第16話 生贄(Sacrifice)
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やりきれない思いを胸に凪沙はあてどもなく函館の街を歩いた。これが愛玲奈の死にたがっていた街、函館。北風と路面電車と坂と港の街。だがもう明日になれば愛玲奈はもういない。わたしは一人置いて行かれるんだ。そう思うと「クソっ」と悪態を吐いてしまう。
たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を見つける。見てみると出入り口前の雪かきをする若い、とは言え凪沙より五つは年上に見える女性店員と眼が合った。温かみのある包容力を感じる目だった。それに素朴だが不思議と美人だ。その美人店員は外見に違わぬ美しい声で凪沙に声をかけてきた。
「どうぞいらっしゃいませ。開店したばかりですから席は空いてますよ」
やけ酒か。それも悪くない。普段なら節約のために飲酒など控えていたが、愛玲奈のいない今、そんなことはもうどうでもよかった。凪沙はふらりと店に入る。十席程度のカウンターしかないその酒場で凪沙と同い年くらいの常連客らしい男が、いかつい顔で愛想の悪そうな板前と音楽の話をしている。クラシックだろうか。その男性客は凪沙を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに平静を取り戻すと今度は静かに酒を飲み始める。どうも誰かと人違いをしたようだ。
凪沙も静かに飲んだ。枯れた味わいの肴が酒によく合う。二時間ほど飲むうちに凪沙は酩酊寸前にまでなった。
窓の外は吹雪いたり止んだりを繰り返しているので客の入りは悪い。凪沙はカウンターの隅っこで一人物思いにふけっていた。この先自分はどう生きればいいのか。愛玲奈を失った今、自分の支えになるものは何か。愛玲奈の笑顔、愛玲奈の涙、愛玲奈の肌、全てが過去のものになってしまった。凪沙はすべてを失ったような空疎な思いに駆られた。ハイボールを流し込んでふと涙ぐむと背後の扉が元気よく開かれ、賑やかな二人連れの声が聞こえてきた。どこかで聞いた事のある声だ。
「あれ? もしかして凪沙さん?」
神経質そうな声。
「ああ、そうだ間違いない、凪沙さんだ」
野太い声。
「桐吾さん? 晃さんも。どうしてここに」
驚いて涙を拭く暇もなかった凪沙。
「僕たちまた旭川に来たんですよ。僕は函館に来たことがなかったと言ったら彼が連れてきてくれたんです。観光です。湯豆腐と熱燗四合」
晃の声は幾分和らいでいるように聞こえた。
「愛玲奈さんがいらっしゃらないようですがどうかされたんですか」
桐吾がごく軽い口調でそう言いながら凪沙の隣に、晃がさらにその隣に座る。凪沙は泣き出しそうになるのを堪えて吐き出した。
「愛玲奈は…… もういません。明日には故郷へ帰ります」
わずかに驚いた表情を浮かべた桐吾は痛ましそうに言う。
「そんな。あんなに函館に来たがっていたのに。一体何があったんですか」
「私の母が愛玲奈だけを連れ戻しに来ました。家業が傾いていたので政略結婚する必要があって、あちらの親が心労で倒れたと聞くといてもたってもいられなくなったようです。その事業が潰れると村人の半数が路頭に迷うと言われたのも愛玲奈の心を動かしたようです」
桐吾と晃は沈黙する。小鍋の湯豆腐が来ると晃は黙ってそれをいそいそと桐吾に取り分けた。その間に桐吾が重い口を開く。
「凪沙さんと愛玲奈さんはその…… お友達ではなくて、俺たちと同じ境遇だったということでよろしいんですよね」
「どうしてそう思うんですか」
凪沙の言葉は投げやりだった。愛玲奈がいない今そんなことはもうどうでもよかった。
