私は昼休みの学校にいた。
新しく通い始めたばかりの中学校は、知り合いが一人もいない。だから毎日、一人で昼食を食べなければならない。
今、私が立っているのは校舎の端にある空き教室。窓の外に広がる校庭と青空だけが、私の視界を埋めていた。誰も使っていない教室には、古びた机と椅子が整然と並んでいた。そこに私は一人きりで座っていた。
転校して一週間。クラスでの私は透明人間のようだった。誰も私に話しかけてこない。その中で、私も誰かに話しかけることを躊躇していた。
スマートフォンの時計を確認する。午後十二時十分。昼休みの真っ只中なのに、この空き教室には誰も来ない。
むわっとした空気が私の肌を包み込む。制服のブラウスには汗が滲み、お弁当箱を持つ手にも湿り気を感じた。校庭からは生徒たちの声が聞こえる。
その時、私の背筋を冷たいものが這い上がった。
何かを感じて振り返ると、いつの間にか、教室の隅の席に女子生徒が座っていた。
長い黒髪。切れ長の瞳。真っ白な肌。
でも、おかしい。
彼女は冬服のセーラー服を着ていた。この夏の猛暑の中で、長袖の紺色の制服に白いスカーフ。額には汗の一滴もない。
それに、セーラー服は、この学校の制服ではない。今の校則ではブレザーであるはずだ。
いや、そもそも…。
ついさっきまで、ここに誰もいなかったはずだった。私はドアから入ってきて、教室全体を見渡している。彼女がそこにいたなら、すぐに気づいたはずだ。
僅かな一瞬の隙に現れている、そんな感じだった。
まるで私が瞬きした一瞬の間に、そこにいた。でも、初めから存在していたかのように。
私が教室を後にしようとした瞬間、頭の中に見知らぬ光景が浮かんだ。自分の意志とは無関係に、脳内に映像が流れ込んでくる。
◇
吹雪の日。視界を奪う猛吹雪の中、教室の窓から見えるのは、白一色の世界だった。
誰からも相手にされていない彼女は、その教室にいた。
ポツンと一人だけいる女子生徒。窓際に立っている彼女。真っ白な世界を教室の窓から見ている彼女は、孤独だった。
その姿は、教室にいるにもかかわらず、いないも同然だった。
ふだん、教室の後方の席に座る彼女は、誰からも相手にされない。
生徒たちの笑い声。自分だけが円の外にいる痛み。クラスの輪から除外された孤独。
自分だけが素通りされる現実。
「あいつ、いつも一人でいるよね。」「気持ち悪い。」「相手にするな。」
背後から聞こえる嘲笑。数人の同級生の声。
窓際に寄りかかるようにいる彼女に、突然の衝撃。
背中を押される感覚。予期せぬ暴力。崩れ落ちる体勢。
身体の重さを窓ガラスは支えきれなかった。身体に、ガラスの刺さる痛み。そして、三階からの転落。
回転する視界がスローで動いていた。近づく地面。雪が上に向かって舞い上がるように見えた。
そして、闇。
次に目を覚ました時、浮遊していた。教室に一人、浮遊するように存在している。いや、違う。もう体はないのだ、と分かった。
そのまま、窓から身を乗り出すと、三階下の雪の上に自分の体が横たわっているのが見える。広がる赤い液体で染まった白い雪。おそらく、もうあの身体は二度と動くことはないだろう。
窓の外では、クラスメイトたちが泣いている。教師たちが駆け寄り、遠くでサイレンが鳴り響く。彼女は肉体を失った魂として、全てを俯瞰している。自分の死の現場を、まるで第三者のように見下ろしている。
『事故だった』と言う大人たち。『バランスを崩したのだろう』という結論。
でも、真実を知るのは彼女だけ。あれは事故ではなく、明確な暴力だった。
彼女を突き落とした人たち。落下する直前に見えた、彼らの顔。それは、自分たちの行為の重さに気づき始めた表情。
