私は学校の帰り道だった。
最近、私が通い始めたばかりの中学校は、家からとても遠い。
だから、バスを使って通学をすることになっていた。
帰り道の私は、通学する手順に従って、そのバス停にいた。
今、私が座っているのは、プレハブで出来た小さな小屋のような休憩スペースだ。
バス停に設置されている、年季の入ったベンチに、私一人きりだった。
このバス停の向こうには、夏の日差しを浴びて青々と育つ稲穂が一面に広がっている。遠くの山々は蜃気楼のように揺らぎ、古びた道路標識の周りでは、蝉の声が響き渡っていた。
私の制服には汗が滲み、カバンを持つ手にも湿り気を感じた。
それは、周囲にある何もかもか、この田舎に慣れていない私を排除しているかのように、感じてしまった。
…はぁ。
思わず、私はため息をついた。
前に住んでいた場所からだと、とても考えられない光景だった。
私が今の学校に転校してきて一週間が過ぎていた。
教室の中で、私はまるで空気のような存在だった。誰とも言葉を交わすことなく、一日が終わる。
私と同じクラスの子たちは、私をのけ者にしたかのように別々へ帰っていく。
だから、私だけが、この場所でバスを待っていた。
都会から来た私には、初めは全てが新鮮に思えた。
だけど、学校で居場所がないことに気が付くと、その新鮮さは心地よいものではなく、むしろ私を不安にさせていった。
手持ち無沙汰となった私は、スマートフォンの時計を確認した。
午後五時十分。
部活動の終わる時間帯なはずなのに、ここには誰も見当たらない。
その時、私の視界の端に何かが見えた。
だから私は、そっちを見た。
いつの間にか、ベンチの隣には、セーラー服を着た女子生徒が座っていた。
切れ長の瞳とそれを包む長い睫毛。肌は透き通るように真っ白。
そして、黒髪は腰まで伸びていて、綺麗で思わず見とれてしまうほど。
だけど、その見たことのない女子生徒のセーラー服は、冬服であることを表していて…。
長袖のセーラー服だった。紺色の制服で、胸には白いスカーフ。
…夏なのに。
けれども、この蒸し暑さの中なのに、彼女は涼やかな表情で本を読んでいた。
いや、周囲の気温が低いようにも感じた。
セーラー服、ということは他の学校の生徒だろうけども。
よくよく考えてみれば、この周囲には中学校すら私の通っている学校、その一つしかない。
ということは高校生?
そうかもしれない。
というのは、その女子生徒はとっても、大人びた感じだったから。
すらりとした体躯。本のページをめくる手が細い。
けれど、やっぱりどう考えても、何かがおかしい。
つい先ほどまで、確かに誰もいなかったはず。人の気配すら感じなかったのだ。
私は目を凝らした。
すると、彼女が本のページをめくった。
かすかな紙の音が、この瞬間が確かに存在することを告げていた。
その仕草には、どこか現実離れした優美さがあって、それはまるで、ゆっくりと時が流れているかのように思えた。
怖いけど、何か安心できるような包容力を感じた。
「こ、こんにちわ…。」
私が話しかけると、彼女は本から目を上げた。
「あら、珍しいわね。」
透明感のある声。
「ええっと。」
返信に困ってしまった。何が珍しいのだろう?
「ああ、初めまして。私はレイコよ。あなたは?」
そう名乗られて、私は緊張しながら答えた。
「サクラです。」
「サクラさん。あなたは私が見えるのね。」
「見える、というのは?」
「ごめんなさい。私はもう死んでいるの。」
その言葉に、私の言葉が止まった。
不思議と、怖くはなかった。
そして、それは納得ができてしまう答えだった。
「私のことが見えるなんて、本当に珍しいわ。」
レイコさんは、静かに微笑んだ。
その優しい表情に、私は自然と心を開いていた。
「あの、レイコさんはどうしてここにいるんですか?」
「ここでバスを待っているの。ずっと、ずっと待ち続けているわ。」
どういう意味だろう?