「何と言うか…… 匂いとでも言おうか、まあそういう曖昧なものです」
「……その通りです」
桐吾は得心したように深く頷いた。桐吾の声にさらに深刻さが上乗せされる。
「これからどうなさるおつもりですか」
「判りません…… まだ何も…… 愛玲奈の代わりにここで一生暮らすくらいしかっ……」
俯いて涙を流す。桐吾が重々しい声で言った。
「それでいいんですか」
よくない。何一つよくない。愛玲奈にとっても凪沙にとっても。だがこの選択肢を取らねば藤峯も村もみんなすべてが不幸になる。
桐吾が更に凪沙に詰め寄る。
「では、彼らは愛玲奈さんとあなたの人生を生贄にしないといけないほど大切な人々なんですか」
どうでもいい。藤峯の家が潰れようが村人が何百人路頭に迷おうが凪沙にとってはどうでもよかった。腹の底からどうでもよかった。
だが愛玲奈にとっては違った。あの子は根が優しい子だから。凪沙はそう心の中で呟いた。
「愛玲奈にとってはそうなのかもしれません。わたしと違って」
「優しい方なんですね。愛玲奈さんは」
桐吾は穏やかな口調で言ったが、すぐにすうっと眼を細める。
「しかし……」
「しかし?」
「どうなんでしょう。愛玲奈さんの親御さんの家業が傾いたのは彼らの責任であって愛玲奈さんのせいではありません。それに多くの村人が路頭に迷うと言っても、それはその会社に依存する彼らの体質に起因するものです。彼らはただその会社にぶら下がって生きてきただけで自分で自分の道を切り開くことを怠ったその怠惰さのつけを支払うだけで、これもまた愛玲奈さんには何の罪科もありません。その自分たちの無能と怠惰を、彼らと無関係な愛玲奈さん一人の人生を食い物にして安穏と生きようなどとおこがましいではないですか。事業が傾いたのも、それによって多くの人が路頭に迷うのも全部彼ら自身が被るべき責任ではないのでしょうか。それから目を逸らし愛玲奈さんの人生を生贄にとってまた安逸な暮らしをのうのうと続けようとするのは相当の鉄面皮だと思いますが」
だがその生贄に自ら進んでなりたがるのが愛玲奈だ。凪沙はそう思った。
「これまで育ててくれた父親への恩義も感じていたんでしょう」
「それなら倒れた親御さんの看護をするとか、そう言った形で恩返しをすればいい。もし、親御さんが今回のような望まぬ婚儀をさせるために愛玲奈さんに良い暮らしをさせ、愛玲奈さんの優しさにつけこみ恩で縛りつけていたというなら、卑劣という他はなく、なおさら愛玲奈さんもそれに従う義務などありません」
◆次回 第17話 決意する凪沙 やりきれない思いを胸に凪沙はあてどもなく函館の街を歩いた。これが愛玲奈の死にたがっていた街、函館。北風と路面電車と坂と港の街。だがもう明日になれば愛玲奈はもういない。わたしは一人置いて行かれるんだ。そう思うと「クソっ」と悪態を吐いてしまう。
たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を見つける。見てみると出入り口前の雪かきをする若い、とは言え凪沙より五つは年上に見える女性店員と眼が合った。温かみのある包容力を感じる目だった。それに素朴だが不思議と美人だ。その美人店員は外見に違わぬ美しい声で凪沙に声をかけてきた。
「どうぞいらっしゃいませ。開店したばかりですから席は空いてますよ」
やけ酒か。それも悪くない。普段なら節約のために飲酒など控えていたが、愛玲奈のいない今、そんなことはもうどうでもよかった。凪沙はふらりと店に入る。十席程度のカウンターしかないその酒場で凪沙と同い年くらいの常連客らしい男が、いかつい顔で愛想の悪そうな板前と音楽の話をしている。クラシックだろうか。その男性客は凪沙を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに平静を取り戻すと今度は静かに酒を飲み始める。どうも誰かと人違いをしたようだ。
