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2-9・狼狽えることじゃない。当然だ。

ー/ー



「美穂ちゃん美穂ちゃん。もう8時になるよ」
 ある程度時間が経ったところで、俺は彼女の肩を揺さぶった。
 本当はぐっすり眠らせてあげたいけれど、美穂ちゃんは未成年だ。タイムリミットがある。
 いくら連絡済みとはいえこれ以上遅い時間まで連れ回していたら彼女の親はもちろんのこと、ヘタすれば警察沙汰になる。それだけは避けたい。
 何度か軽く叩いたり揺らしたりしていると、美穂ちゃんがゆっくりと目を開けた。オレンジ色の目を瞬かせながら俺を見上げる。
「ふぇ……日之太さん?」
 俺を呼びながら美穂ちゃんが身体を起こす。手で髪を撫でてゆっくりと首を左右に振った。
「よく眠れた?」
 俺の問いかけにコクッと頷く彼女。くぁっとあくびを手でおさえ――たと思ったらすぐにハッとして目を見開き、俺の左手から右手を離す。
「お、おはようございます。あれ? もう時間ですか?」
「そうだね、もう8時になるから。今日はもう帰ったほうがいいよ」
「あっ……そうですよね。そっか、眠ってたんだ私」
「そりゃもうぐっすりね」
 言いながら俺は立ち上がりハンガーにかけていた制服を渡す。彼女は「ありがとうございます」と言ってそそくさと受け取り、ササッと身だしなみを整える。
「最近だと一番ゆっくり眠れた気がします。時間的にはそんな長くないけど、でも、いつものこう、意識がブツッて途切れるような感じじゃなくて、ゆっくり意識が沈んでくみたいな……」
 少しだけ気恥ずかしそうに美穂ちゃんが説明する。あれが一番良かったなんて、彼女の普段の生活はどれほど辛いものなのか。
 幸いなことに今俺は眠れている。美穂ちゃんの苦しみは分からない。
 ただ、そんな俺でも近くにいることで彼女が眠れるのならば、これからも協力してあげたいと、ただ純粋にそう思った。
「眠れなくなったら連絡してよ。できるだけ力になるからさ」
「本当ですか? ふふっ、日之太さん優しい」
 俺の言葉に目を細めて笑う彼女。靴を履いて部屋を出て、俺も後に続く。
 受付機で支払いを済ませ、エレベーターに乗る。
 当たり前だがエレベーターから見える外は随分暗くなっていた。季節的にはもうすぐ夏だがさすがに8時までいけば日の高さなんて関係ない。
「美穂ちゃんこの後大丈夫? その、家まで送るってわけには……いかないし。いや、やりたくないわけじゃなくて、ほら、立場的にね?」
「あーそうですよね。パパとママに見つかったらめんどくさそう」
 美穂ちゃんが少しだけ唇を尖らせる。そういえばここへ来る前彼女は友達と遊ぶから遅くなると両親に言っていたらしいが、もし俺の存在が露見したら――あまり考えたくない。
 しかしこのままはいさよならというわけにもいかないだろう。いくらここが東京で、この時間でも高校生が当たり前のように歩いているとしても、イレギュラーは起こる。
 それに美穂ちゃんは正直そこら辺の女子高生と比べるとかなり可愛い。いや、可愛い女の子だけが狙われるわけじゃないけれど、それでも、トラブルに巻き込まれる確率は高いはず。
「どうしよっか。あれだったらタクシーとか呼ぶ?」
「えぇ? そんなのダメですよ。ここのお金だって出してもらって、その上タクシーなんて。それにタクシーなんかで帰ってきたら絶対疑われます」
「それは、確かにそうだ。でもなぁ、1人にするわけには……」
 会話をしている間にエレベーターが一階に到着する。ホールから外へ出るとむわっとした夜の熱気が身体にまとまりついてくる。
「うーん……じゃあパパに連絡して駅まで迎えに来てもらいます。多分もう帰ってるので」
「あぁ、そうだね。それがいい。うん……駅? 駅って最寄り駅とか?」
 俺の疑問に美穂ちゃんはすぐに「はい」と返事をする。つまり――ここから駅までは俺が見送るということだ。
 狼狽えることじゃない。当然だ。むしろここから駅まで少し距離があるのだから、放っておけるはずがない。
 ボディガードではないけれど、せめてなにかあったら彼女を抱えて逃げるくらいしなくては。
「じゃあ帰りますか」
「はーい」
 2人で並んで夜の街を歩く。美穂ちゃんに歩幅を合わせつつ、俺はさっきのことを確認するため彼女の方へ振り向いた。
「そういえばさ、寝落ちする寸前に犬の話してたよね」
「犬、ですか? あぁ……そういえば。しました。したと思います」
「その子の写真とかってある?」
 なんてことない質問だったが、美穂ちゃんはすぐに答えない。
 ここら辺を掘り下げるのは良くなかっただろうか。しかし色々聞いてみないことには物事は進展しないだろう。
 まっすぐ前を見て歩いている彼女。だめだ、これは聞かないほうが良かった。
「あのさ、思い出すのがあれだったら、別に――」
「ないんです。写真は」
 話さなくていいんだよと言おうとしたところで、美穂ちゃんがきっぱりと言い放つ。
 まっすぐ、前を見て歩いている。そのオレンジ色の瞳は、少しも揺らいでいなかった。
「もう昔のことなので、写真はないんです。ごめんなさい」


