御守り
ー/ー
足を引き摺るようにして歩いていた。
なるべく静かに、他の生徒の邪魔にならないように、雨の音に沈む放課後の廊下を歩いていた。海の底みたいなしっとりとした空気は私を包んでくれた。
誰もこっちを見ない。まるで、透明になったみたいだ。
「尾瀬さん」
暗い廊下に光りが差した気がした。
声がしたほうを振り返ると、大きな段ボールを抱えた先生が立っていた。
「職員室まで持って行くの、手伝ってくれないかな」
いいですよ、と言いながら、段ボールの中の本を十冊ほど持った。それは先生がいつも机に置いていた参考書だった。どうして職員室に持って行くのだろう。状況が飲み込めない私に向かって、ふ、と先生が表情を崩した。
「昨日、松井先生が退院したんだ。来週の半ばには戻って来れるみたいだから、荷物をまとめておこうと思って」
そうですか、と呟くと、ポケットの石ころが動いた。職員室へ入る背中を見つめながら、他の言葉が出てこない。黙って参考書を差し出す私に、「もう一往復お願いしてもいい?」と、先生が言った。
蛍光灯に照らされた先生と私の影は、並行したまま、真っ直ぐ廊下を進む。しばらくして理科室が見えてくると、なんだか安心した。そして、もうこの場所に通わなくなってしまうことが、少しだけ悲しかった。ズボンのポケットから鍵を取り出すと、先生はゆっくり扉を開ける。そして抜いた鍵を白衣の右ポケットに入れた———が、チャリン、と落ちてしまった。
「もしかして、また穴開けたんですか?」私が呆れた声を出すと、「ペットボトル入れたからかな」先生が鍵を拾いながら気まずそうに笑った。
裁縫道具を入れたままにしておいて良かったと思う。白衣を膝の上に置きながら、私はおぼつかない手付きで針を動かした。先生は立ったまま、そわそわと私の手元を見ている。
「もう少しで終わりますから、ちょっと待っててください」
そう言って白衣を持ち上げたのと、その胸ポケットから何かが落ちてきたのはほぼ同時だった。私は落ちてきたものが猫の御守りだということに気がついた。手に取ると、「えっと、それね」先生が慌ただしげに隣へ座る。
「三年生の廊下で見つけたんだ。多分、鞄に付けてくれてたんだと思うけど、何かの拍子で外れちゃったんじゃないかな」
早口でそう言うと、先生は私の手から猫の御守りを取った。そのとき、はっきりと見えてしまった、綿が飛び出した身体と、ほつれた耳。
「……気を使わなくても大丈夫です。もう、面と向かって振られましたから」
小さな声で言ってみる。けれど返事はない。
「そんなものもらっても迷惑ですよね。一回話しただけなのに、手作りの御守り渡してくるなんて、引かれて当然ですよ」
こんなこと言ったって、心の傷が開くだけだとわかっている。だけど言葉が溢れてしまう。
本当は誰かに聞いてほしかった。
一人だと窒息してしまいそうだ。ぽろ、ぽろ、白衣の上を涙が転がっていく。
「私、なんで頑張れば先輩に近付けると思ったんだろう。こんなもの作らなきゃ良かったのに。そうすれば傷つかずに済んだのに」
楽になるどころか、どんどん呼吸が浅くなっていく。もうこれ以上は苦しくなるだけ、そう分かっているけれど、震える唇は次々と言葉を生み出してしまう。
「……頑張らなければよかった」
私がそう言うと、先生は「これ以上、自分を否定しないで」と優しく言った。
「僕はね、頑張ってる尾瀬さんを見て、もう一度試験に挑戦しようと思えたんだ」
私は顔を上げる。
濡れた視界の中で、先生が手の中の御守りを見つめながら言う。「尾瀬さんと話さなければ、僕はずっと頑張ることから逃げていたと思う」「……受け取ってもらえませんでしたけど」「おかしいな。こんなに可愛いビントロングを貰わないなんて」先生が真剣な顔で言う。少しだけ、呼吸が楽になった気がする。
「この子、僕の御守りにしてもいい?」
先生の声はいつも柔らかい。「可愛がってあげてくださいね」言いながら差し出した白衣を、先生がふわりと羽織る。ポケットのステッチはやっぱり真っ直ぐにならなかった。
「先生」
ん? と、先生が顔を上げる。
「私も石ころ、もらっていいですか?」
「それはもう、尾瀬さんのものだよ」そう言って、先生は御守りを胸ポケットにしまう。そっと胸に触れると、固くてほんのり温かい石ころが、心臓を守っていた。