凪沙も静かに飲んだ。枯れた味わいの肴が酒によく合う。二時間ほど飲むうちに凪沙は酩酊寸前にまでなった。
窓の外は吹雪いたり止んだりを繰り返しているので客の入りは悪い。凪沙はカウンターの隅っこで一人物思いにふけっていた。この先自分はどう生きればいいのか。愛玲奈を失った今、自分の支えになるものは何か。愛玲奈の笑顔、愛玲奈の涙、愛玲奈の肌、全てが過去のものになってしまった。凪沙はすべてを失ったような空疎な思いに駆られた。ハイボールを流し込んでふと涙ぐむと背後の扉が元気よく開かれ、賑やかな二人連れの声が聞こえてきた。どこかで聞いた事のある声だ。
「あれ? もしかして凪沙さん?」
神経質そうな声。
「ああ、そうだ間違いない、凪沙さんだ」
野太い声。
「桐吾さん? 晃さんも。どうしてここに」
驚いて涙を拭く暇もなかった凪沙。
「僕たちまた旭川に来たんですよ。僕は函館に来たことがなかったと言ったら彼が連れてきてくれたんです。観光です。湯豆腐と熱燗四合」
晃の声は幾分和らいでいるように聞こえた。
「愛玲奈さんがいらっしゃらないようですがどうかされたんですか」
桐吾がごく軽い口調でそう言いながら凪沙の隣に、晃がさらにその隣に座る。凪沙は泣き出しそうになるのを堪えて吐き出した。
「愛玲奈は…… もういません。明日には故郷へ帰ります」
わずかに驚いた表情を浮かべた桐吾は痛ましそうに言う。
「そんな。あんなに函館に来たがっていたのに。一体何があったんですか」
「私の母が愛玲奈だけを連れ戻しに来ました。家業が傾いていたので政略結婚する必要があって、あちらの親が心労で倒れたと聞くといてもたってもいられなくなったようです。その事業が潰れると村人の半数が路頭に迷うと言われたのも愛玲奈の心を動かしたようです」
桐吾と晃は沈黙する。小鍋の湯豆腐が来ると晃は黙ってそれをいそいそと桐吾に取り分けた。その間に桐吾が重い口を開く。
「凪沙さんと愛玲奈さんはその…… お友達ではなくて、俺たちと同じ境遇だったということでよろしいんですよね」
「どうしてそう思うんですか」
凪沙の言葉は投げやりだった。愛玲奈がいない今そんなことはもうどうでもよかった。
「何と言うか…… 匂いとでも言おうか、まあそういう曖昧なものです」
「……その通りです」
桐吾は得心したように深く頷いた。桐吾の声にさらに深刻さが上乗せされる。
「これからどうなさるおつもりですか」
「判りません…… まだ何も…… 愛玲奈の代わりにここで一生暮らすくらいしかっ……」
俯いて涙を流す。桐吾が重々しい声で言った。
「それでいいんですか」
よくない。何一つよくない。愛玲奈にとっても凪沙にとっても。だがこの選択肢を取らねば藤峯も村もみんなすべてが不幸になる。
桐吾が更に凪沙に詰め寄る。
「では、彼らは愛玲奈さんとあなたの人生を生贄にしないといけないほど大切な人々なんですか」
どうでもいい。藤峯の家が潰れようが村人が何百人路頭に迷おうが凪沙にとってはどうでもよかった。腹の底からどうでもよかった。
だが愛玲奈にとっては違った。あの子は根が優しい子だから。凪沙はそう心の中で呟いた。
「愛玲奈にとってはそうなのかもしれません。わたしと違って」
「優しい方なんですね。愛玲奈さんは」
桐吾は穏やかな口調で言ったが、すぐにすうっと眼を細める。
「しかし……」
「しかし?」