そして不思議なことに、その顔に別の誰かの顔が重なっていた。
彼女は悟った。自分の魂はこの教室に縛られている。窓から出ることはできても、この学校から離れることはできない。永遠に、この場所の囚人として。死の瞬間が刻まれたこの教室に閉じ込められ、時間の外側から世界を見続ける運命なのだと。
転落した場所を見下ろす窓辺が、彼女が最も引き寄せられる場所となった。死の痕跡に繋がれた霊のように、彼女はこの悲劇の舞台から離れられなくなったのだ。
◇
現実に引き戻された私は、目の前の現象が何だったのか理解できずにいた。今の幻視は何? まるで彼女の記憶を直接見せられたような感覚。他者の死の瞬間を、自分のことのように体験していた。
しかも、私も彼女の物語の登場人物であるかのような奇妙な既視感。まるで過去のどこかで、私自身がこの光景を見ていたような。そんな、不思議な感覚。
私の視界に窓が目に入った。この窓から彼女が転落したのだ。この同じ教室から。時を超えて繋がる悲劇の舞台に、今、私が立っていた。
振り返ると、彼女が私の方を見ていた。無言のままだ。
その瞳には底知れぬ孤独があった。何かを訴えかけるような、何かを渇望するような眼差し。魂の奥底まで見透かされるような、深淵にも似た瞳。
何か言葉をかけたくても、喉から声が出なかった。私は恐怖で凍りついたように立ちすくんでいた。
彼女の存在は幻のようであり、同時に私より確かな実在のようにも感じられた。この教室に閉じ込められた魂。時間の牢獄の囚人。
そして私は、彼女が求めているものが何なのか、薄々気づき始めていた。解放。自由。そして、その代償として必要なもの——次の囚人だ。
◇
新たな映像が私の意識を占領する。
この教室での終わりなき時間。永遠の監禁状態。
窓から差し込む光の変化。巡る四季。何度も繰り返される春夏秋冬。同じ窓から見える景色が変化していく。
時代は移り変わり、制服も変わり、教室の形も少しずつ変化する。黒板がホワイトボードに。木製の机が新しいものになっていく。
でも、彼女だけはそこにいる。変わらないのは彼女だけ。
教室に出入りする生徒たち。彼らは彼女を見ない。彼女の存在に気づかない。彼女は時間の外側の存在。
叫んでも、手を振っても、無反応。壁を叩いても、音すら届かない。
永遠の孤独。時間の感覚が失われていく。一日が一年のよう、また一年が一瞬のよう。
『誰か、私を見て』という絶え間ない願い。彼女の孤独を終わらせて欲しい。
そして、ある日。
転校生の姿。その生徒は彼女を見た。彼女に気づいた。何十年ぶりかの人との接触。
『やっと見つけた』という安堵。長い孤独の終わりの予感。
孤独からの解放の希望。自由になれる可能性。
『この子も、私と同じ』という直感。一目見て分かった。その転校生も孤独を抱えている。
『彼女も、誰からも見られていない』彼女もまた、クラスの中で透明な存在。
そして奇妙な認識——『彼女は私かもしれない』過去の自分を見ているような既視感。
時の輪の中で、同じ魂が何度も現れる感覚。孤独な私たちは同じなのだ。
魂の断片が集まり、また別れていく。魂の循環の一部。
もしかしたら、彼女たちは同一なのかもしれない。自他の境界は曖昧となり、いつかは順番を巡る運命にあるのだ。
◇
現実に引き戻され、私は彼女がゆっくりと近づいてくる。
目の前にいる彼女は、歩いているようには見えない。しかし、確実にこちらに向かっていることが理解できる。
私は動くことが出来ない。
逃げようと、必死にもがく。
その瞬間、また鮮明な映像が私の頭を埋め尽くした。
◇
闇の中での目覚め。無限の夜。光のない世界。