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「美穂ちゃん美穂ちゃん。もう8時になるよ」
 ある程度時間が経ったところで、俺は彼女の肩を揺さぶった。
 本当はぐっすり眠らせてあげたいけれど、美穂ちゃんは未成年だ。タイムリミットがある。
 いくら連絡済みとはいえこれ以上遅い時間まで連れ回していたら彼女の親はもちろんのこと、ヘタすれば警察沙汰になる。それだけは避けたい。
 何度か軽く叩いたり揺らしたりしていると、美穂ちゃんがゆっくりと目を開けた。オレンジ色の目を瞬かせながら俺を見上げる。
「ふぇ……日之太さん?」
 俺を呼びながら美穂ちゃんが身体を起こす。手で髪を撫でてゆっくりと首を左右に振った。
「よく眠れた?」
 俺の問いかけにコクッと頷く彼女。くぁっとあくびを手でおさえ――たと思ったらすぐにハッとして目を見開き、俺の左手から右手を離す。
「お、おはようございます。あれ? もう時間ですか?」
「そうだね、もう8時になるから。今日はもう帰ったほうがいいよ」
「あっ……そうですよね。そっか、眠ってたんだ私」
「そりゃもうぐっすりね」
 言いながら俺は立ち上がりハンガーにかけていた制服を渡す。彼女は「ありがとうございます」と言ってそそくさと受け取り、ササッと身だしなみを整える。
「最近だと一番ゆっくり眠れた気がします。時間的にはそんな長くないけど、でも、いつものこう、意識がブツッて途切れるような感じじゃなくて、ゆっくり意識が沈んでくみたいな……」
 少しだけ気恥ずかしそうに美穂ちゃんが説明する。あれが一番良かったなんて、彼女の普段の生活はどれほど辛いものなのか。
 幸いなことに今俺は眠れている。美穂ちゃんの苦しみは分からない。
 ただ、そんな俺でも近くにいることで彼女が眠れるのならば、これからも協力してあげたいと、ただ純粋にそう思った。
「眠れなくなったら連絡してよ。できるだけ力になるからさ」
「本当ですか? ふふっ、日之太さん優しい」
 俺の言葉に目を細めて笑う彼女。靴を履いて部屋を出て、俺も後に続く。
 受付機で支払いを済ませ、エレベーターに乗る。
 当たり前だがエレベーターから見える外は随分暗くなっていた。季節的にはもうすぐ夏だがさすがに8時までいけば日の高さなんて関係ない。
「美穂ちゃんこの後大丈夫? その、家まで送るってわけには……いかないし。いや、やりたくないわけじゃなくて、ほら、立場的にね?」
「あーそうですよね。パパとママに見つかったらめんどくさそう」
 美穂ちゃんが少しだけ唇を尖らせる。そういえばここへ来る前彼女は友達と遊ぶから遅くなると両親に言っていたらしいが、もし俺の存在が露見したら――あまり考えたくない。
 しかしこのままはいさよならというわけにもいかないだろう。いくらここが東京で、この時間でも高校生が当たり前のように歩いているとしても、イレギュラーは起こる。
 それに美穂ちゃんは正直そこら辺の女子高生と比べるとかなり可愛い。いや、可愛い女の子だけが狙われるわけじゃないけれど、それでも、トラブルに巻き込まれる確率は高いはず。
「どうしよっか。あれだったらタクシーとか呼ぶ?」
「えぇ? そんなのダメですよ。ここのお金だって出してもらって、その上タクシーなんて。それにタクシーなんかで帰ってきたら絶対疑われます」
「それは、確かにそうだ。でもなぁ、1人にするわけには……」
 会話をしている間にエレベーターが一階に到着する。ホールから外へ出るとむわっとした夜の熱気が身体にまとまりついてくる。
「うーん……じゃあパパに連絡して駅まで迎えに来てもらいます。多分もう帰ってるので」
「あぁ、そうだね。それがいい。うん……駅? 駅って最寄り駅とか?」
 俺の疑問に美穂ちゃんはすぐに「はい」と返事をする。つまり――ここから駅までは俺が見送るということだ。
 狼狽えることじゃない。当然だ。むしろここから駅まで少し距離があるのだから、放っておけるはずがない。
 ボディガードではないけれど、せめてなにかあったら彼女を抱えて逃げるくらいしなくては。
「じゃあ帰りますか」
「はーい」
 2人で並んで夜の街を歩く。美穂ちゃんに歩幅を合わせつつ、俺はさっきのことを確認するため彼女の方へ振り向いた。
「そういえばさ、寝落ちする寸前に犬の話してたよね」
「犬、ですか? あぁ……そういえば。しました。したと思います」
「その子の写真とかってある?」
 なんてことない質問だったが、美穂ちゃんはすぐに答えない。
 ここら辺を掘り下げるのは良くなかっただろうか。しかし色々聞いてみないことには物事は進展しないだろう。
 まっすぐ前を見て歩いている彼女。だめだ、これは聞かないほうが良かった。
「あのさ、思い出すのがあれだったら、別に――」
「ないんです。写真は」
 話さなくていいんだよと言おうとしたところで、美穂ちゃんがきっぱりと言い放つ。
 まっすぐ、前を見て歩いている。そのオレンジ色の瞳は、少しも揺らいでいなかった。
「もう昔のことなので、写真はないんです。ごめんなさい」