「どうなんでしょう。愛玲奈さんの親御さんの家業が傾いたのは彼らの責任であって愛玲奈さんのせいではありません。それに多くの村人が路頭に迷うと言っても、それはその会社に依存する彼らの体質に起因するものです。彼らはただその会社にぶら下がって生きてきただけで自分で自分の道を切り開くことを怠ったその怠惰さのつけを支払うだけで、これもまた愛玲奈さんには何の罪科もありません。その自分たちの無能と怠惰を、彼らと無関係な愛玲奈さん一人の人生を食い物にして安穏と生きようなどとおこがましいではないですか。事業が傾いたのも、それによって多くの人が路頭に迷うのも全部彼ら自身が被るべき責任ではないのでしょうか。それから目を逸らし愛玲奈さんの人生を生贄にとってまた安逸な暮らしをのうのうと続けようとするのは相当の鉄面皮だと思いますが」
だがその生贄に自ら進んでなりたがるのが愛玲奈だ。凪沙はそう思った。
「これまで育ててくれた父親への恩義も感じていたんでしょう」
「それなら倒れた親御さんの看護をするとか、そう言った形で恩返しをすればいい。もし、親御さんが今回のような望まぬ婚儀をさせるために愛玲奈さんに良い暮らしをさせ、愛玲奈さんの優しさにつけこみ恩で縛りつけていたというなら、卑劣という他はなく、なおさら愛玲奈さんもそれに従う義務などありません」
※たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を~どうも誰かと人違いをしたようだ。
拙作「月と影――ジムノペディと夜想曲」より。
◆次回 第17話 決意する凪沙
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やりきれない思いを胸に|凪沙《なぎさ》はあてどもなく函館の街を歩いた。これが|愛玲奈《あれな》の死にたがっていた街、函館。北風と路面電車と坂と港の街。だがもう明日になれば|愛玲奈《あれな》はもういない。わたしは一人置いて行かれるんだ。そう思うと「クソっ」と悪態を吐いてしまう。
たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を見つける。見てみると出入り口前の雪かきをする若い、とは言え凪沙より五つは年上に見える女性店員と眼が合った。温かみのある包容力を感じる目だった。それに素朴だが不思議と美人だ。その美人店員は外見に違わぬ美しい声で凪沙に声をかけてきた。
「どうぞいらっしゃいませ。開店したばかりですから席は空いてますよ」
やけ酒か。それも悪くない。普段なら節約のために飲酒など控えていたが、|愛玲奈《あれな》のいない今、そんなことはもうどうでもよかった。凪沙はふらりと店に入る。十席程度のカウンターしかないその酒場で凪沙と同い年くらいの常連客らしい男が、いかつい顔で愛想の悪そうな板前と音楽の話をしている。クラシックだろうか。その男性客は凪沙を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに平静を取り戻すと今度は静かに酒を飲み始める。どうも誰かと人違いをしたようだ。
凪沙も静かに飲んだ。枯れた味わいの肴が酒によく合う。二時間ほど飲むうちに凪沙は酩酊寸前にまでなった。
窓の外は吹雪いたり止んだりを繰り返しているので客の入りは悪い。凪沙はカウンターの隅っこで一人物思いにふけっていた。この先自分はどう生きればいいのか。|愛玲奈《あれな》を失った今、自分の支えになるものは何か。|愛玲奈《あれな》の笑顔、|愛玲奈《あれな》の涙、|愛玲奈《あれな》の肌、全てが過去のものになってしまった。凪沙はすべてを失ったような空疎な思いに駆られた。ハイボールを流し込んでふと涙ぐむと背後の扉が元気よく開かれ、賑やかな二人連れの声が聞こえてきた。どこかで聞いた事のある声だ。