『私はどこにいるの?』という疑問。時間の感覚が消えたように感じる。
『私はまだここなの?』という認識。教室という牢獄に囚われたように思えた。
教室に閉じ込められた魂。物理的な体を失った意識。
数えきれない日々。永遠に続くかのような、解放されない時間が続く。
『なぜ私だけが、ここに?』他の死者は皆、あの世に行ったはずなのに。
そして浮かぶ考え。
『私と同じ魂がここに来たとき。』それが解放の条件。
『輪廻は続く。』それは、魂の循環。
『私の代わりに、誰かが。』ここからの解放には、代償が必要。
さらに奇妙な認識が湧き上がった。
『求めるのは、孤独な魂。』それは同じような魂の結合。
『私が彼女で、彼女が私。』自他の区別の曖昧さ。
『永久の環で、分かれては集まり、また分かれる。』円環としての時間。
この教室は、現実と非現実の境界。生と死の狭間にある。
◇
我に返った時、全身が凍るような恐怖を感じた。
これは単なる幻覚や記憶の断片ではない。目の前にいる少女は、ただの怨霊でも悪霊でもない。彼女もかつては私のように孤独だった少女だ。ただ、魂がこの教室に閉じ込められている。それは罰なのか報いなのか、単なる偶然なのか。
そして、環の中で、同じ魂が繰り返し現れては消えていく。もしかしたら、永遠の輪廻の一片なのかもしれない。
今、彼女は解放を求めている。囚われの身から自由になりたいという切実な願い。そして、その役目が私に回ってきた。彼女の後継者として、私がその鎖を引き継ぐ番なのだ。
これは解放する儀式なのかもしれない。
逃げなければならない。この運命から逃れたい一心で、私は体を動かそうとした。
しかし、身体が動かなかった。自分の体が自分のものではないような感覚。一歩も動けない。
恐怖で叫ぼうとしたが、声すらも出なかった。
全身が金縛りの状態。そこから抜け出そうと必死に抵抗する。
彼女の姿に変化が起きた。彼女が消えていくようで、いや、何か別のものに変容している。そして最も恐ろしいことに、その彼女の姿が私自身の姿と重なって感じられた。まるで私という存在が彼女と置き換わっていくような感覚。自分が、別の存在に押し出されていく、そんな不安定感。
彼女がいた場所には、もはや何か光り輝くものしかない。その光が私の体に絡みつくように投射された。
それは憎悪や怒りからではなく、哀しみと諦め、そして一筋の希望から生まれる光だった。敵意ではなく、ある種の共感から生じる繋がり。同じ孤独を知る者同士の理解。
やがて、彼女の形は完全に崩れ、純粋な光の塊となって私と共にあった。実体を失い、エネルギーだけになった存在。
その光が私の意識に触れた瞬間、最後の啓示が脳裏に浮かんだ。
全てを理解させる最終的な真実。
私の意識の中で、彼女の過去の記憶と私自身の記憶が混ざり合っていった。
私の幼少期の思い出、彼女の最期の日の記憶、学校生活の断片、全てが区別がつかなくなるほどに。
◇
輪廻の輪。終わることなく回転し続ける大きな車輪。
この教室に囚われてきた無数の魂たち。連なる犠牲者の長い列。
次々と交代してきた囚人たち。前任者から後継者へと続く鎖。
魂の入れ替わり。解放と幽閉を繰り返す儀式。
『肉体を持つ者と持たざる者』の魂の交換。具現化された実体と、形のない霊体の入れ替わり。
解放と幽閉の永遠の繰り返し。終わりなき連鎖。誰も逃れられない循環。
終わりなき連鎖。永遠の贖罪の輪。果てしない償いの日々。
無限の囚われ。時間という名の檻。逃れようのない煉獄。
そして気づく。
時間の環が完全な円を描き、始まりと終わりが同一点で重なり合う感覚。自らの尾を飲み込む蛇の象徴。永遠に続く循環。