私が考えていると、隣にいるレイコさんはふっと、微笑んだ。
「あなたのことを教えて?最近、このバス停に来るようだけれど。」
レイコさんは、じっとこちらを見ながら、聞いてきた。
「私、先週この町に引っ越してきたんです。前は都会に住んでいて…。」
「そう、環境が大きく変わったのね。」
レイコさんの声には、優しい理解があるように思えた。
「はい。学校でも、まだ馴染めなくて。クラスの子たちと話すのも、何だか怖くて…。」
「あなたも大変ね。」
涼しい顔でレイコさんは同意してくれた。
「私も昔、あなたが通う学校の生徒だったの。毎日、この場所でバスを待っていたわ。今でも、ここで本を読むのが好きなの。誰も私のことは気付かないけれど。」
そう言って、レイコさんは少し寂しそうな表情を見せた。
「私も、クラスで誰も私に気付いてくれないみたいで…。」
「でも、私はずっとあなたのことを見ていたわ。最近、一人でバスを待っている姿をね。」
その言葉が、心に染みた。誰かが私のことを見ていてくれた。それだけで、この一週間の孤独が少し和らぐような気がした。
「明日も会いましょう。」
レイコさんの問いかけに、私は心からの笑顔で答えた。
「はい。約束します。」
遠くでバスが近づいてくる音が聞こえる。振り返ると、レイコの姿は消えていた。
でも確かに、彼女はそこにいた。
私の心には、温かさが残されていた。それはこの田舎町に来てから初めて、感じた心地よさだと思った。
◇
次の日から、私はレイコさんに会えることを心待ちにしていた。
私以外には誰も来ない、この閑散としたバス停が、私たちだけの隠れ家のように思えた。
レイコさんは昔の学校での出来事を教えてくれた。
昔の制服のことや、かつて使われていた古い校舎の様子など。
そして、私のことや学校での悩みを話すと、いつも熱心に耳を傾けてくれた。
学校では相変わらず孤独だったけれど、放課後にレイコさんの優しい声を聞けることが、私の心を支えてくれていた。
私は何度かレイコさんのことについて、尋ねようとした。
例えば、どうしてこの場所にいるのか、などなど。
でも、そのたびにレイコさんは話題を変えるか、曖昧な返事で答えを避けた。
やがて、それは話してはいけないことなのだと、私は次第に理解するようになった。
レイコさんの声にある暗い感じが、その秘密の重さを物語っていたからだ。
私はそれ以上深く追及することはしなかった。
きっと、レイコさんには、話したくない理由があるのだろう。
それを私が無理に聞き出そうとするのは、レイコさんを傷つけることになるかもしれない。そう考えると、それ以上聞き出す勇気が出なかった。
しかし時が経つにつれ、私の中でレイコさんへの疑問が大きくなっていった。なぜ、このバス停にいるのか。どうして制服は冬服のままなのか。そして、なぜ私にだけ姿が見えるのか。
私たちの関係が深まれば深まるほど、その謎は私の心を占めていった。
レイコさんの存在そのものが不思議だった。彼女は確かにそこにいるのに、他の誰の目にも映らない。私だけが見ることができる、特別な存在。
放課後のバス停で、私は思い切って聞き出すことに決めた。
今日こそ、レイコさんに全てを聞こうと思った。
私にとってレイコさんは、かけがえのない存在になっていたから。
「レイコさん。」
私の声は自然な様子で聞いてみた。でも、目は真っ直ぐにレイコさんを見つめていた。
レイコさんは本から目を上げ、深いため息をついた。その表情には、何か暗いものがあった。
「私ね、あなたを傷つけたくないの。」
レイコさんの声には、これまで聞いたことのない重みがあった。
「あなたは、私にとってとても大切な人だから。だからこそ、知らない方が幸せなことだってあるの。」
「でも、私はレイコさんは私の親友です。だから、知っておきたいです。良いことも、辛いことも、全部。」
私の言葉に、レイコさんは長い沈黙で応えた。その間、バス停には重たい空気が漂っていた。やがて、レイコさんは諦めたように話し始めた。
「ここで、事故に遭ったの。」
その言葉は、私の予感をはるかに超えていた。胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「それは冬の夕暮れ時。学校の帰り道だった。暴走したバスが、突然、私に向かってきたの…。」
レイコさんの声が途切れた。制服の裾が風もないのに揺れている。
「気がついた時には、もう私はここに居続けることになっていたの。永遠に。季節が巡っても、時が過ぎても、私は、その時のまま。それからずっとここで待ち続けている。」