「あれ? もしかして凪沙さん?」
神経質そうな声。
「ああ、そうだ間違いない、凪沙さんだ」
野太い声。
「|桐吾《とうご》さん? |晃《あきら》さんも。どうしてここに」
驚いて涙を拭く暇もなかった凪沙。
「僕たちまた旭川に来たんですよ。僕は函館に来たことがなかったと言ったら彼が連れてきてくれたんです。観光です。湯豆腐と熱燗四合」
晃の声は幾分和らいでいるように聞こえた。
「|愛玲奈《あれな》さんがいらっしゃらないようですがどうかされたんですか」
桐吾がごく軽い口調でそう言いながら凪沙の隣に、晃がさらにその隣に座る。凪沙は泣き出しそうになるのを堪えて吐き出した。
「|愛玲奈《あれな》は…… もういません。明日には故郷へ帰ります」
わずかに驚いた表情を浮かべた桐吾は痛ましそうに言う。
「そんな。あんなに函館に来たがっていたのに。一体何があったんですか」
「私の母が|愛玲奈《あれな》だけを連れ戻しに来ました。家業が傾いていたので政略結婚する必要があって、あちらの親が心労で倒れたと聞くといてもたってもいられなくなったようです。その事業が潰れると村人の半数が路頭に迷うと言われたのも|愛玲奈《あれな》の心を動かしたようです」
桐吾と晃は沈黙する。小鍋の湯豆腐が来ると晃は黙ってそれをいそいそと桐吾に取り分けた。その間に桐吾が重い口を開く。
「凪沙さんと|愛玲奈《あれな》さんはその…… お友達ではなくて、俺たちと同じ境遇だったということでよろしいんですよね」
「どうしてそう思うんですか」
凪沙の言葉は投げやりだった。|愛玲奈《あれな》がいない今そんなことはもうどうでもよかった。
「何と言うか…… 匂いとでも言おうか、まあそういう曖昧なものです」
「……その通りです」
桐吾は得心したように深く頷いた。桐吾の声にさらに深刻さが上乗せされる。
「これからどうなさるおつもりですか」
「判りません…… まだ何も…… |愛玲奈《あれな》の代わりにここで一生暮らすくらいしかっ……」
俯いて涙を流す。桐吾が重々しい声で言った。
「それでいいんですか」
よくない。何一つよくない。|愛玲奈《あれな》にとっても凪沙にとっても。だがこの選択肢を取らねば藤峯も村もみんなすべてが不幸になる。
桐吾が更に凪沙に詰め寄る。
「では、彼らは|愛玲奈《あれな》さんとあなたの人生を生贄にしないといけないほど大切な人々なんですか」
どうでもいい。藤峯の家が潰れようが村人が何百人路頭に迷おうが凪沙にとってはどうでもよかった。腹の底からどうでもよかった。
だが|愛玲奈《あれな》にとっては違った。あの子は根が優しい子だから。凪沙はそう心の中で呟いた。
「|愛玲奈《あれな》にとってはそうなのかもしれません。わたしと違って」
「優しい方なんですね。|愛玲奈《あれな》さんは」
桐吾は穏やかな口調で言ったが、すぐにすうっと眼を細める。
「しかし……」
「しかし?」
「どうなんでしょう。|愛玲奈《あれな》さんの親御さんの家業が傾いたのは彼らの責任であって|愛玲奈《あれな》さんのせいではありません。それに多くの村人が路頭に迷うと言っても、それはその会社に依存する彼らの体質に起因するものです。彼らはただその会社にぶら下がって生きてきただけで自分で自分の道を切り開くことを怠ったその怠惰さのつけを支払うだけで、これもまた|愛玲奈《あれな》さんには何の|罪科《つみとが》もありません。その自分たちの無能と怠惰を、彼らと無関係な|愛玲奈《あれな》さん一人の人生を食い物にして安穏と生きようなどとおこがましいではないですか。事業が傾いたのも、それによって多くの人が路頭に迷うのも全部彼ら自身が被るべき責任ではないのでしょうか。それから目を逸らし|愛玲奈《あれな》さんの人生を生贄にとってまた安逸な暮らしをのうのうと続けようとするのは相当の鉄面皮だと思いますが」