教室は時間の結節点。全ての時間が交わる特別な場所。
ここで全ての時が一点に収束する。ここは、全てが同じ場所にある特異点。
◇
体から力が急速に抜けていくのを感じた。筋肉が緩み、骨がゆっくりと溶けていくような感覚。視界が揺れ、自分という存在が霧のように散っていく感覚に襲われた。自我の崩壊。存在の解体。自己の消失。
必死に抵抗しても、意識が体から引き離されていくのを止められなかった。魂が肉体から引き剥がされていくような、本来一体だったものが分離される違和感だった。
気がつくと、私は自分自身を外側から見ていた。肉体と魂の完全な分離。自分の体を他者のように見下ろす奇妙な視点となった。
私の体は床に崩れ落ち、彼女の光の姿がその周囲を取り巻いていた。眩い光が、私の肉体を包み込んでいった。
彼女の光は次第に濃くなり、やがて私の体に吸収されるように消えていった。光が肉体に吸い込まれ、融合していく様子。二つの存在が一つになっていく神秘的な光景に見えた。
叫びたくても、もはや声を発する手段がなかった。
だって、もう私には声帯がない。身体は目の前の彼女に奪い取られてしまったのだ。
しばらくして、床に倒れていた私の体――いや、もはや私の体ではないもの――がゆっくりと動き始めた。
その動きには不自然さがあった。まるで新しい体の動かし方を学んでいるような、ぎこちなさ。人形を操る不慣れな人形使いのような違和感を感じた。
私の体を手に入れた彼女は、ゆっくりと立ち上がり、自分の――私の――手を見つめた。指を一本ずつ動かし、関節を曲げ伸ばしする。
その表情には陶酔感が満ちていた。私の身体を使って、彼女はついに自由を勝ち得たのだ。長い囚われの日々からの解放。そして、窓に映る自分の――私の――姿を見ながら、一筋の涙を流した。それは、自由を得た喜びの表れだろう。
そのまま彼女は、私のカバンを手に取り、教室の出口に向かった。
彼女は最後の別れの言葉すらなく、颯爽と教室から出ていった。彼女は、これからあるはずだった、私の人生を奪い、そして、私になりきって生きていくのだ。
教室のドアが閉まる音。
それは、最後の別れの音のように教室に響いた。
それは、私と彼女の最後の接点のようにも聞こえた。
私は必死に追いかけようとしたが、教室の境界で何かに阻まれた。
透明な壁のようなもので、私は閉じ込めていた。それは物理的な壁ではなく、魂を縛る見えない鎖だ。
ここは、決して目に見えない牢獄であり、決して抜け出すことができない監獄だと理解してしまった。
そうだ、これはもう避けられない運命なのだと。
これからは、私が彼女に代わって、この教室で永遠に待ち続けなければならないのだ。
それは、次の孤独な魂が現れるまで。この場所の新たな囚人として。終わりなき再会と別れの循環。魂の断片との邂逅と訣別。
時が流れ、季節が移り変わっていく。
私はこの教室に囚われ、外の世界を眺めるだけの存在となった。生徒たちは来ては去り、誰も私の存在に気づかない。
窓の外では、夕暮れの空が赤く染まっていた。
また新しい一日が終わりを告げる。
そして明日も、明後日も、これから先もずっと、私はここで待ち続ける。
終わりなき囚われの中で。解放の日を夢見ながら。
今日も又、教室の片隅に座り込み、私は膝を抱えた。
この永遠の時を前にした絶望感と、計り知れない孤独と向き合う恐怖が私に襲い掛かる。
永遠の時間。
私の魂は、この教室という煉獄で、解放されることなく、永遠に待ち続けるのだ。
そして、いつか誰かが、この教室に一人で入ってくるのを待っている。
私のように孤独を抱えた誰かを。
私の次の犠牲者となる魂を。
私を解放してくれる存在を。