表示設定
表示設定
目次 目次




ビントロング

ー/ー



 それから、私は毎日理科室へ通うようになった。先生はたまに話しかけてくる程度で、ほとんど黒板の前で仕事をしている。規則正しいタイピング音や、滑らかにペンを走らせる音が心地良い。おかげさまで御守り作りも捗って、完成する頃には先生の音に安心感を覚えるまでになっていた。

「おや、かわいいがいるね」

 隣の席に腰掛けながら先生が言う。知らない単語だった。

「ビントロングって何ですか?」

 先生に見せられたスマホには、白い髭がモサモサと生えた、アナグマとも、イタチとも、猫とも呼び難い生き物が映っていた。私は何と応えていいのか分からず、猫の御守りに視線を移す。真っ黒な顔と、上手く切れずに丸くなってしまった耳。ボンドでつけたテグスの髭。言われてみれば似ている気もする。

「好きな人にあげるの?」

 そう言って、先生は微笑んでスマホをポケットにしまう。こんな不格好なものを渡していいのか、と一瞬思ったが、深く頷いた。

「先輩、女子テニス部で。三年生は最後の夏じゃないですか。だから応援の気持ちを込めて渡したいんです」

 「あ、えっと」私は慌てて顔を上げた。
 どうしよう。女子が好きだと言ってしまったようなものだ。ゆらゆら動く視線の先に先生の瞳がある。真っ直ぐ揺れずに、私を映している。

「やっぱり高校生の恋愛はいいね。僕もこんな青春送りたかったな」

 そう言って先生は、うんっ、と大きく伸びをする。何も疑問に思っていない感じで。

「あの、おかしいって思わないんですか」
「どうして?」
「だって、私の好きな人は女だから……」

 この恋に胸を張っていたかった。後悔なんてしたくなかった。しないと思っていた。なのに、目を伏せてしまう自分が嫌になる。膝の上で絆創膏だらけの指が震えている。

「魅力的に思う人が異性とは限らないよ。誰が誰を好きになったっていい。人生にはいろんな制約があるけど、恋愛だけは自由なんだから」

 そう言って先生は微笑んだ。私も泣きそうになりながら笑った。

「尾瀬さんは、頑張っててえらいね」

 言いながら、先生が御守りを見遣る。私の手の中で、不格好な猫がこちらを見上げている。なつき先輩への思いだけが原動力だった。この恋が実らないとしても。

「思いが報われる可能性なんて、すごく低いのに。頑張ったら先輩に近づける気がするんです」
「僕とは正反対だよ」
 
 先生が見つめる机の上には、山積みの書類と参考書のようなものがある。先生は毎日、あの場所で仕事をしていた。ペンと紙が擦れる音、本を捲る音、パソコンのタイピング音。この理科室は、先生が頑張る音で溢れていた。

「先生だって頑張ってるじゃないですか。私、知ってますよ。いつも真剣に仕事してること」
「ありがとう尾瀬さん。でも先生なんて呼ばなくていいよ。僕は尾瀬さんに何も教えてないし、教員免許も持ってないから」

 え? 私が聞き返すと、先生は困ったように笑った。

「恥ずかしい話し、採用試験に三回も落ちているんだ。不合格通知を見る度にへこんで、努力が無駄になったって思うわけ。だから、僕は頑張ることを諦めたんだよ」
「でも、先生は、授業を受け持っているじゃないですか。それだって努力の証だと思いますけど」

 「尾瀬さん、非常勤講師って分かる?」先生に訊かれ、私は首を振った。

「休んでる先生の代わりに、教科を担当する講師のこと。決められた期間だけ教科を受け持つことはできるけど、担任にはなれない」

 いつもの声、いつもの優しい顔なのに、なんだか少しだけ悲しそうだった。ここで言葉を掛けてあげないと、先生が透けていなくなってしまうような気がした。

「……頑張ることを諦めたら、何も変わらないと思います。私が言えるのはそれだけです」

 自分に言い聞かせるみたいに話すと、「尾瀬さん、良いこと言うね」と先生は眉を下げて笑った。とても優しいと思った。社会を知らない私の言葉を、先生は褒めてくれる。


スタンプを贈って作者を応援しよう!

