「じゃあ、行っておいで」
先生はそう言いながら、私の手にあの石ころを乗せた。金曜日の放課後のことだった。先生に手を振って、私は階段を上がった。窓から見える空が暗いだとか、なつき先輩が部員に囲まれているだとか、そんなことは気にならなかった。なつき先輩しか目に入らなかった。絆創膏と石ころの入ったポケットに触れて、愛しい背中に声を掛ける。
「なつき先輩」
なつき先輩はぴくりと肩を震わせると、振り返って私を見、ゆっくりと瞼を細めた。
「一年の尾瀬千里です。あの、絆創膏、ありがとうございました」
こちらへ歩いてくるなつき先輩の後ろで、他の部員たちがにやにやと笑っている。私は震える手で猫の御守りを差し出した。
「これ、よかったら貰ってください」
なつき先輩は人差し指と親指を使って、猫の御守りをつまみあげる。「えっと、なつき先輩」私は言葉を続けようとするが、「ねぇ」なつき先輩がそれを制する。
「そもそもあなた誰?」
そう言われた瞬間、背中に氷の棒を差し込まれたような気持ちになる。「覚えてないですよね」そう言った途端、指がずきずきと痛みだした。放課後の理科室、慣れない縫い針、三角形に切れなかった耳、触りすぎて毛羽立った猫の身体、ボサボサの髭。頑張っておいで、先生の石ころ。
数日間の記憶が走馬灯みたいによみがえる。
「……すみません、失礼します」
私は階段を駆け下りながら、胸ポケットを掴む。硬い石ころの感触が伝わってくる。胸が張り裂けそうだった。
先生、ごめんなさい。
頑張らないと何も変わらないなんて言ったくせに、私は今、御守りを渡したことを後悔しています。
ふう、ふう、涙を堪える息遣いの合間に「きもーい、早く捨てなよ」「ちょっと、こっちに投げないでってば」なつき先輩たちの声が差し込まれる。早くこの場から離れたかった。足がもつれて転びそうになりながら、夢中で走った。途中、先生の白衣が横切った気がしたけれど、話しかける気力は残っていなかった。
失恋の痛みは、私から気力も体力も奪ってしまう。真っ暗な自分の部屋で、いったい何時間泣いていたのだろう。頭の中でいろんな思いが回って、身体は疲れているはずなのに心は休まらず、気づけば空が白み始めている。
あっという間に週が明けた。
学校に行けるようになったのは、あれから一週間が経った頃だった。もう私の胸ポケットに絆創膏はない。ただ、先生の石ころだけが心臓を温めている。ちゃんと返さなきゃ、そんな考えがポツリと浮かぶ。先生は失敗したことを聞いたら、なんと言うのだろう。