするようになった。
 セーラー服の彼女。きちっとはしていない、よれたセーラー服だった覚えがある。
 もさっとした髪の毛に、眼鏡がしょっちゅうずれていて、直していた印象が強い。
 ややぼんやりした顔つきで、決して美人ではない、どちらかといえば野暮ったい雰囲気。
 喋り方ものべっとした、眠いのか疲れているのか、そんな声の出し方をした。
 そんな声で、僕と喋るときは楽しそうに、好きな本の話をした。
 少年マンガも少女マンガも好きで、小説もよく読むけれど、おこづかいが限られているから厳選していると。
 だから、貸し借りできる友達がいるとうれしいのだと。
 だから、僕とはマンガを貸し借りするようになった。
 彼女の持ち物が、僕の手元にあるようになった。
 僕はそれを、親にも気づかれないように、こっそりと読んだ。
 抱きしめるように、読んだ。
「××くんは、小説は読むの?」
 その問いかけは、単なる雑談の中のひとつで、きっと深い意味はなかった。
 趣味を共有できたらうれしい、そのくらいの意味だったろう。
 僕はそのとき、見栄を張った。
 小説なんて、全然読んでなかった。
 けれど僕はそうは言わず、少し読むけれど、まだ自分のハマる作品に出会えていない、くらいの答え方をしたと思う。
 彼女はおすすめの作品を考えてくれた。
 いつもの本屋。彼女に連れられて歩いた。その当時の僕はあまり近寄ることのなかった、ライトノベルのコーナー。
 もしかすると、意識的に避けていたかもしれない。
 女の子の絵が描かれた表紙が多かったし、タイトルもラブコメディーを連想させるものが多かったから。
 彼女はきっと、見栄を張った僕の趣味に合わせて、児童文学でなく少し上の年代に向けた本を考えてくれたのだろう。
 棚を見上げた僕は、緊張していたと思う。
 壁際の棚で、高い位置まで本が詰まっていた。
 彼女がすすめてくれた作品は、棚の上の方にあった。
 僕の背では、とても届かない位置だった。
 彼女が背伸びして、うんと手を伸ばして、取ろうとした。
 きっと、彼女は気づいていなかった。
 僕も見るつもりなどなかった。
 背伸びをして、セーラー服が持ち上がって、すそから彼女の背中が、素肌が、見えた。
 本を取って、彼女は僕に手渡してくれた。
 そのときどんな会話をしたか、僕は覚えていない。
 とても、会話をできる状況ではなかった。
 小学生だった僕には、それはあまりにも鮮烈で、頭を真っ白に飛ばすに余りある光景だった。
 帰路についてからも、家に帰ってからも、その光景は目に焼きついて離れなかった。
 ちらりと見えた、彼女の白い素肌。
 その上に染みついた、おびただしい量の青あざと、引っかき傷。
 その本屋に行かなくなったから、彼女と会わなくなったのか。
 それとも彼女と会わなくなったから、本屋に行かなくなったのか。
 どちらが先だったのか、覚えていない。
 けれどいつからだったか、僕はその本屋に行かなくなったし、彼女も会うこともなくなった。
 少年期が終わり、思春期となり、青年期を過ぎた。
 時間の中で、あのとき見た彼女の背中は、ぐるぐると意味を変えて、汚れては彩度を増して、ずっと僕の思い出の中にあった。
 忘れることができなかった。
 あの本屋は今でも、あの場所にある。
 公園の横の木の下は、今でもやたらどんくりが落ちているし、裏道は見たことのない景色が見つかるし、破れたフェンスは今もそのまま、向こうに茂みを見せている。
 けれどあのときのようには、輝いては見えない。
 そうなってしまったのが誰のせいなのか、今の僕には、分からない。