次のエピソードへ進む 告白


みんなのリアクション



おすすめ作品を読み込み中です…



 それから、私は毎日理科室へ通うようになった。先生はたまに話しかけてくる程度で、ほとんど黒板の前で仕事をしている。規則正しいタイピング音や、滑らかにペンを走らせる音が心地良い。おかげさまで御守り作りも捗って、完成する頃には先生の音に安心感を覚えるまでになっていた。
「おや、かわいい《《ビントロング》》がいるね」
 隣の席に腰掛けながら先生が言う。知らない単語だった。
「ビントロングって何ですか?」
 先生に見せられたスマホには、白い髭がモサモサと生えた、アナグマとも、イタチとも、猫とも呼び難い生き物が映っていた。私は何と応えていいのか分からず、猫の御守りに視線を移す。真っ黒な顔と、上手く切れずに丸くなってしまった耳。ボンドでつけたテグスの髭。言われてみれば似ている気もする。
「好きな人にあげるの?」
 そう言って、先生は微笑んでスマホをポケットにしまう。こんな不格好なものを渡していいのか、と一瞬思ったが、深く頷いた。
「先輩、女子テニス部で。三年生は最後の夏じゃないですか。だから応援の気持ちを込めて渡したいんです」
 「あ、えっと」私は慌てて顔を上げた。
 どうしよう。女子が好きだと言ってしまったようなものだ。ゆらゆら動く視線の先に先生の瞳がある。真っ直ぐ揺れずに、私を映している。
「やっぱり高校生の恋愛はいいね。僕もこんな青春送りたかったな」
 そう言って先生は、うんっ、と大きく伸びをする。何も疑問に思っていない感じで。
「あの、おかしいって思わないんですか」
「どうして?」
「だって、私の好きな人は女だから……」
 この恋に胸を張っていたかった。後悔なんてしたくなかった。しないと思っていた。なのに、目を伏せてしまう自分が嫌になる。膝の上で絆創膏だらけの指が震えている。
「魅力的に思う人が異性とは限らないよ。誰が誰を好きになったっていい。人生にはいろんな制約があるけど、恋愛だけは自由なんだから」
 そう言って先生は微笑んだ。私も泣きそうになりながら笑った。
「尾瀬さんは、頑張っててえらいね」
 言いながら、先生が御守りを見遣る。私の手の中で、不格好な猫がこちらを見上げている。なつき先輩への思いだけが原動力だった。この恋が実らないとしても。
「思いが報われる可能性なんて、すごく低いのに。頑張ったら先輩に近づける気がするんです」
「僕とは正反対だよ」
 先生が見つめる机の上には、山積みの書類と参考書のようなものがある。先生は毎日、あの場所で仕事をしていた。ペンと紙が擦れる音、本を捲る音、パソコンのタイピング音。この理科室は、先生が頑張る音で溢れていた。
「先生だって頑張ってるじゃないですか。私、知ってますよ。いつも真剣に仕事してること」
「ありがとう尾瀬さん。でも先生なんて呼ばなくていいよ。僕は尾瀬さんに何も教えてないし、教員免許も持ってないから」
 え? 私が聞き返すと、先生は困ったように笑った。
「恥ずかしい話し、採用試験に三回も落ちているんだ。不合格通知を見る度にへこんで、努力が無駄になったって思うわけ。だから、僕は頑張ることを諦めたんだよ」
「でも、先生は、授業を受け持っているじゃないですか。それだって努力の証だと思いますけど」
 「尾瀬さん、非常勤講師って分かる?」先生に訊かれ、私は首を振った。
「休んでる先生の代わりに、教科を担当する講師のこと。決められた期間だけ教科を受け持つことはできるけど、担任にはなれない」
 いつもの声、いつもの優しい顔なのに、なんだか少しだけ悲しそうだった。ここで言葉を掛けてあげないと、先生が透けていなくなってしまうような気がした。
「……頑張ることを諦めたら、何も変わらないと思います。私が言えるのはそれだけです」
 自分に言い聞かせるみたいに話すと、「尾瀬さん、良いこと言うね」と先生は眉を下げて笑った。とても優しいと思った。社会を知らない私の言葉を、先生は褒めてくれる。