だがその生贄に自ら進んでなりたがるのが|愛玲奈《あれな》だ。凪沙はそう思った。
「これまで育ててくれた父親への恩義も感じていたんでしょう」
「それなら倒れた親御さんの看護をするとか、そう言った形で恩返しをすればいい。もし、親御さんが今回のような望まぬ婚儀をさせるために|愛玲奈《あれな》さんに良い暮らしをさせ、|愛玲奈《あれな》さんの優しさにつけこみ恩で縛りつけていたというなら、卑劣という他はなく、なおさら|愛玲奈《あれな》さんもそれに従う義務などありません」
◆次回 第17話 決意する凪沙 やりきれない思いを胸に|凪沙《なぎさ》はあてどもなく函館の街を歩いた。これが|愛玲奈《あれな》の死にたがっていた街、函館。北風と路面電車と坂と港の街。だがもう明日になれば|愛玲奈《あれな》はもういない。わたしは一人置いて行かれるんだ。そう思うと「クソっ」と悪態を吐いてしまう。
たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を見つける。見てみると出入り口前の雪かきをする若い、とは言え凪沙より五つは年上に見える女性店員と眼が合った。温かみのある包容力を感じる目だった。それに素朴だが不思議と美人だ。その美人店員は外見に違わぬ美しい声で凪沙に声をかけてきた。
「どうぞいらっしゃいませ。開店したばかりですから席は空いてますよ」
やけ酒か。それも悪くない。普段なら節約のために飲酒など控えていたが、|愛玲奈《あれな》のいない今、そんなことはもうどうでもよかった。凪沙はふらりと店に入る。十席程度のカウンターしかないその酒場で凪沙と同い年くらいの常連客らしい男が、いかつい顔で愛想の悪そうな板前と音楽の話をしている。クラシックだろうか。その男性客は凪沙を見て一瞬ぎょっとした顔をしたが、すぐに平静を取り戻すと今度は静かに酒を飲み始める。どうも誰かと人違いをしたようだ。
凪沙も静かに飲んだ。枯れた味わいの肴が酒によく合う。二時間ほど飲むうちに凪沙は酩酊寸前にまでなった。
窓の外は吹雪いたり止んだりを繰り返しているので客の入りは悪い。凪沙はカウンターの隅っこで一人物思いにふけっていた。この先自分はどう生きればいいのか。|愛玲奈《あれな》を失った今、自分の支えになるものは何か。|愛玲奈《あれな》の笑顔、|愛玲奈《あれな》の涙、|愛玲奈《あれな》の肌、全てが過去のものになってしまった。凪沙はすべてを失ったような空疎な思いに駆られた。ハイボールを流し込んでふと涙ぐむと背後の扉が元気よく開かれ、賑やかな二人連れの声が聞こえてきた。どこかで聞いた事のある声だ。
「あれ? もしかして凪沙さん?」
神経質そうな声。
「ああ、そうだ間違いない、凪沙さんだ」
野太い声。
「|桐吾《とうご》さん? |晃《あきら》さんも。どうしてここに」
驚いて涙を拭く暇もなかった凪沙。
「僕たちまた旭川に来たんですよ。僕は函館に来たことがなかったと言ったら彼が連れてきてくれたんです。観光です。湯豆腐と熱燗四合」
晃の声は幾分和らいでいるように聞こえた。
「|愛玲奈《あれな》さんがいらっしゃらないようですがどうかされたんですか」
桐吾がごく軽い口調でそう言いながら凪沙の隣に、晃がさらにその隣に座る。凪沙は泣き出しそうになるのを堪えて吐き出した。
「|愛玲奈《あれな》は…… もういません。明日には故郷へ帰ります」
わずかに驚いた表情を浮かべた桐吾は痛ましそうに言う。
「そんな。あんなに函館に来たがっていたのに。一体何があったんですか」