レイコさんは微かな笑みを浮かべた。でも、私の頬を伝う涙が止まらなかった。
「泣かないで。私は後悔なんてしていないの。ただね…。」
レイコさんは言葉を選ぶように間を置いた。
「このバス停に囚われて、ずっとひとりぼっちでいるのが辛かった。誰も私のことに気付いてくれない。声をかけることもできない。でも、今は…。」
「今は?」
「サクラが来てくれたから、少し世界が明るくなったの。」
その言葉に、私の胸が温かくなった。でもすぐに、レイコさんの表情が曇った。
「でも、これ以上私に近づくのは危険よ。」
「どうしてですか?」
「私の存在が、あなたをこの世界から遠ざけてしまうかもしれない。もし、そうなったら…私は決して自分を許せないわ。」
レイコさんの姿が一瞬透けて見えた。その目には、深い悲しみがあった。
「サクラさん、あなたには生きている。だから、生きている人の中で、素敵な友達ができるべきなの。私じゃなくて。」
その言葉に、私は強く首を振った。
「違います。レイコさんは私の大切な友達です。それは、レイコさんが…その…亡くなっているからって、変わらないんです。」
「サクラ…。」
「私、レイコさんと出会えて本当に良かった。この町に来て、学校でも馴染めなくて、寂しくて。でも、レイコさんがいてくれたから…。」
言葉につまる私に、レイコさんは静かに手を伸ばした。その手は私の肩をすり抜け、冷たい空気の痕跡だけが残った。
「ごめんなさい。こんなことしか…。」
「大丈夫です。レイコさんの気持ちが伝わってきました。」
私は微笑んだ。レイコさんも、悲しそうな笑顔を浮かべた。
「でもね、サクラ。桜を私と同じ状態に引きずり込みたくないの。」
私はそのレイコさんの理由に心が痛くなった。
「私は…。」
私は言葉を選びながら続けた。
「私は、レイコさんと一緒にいることで、むしろ強くなれた気がするんです。」
自分の気持ちを、私は精一杯の言葉で伝えた。
「レイコさんは私のことを心配してくれているんですよね。でも、私は大丈夫です。むしろ、レイコさんがいてくれたおかげで今、私はここにいると思います。」
レイコさんは黙って私の言葉を聞いていた。その表情が、少しずつ和らいでいくのが分かった。
「本当?」
「はい。レイコさんが、いつも励ましてくれるから。」
私の言葉に、レイコさんの表情が柔らかくなった。
「そう…かもしれないわね。私、間違っていたのかもしれない。」
遠くでバスが近づいてくる音が聞こえた。
「もう行かなきゃ。また明日…来てもいいですか?」
「ええ、もちろんよ。」
レイコさんの笑顔は、夕暮れの中で優しく輝いていた。
◇
レイコさんが私に過去を打ち明けてくれた日の夜、私は不思議な夢を見た。
気がついた時には、私は真っ白な空間にいた。そこでレイコさんと向かい合っていた。
夢の中のレイコさんは、何か大切なことを私に伝えようとしていた。口元が動いているのに、声は聞こえない。
その不思議な雰囲気の中で、次第にそのレイコさんの姿が見えなくなっていった。
そして、レイコさんが淡い光となって、白い空間に広がっていき、私の視界は白よりも明るい光でいっぱいとなっていった。
はっ、と気がついたときには、次の朝だった。
ここは間違いなく、私の部屋。
ゆっくりと周囲を見回すと、朝日が薄いレースのカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。窓の向こうには、まだ慣れない田舎の風景が広がっている。遠くに連なる山々の稜線が朝もやに包まれ、近くの田んぼからは早朝の鳥の声が聞こえてきた。
荷造りを終えた段ボールが、部屋の隅に何箱も折りたたまれている。勉強机の上には昨日までの宿題が散らばり、棚には私の大切な漫画の単行本が並んでいた。
そして、その机の前にレイコさんの姿があった。
最初は目を疑ったけれど、確かにそこにいた。早朝の静けさの中で、レイコさんの姿は朝日に照らされた窓辺の光のように、より透明で儚げに見えた。
「レイコさん、どうして私の部屋に?」
私は薄い掛布団を払いのけ、布団の中から身を起こしながら、驚きの声を上げた。
「私にも正確には分からないの。でも、サクラさんに全てを話せたことで、何かが変わったみたい。」
その言葉に、嬉しさで私の目に涙が浮かんだ。
時には励まし、時には助言をくれる。
確かに私たちの絆は、生きている者と亡くなった者という壁なんて関係なかったのだ。