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「尾瀬さん」
暗い廊下に光りが差した気がした。
声がしたほうを振り返ると、大きな段ボールを抱えた先生が立っていた。
「職員室まで持って行くの、手伝ってくれないかな」
いいですよ、と言いながら、段ボールの中の本を十冊ほど持った。それは先生がいつも机に置いていた参考書だった。どうして職員室に持って行くのだろう。状況が飲み込めない私に向かって、ふ、と先生が表情を崩した。
「昨日、松井先生が退院したんだ。来週の半ばには戻って来れるみたいだから、荷物をまとめておこうと思って」
そうですか、と呟くと、ポケットの石ころが動いた。職員室へ入る背中を見つめながら、他の言葉が出てこない。黙って参考書を差し出す私に、「もう一往復お願いしてもいい?」と、先生が言った。
蛍光灯に照らされた先生と私の影は、並行したまま、真っ直ぐ廊下を進む。しばらくして理科室が見えてくると、なんだか安心した。そして、もうこの場所に通わなくなってしまうことが、少しだけ悲しかった。ズボンのポケットから鍵を取り出すと、先生はゆっくり扉を開ける。そして抜いた鍵を白衣の右ポケットに入れた———が、チャリン、と落ちてしまった。
「もしかして、また穴開けたんですか?」私が呆れた声を出すと、「ペットボトル入れたからかな」先生が鍵を拾いながら気まずそうに笑った。
裁縫道具を入れたままにしておいて良かったと思う。白衣を膝の上に置きながら、私はおぼつかない手付きで針を動かした。先生は立ったまま、そわそわと私の手元を見ている。
「もう少しで終わりますから、ちょっと待っててください」
そう言って白衣を持ち上げたのと、その胸ポケットから何かが落ちてきたのはほぼ同時だった。私は落ちてきたものが猫の御守りだということに気がついた。手に取ると、「えっと、それね」先生が慌ただしげに隣へ座る。
「三年生の廊下で見つけたんだ。多分、鞄に付けてくれてたんだと思うけど、何かの拍子で外れちゃったんじゃないかな」
早口でそう言うと、先生は私の手から猫の御守りを取った。そのとき、はっきりと見えてしまった、綿が飛び出した身体と、ほつれた耳。
「……気を使わなくても大丈夫です。もう、面と向かって振られましたから」
小さな声で言ってみる。けれど返事はない。
「そんなものもらっても迷惑ですよね。一回話しただけなのに、手作りの御守り渡してくるなんて、引かれて当然ですよ」
こんなこと言ったって、心の傷が開くだけだとわかっている。だけど言葉が溢れてしまう。
本当は誰かに聞いてほしかった。
一人だと窒息してしまいそうだ。ぽろ、ぽろ、白衣の上を涙が転がっていく。
「私、なんで頑張れば先輩に近付けると思ったんだろう。こんなもの作らなきゃ良かったのに。そうすれば傷つかずに済んだのに」
楽になるどころか、どんどん呼吸が浅くなっていく。もうこれ以上は苦しくなるだけ、そう分かっているけれど、震える唇は次々と言葉を生み出してしまう。
「……頑張らなければよかった」
私がそう言うと、先生は「これ以上、自分を否定しないで」と優しく言った。
「僕はね、頑張ってる尾瀬さんを見て、もう一度試験に挑戦しようと思えたんだ」
私は顔を上げる。
濡れた視界の中で、先生が手の中の御守りを見つめながら言う。「尾瀬さんと話さなければ、僕はずっと頑張ることから逃げていたと思う」「……受け取ってもらえませんでしたけど」「おかしいな。こんなに可愛いビントロングを貰わないなんて」先生が真剣な顔で言う。少しだけ、呼吸が楽になった気がする。
「この子、僕の御守りにしてもいい?」
先生の声はいつも柔らかい。「可愛がってあげてくださいね」言いながら差し出した白衣を、先生がふわりと羽織る。ポケットのステッチはやっぱり真っ直ぐにならなかった。
「先生」
ん? と、先生が顔を上げる。
「私も石ころ、もらっていいですか?」
「それはもう、尾瀬さんのものだよ」そう言って、先生は御守りを胸ポケットにしまう。そっと胸に触れると、固くてほんのり温かい石ころが、心臓を守っていた。