「私の母が|愛玲奈《あれな》だけを連れ戻しに来ました。家業が傾いていたので政略結婚する必要があって、あちらの親が心労で倒れたと聞くといてもたってもいられなくなったようです。その事業が潰れると村人の半数が路頭に迷うと言われたのも|愛玲奈《あれな》の心を動かしたようです」
桐吾と晃は沈黙する。小鍋の湯豆腐が来ると晃は黙ってそれをいそいそと桐吾に取り分けた。その間に桐吾が重い口を開く。
「凪沙さんと|愛玲奈《あれな》さんはその…… お友達ではなくて、俺たちと同じ境遇だったということでよろしいんですよね」
「どうしてそう思うんですか」
凪沙の言葉は投げやりだった。|愛玲奈《あれな》がいない今そんなことはもうどうでもよかった。
「何と言うか…… 匂いとでも言おうか、まあそういう曖昧なものです」
「……その通りです」
桐吾は得心したように深く頷いた。桐吾の声にさらに深刻さが上乗せされる。
「これからどうなさるおつもりですか」
「判りません…… まだ何も…… |愛玲奈《あれな》の代わりにここで一生暮らすくらいしかっ……」
俯いて涙を流す。桐吾が重々しい声で言った。
「それでいいんですか」
よくない。何一つよくない。|愛玲奈《あれな》にとっても凪沙にとっても。だがこの選択肢を取らねば藤峯も村もみんなすべてが不幸になる。
桐吾が更に凪沙に詰め寄る。
「では、彼らは|愛玲奈《あれな》さんとあなたの人生を生贄にしないといけないほど大切な人々なんですか」
どうでもいい。藤峯の家が潰れようが村人が何百人路頭に迷おうが凪沙にとってはどうでもよかった。腹の底からどうでもよかった。
だが|愛玲奈《あれな》にとっては違った。あの子は根が優しい子だから。凪沙はそう心の中で呟いた。
「|愛玲奈《あれな》にとってはそうなのかもしれません。わたしと違って」
「優しい方なんですね。|愛玲奈《あれな》さんは」
桐吾は穏やかな口調で言ったが、すぐにすうっと眼を細める。
「しかし……」
「しかし?」
「どうなんでしょう。|愛玲奈《あれな》さんの親御さんの家業が傾いたのは彼らの責任であって|愛玲奈《あれな》さんのせいではありません。それに多くの村人が路頭に迷うと言っても、それはその会社に依存する彼らの体質に起因するものです。彼らはただその会社にぶら下がって生きてきただけで自分で自分の道を切り開くことを怠ったその怠惰さのつけを支払うだけで、これもまた|愛玲奈《あれな》さんには何の|罪科《つみとが》もありません。その自分たちの無能と怠惰を、彼らと無関係な|愛玲奈《あれな》さん一人の人生を食い物にして安穏と生きようなどとおこがましいではないですか。事業が傾いたのも、それによって多くの人が路頭に迷うのも全部彼ら自身が被るべき責任ではないのでしょうか。それから目を逸らし|愛玲奈《あれな》さんの人生を生贄にとってまた安逸な暮らしをのうのうと続けようとするのは相当の鉄面皮だと思いますが」
だがその生贄に自ら進んでなりたがるのが|愛玲奈《あれな》だ。凪沙はそう思った。
「これまで育ててくれた父親への恩義も感じていたんでしょう」
「それなら倒れた親御さんの看護をするとか、そう言った形で恩返しをすればいい。もし、親御さんが今回のような望まぬ婚儀をさせるために|愛玲奈《あれな》さんに良い暮らしをさせ、|愛玲奈《あれな》さんの優しさにつけこみ恩で縛りつけていたというなら、卑劣という他はなく、なおさら|愛玲奈《あれな》さんもそれに従う義務などありません」
※たまたま狭い裏路地に「冨久屋」という小さな店の看板を~どうも誰かと人違いをしたようだ。
拙作「月と影――ジムノペディと夜想曲」より。
◆次回 第17話 決意する凪沙