「あの、日之太さん」
しばらく漫画を読んでいると、不意に美穂ちゃんが俺を呼んだ。「ん?」と言って顔を向けると彼女は下ろした髪を手櫛で整えながらなにか言いたげな表情でこちらを見ていた。
「あの、ブレザーかけてもいいですか? その、そっちにハンガーあるので」
ピラピラと美穂ちゃんがブレザーの衿を揺らす。そうか、寝るとなったらブレザーを着るわけにはいかない。硬そうだし皺になりそうだし、脱いでおいた方が無難だろう。
「ごめんごめん、気ぃきかなかったね。掛けておくよ」
「あっ、いえ。全然、自分でやるので」
美穂ちゃんが立ち上がりブレザーを脱ぐ。ベルトとボウタイをまとめ、俺の斜め後ろにあるハンガーを手に取ろうとする。
しかし、ハンガーの位置と彼女の身長的な問題ですんなりと行かず、グッと腕を伸ばす。
だがそうすると伸ばした腕にひっかけていたベルトが揺れ、俺の顔面にベルトのバックルが襲い掛かってくる。
「うぉっ」
「わっ、ごめんなさっ――」
謝ろうとしたところで、美穂ちゃんがバランスを崩した。フラットシートのせいで上手く踏ん張れず、そのまま俺に向かって倒れてきたのだ。
ドサッと大きな荷物が落ちたような音が鳴り、咄嗟に閉じた目を開ける。
バランスを崩した美穂ちゃんが、俺に抱き着くような形で倒れていた。
柔らかい感触、シトラス系の制汗剤の匂い。無言で覗き込むと、オレンジ色の瞳と目が合う。
俺達は数秒間ほどくっついて見つめ合っていたが、やがて美穂ちゃんの方がボッと顔を赤くして離れた。足を曲げて座り、毛先を指先で弄る。
「えーっと、美穂ちゃん大丈夫? 怪我してない?」
「だ、だいじょぶです。その、ごめんなさい。倒れちゃって」
「大丈夫だよ、むしろそっちは痛くなかった? どっかぶつけてない?」
「あー……平気です」
美穂ちゃんの瞳が微かに揺れる。そんなにびっくりしたのだろうか。
「そう? ならいいんだけど。美穂ちゃん軽いというよりやわ……いや、なんでもないわ。ブレザー、掛けておくよ。貰ってもいい?」
出そうになった言葉をギリギリ止めて、俺はハンガーを取って手を差し出す。
また転ぶことを危惧したのか、美穂ちゃんはおずおずとブレザーを渡してくれた。
サッとハンガーにかけて、ベルトとボウタイも一緒に吊るす。
ブレザーをかけてまた座ると、美穂ちゃんがパタパタと手で首元を扇いでいた。
「じゃあ、寝ちゃいますね」
そう言って美穂ちゃんはブラウスを第2ボタンまで外す。一瞬ドキッとしたが、それを悟られないよう「うん、おやすみ」とだけ言って俺は視線を逸らした。
さっき読んでた漫画はまだ途中だったけど、次の巻を手に取って開く。
ぺらっとページをめくると、美穂ちゃんが横になった。視線の先には俺と彼女の足が見える。
「あの、日之太さん」
下から美穂ちゃんの声が聴こえる。首を動かして見下ろすと、彼女は横向きの状態で俺の左肘に触れてきた。
「手ぇ握ってもいいですか? その方が、眠れる気がして」
「……あぁ、手ね。うん、いいよ」
左手を彼女の前に置く。片手で漫画を読むのは少し面倒で、太ももとかを上手く使わなければならない。
試しにパラパラとページをめくっていると、左手に柔らかい感触が伝わってくる。
彼女の指だ。下ろした手に指が絡まり、少しずつ引っ張られていく。
「やっぱり、日之太さんの匂い落ち着く……」
美穂ちゃんがいつもより低い声で呟く。適当な相槌を打って、彼女が眠るのを待つ。
左手に微かな吐息が触れる。俺は無心で漫画のページをめくる。
「俺の友達が言うには、俺のフェロモンに反応してるかもしれないって」
漫画を読むふりをして言うと、美穂ちゃんは「んー?」なんて声を伸ばしながらふにふにと俺の指の腹に触れた。
「フェロモンって、なんですか?」
「んーなんて言うのかな。ざっくり言うとその人が発してる匂いみたいなものかな。そういうのって相性があってさ、どれだけ好みじゃない顔でも匂いが好きだと惹かれるみたいな」
「へぇー……日之太さんって物知りなんですね」
「物知り……まぁまぁ、一応年上だしね。大人だし」
「おとななんだ……」
美穂ちゃんの声が個室内に溶けていく。段々と、指に触れる吐息の間隔が一定になっていく。
もうすぐ眠るのだろうか。チラッと視線をやると彼女は虚ろな目で俺の手を見ていた。
「そういえば聞きそびれたけど、美穂ちゃんはいつから眠れなくなったの?」
「……いつから、ですか? んーいつからだろ……昔は普通に眠れてました」
「その、ネットで少し調べた程度だけどさ、不眠症っていうのはどうも心の問題が割合を占めるらしいね。日々の悩みとか、ストレスとか。そういうの憶えあったりする?」
「どうだろ……あぁでも、いぬ飼ってました」
「犬?」
「真っ白で、おっきくって……いっつも笑ってるみたいで……」
笑ってるみたいでから先が出てこない。
こっそり顔を覗くと既に彼女は目をつぶっていて、規則的な寝息を立てていた。
本当に眠ったようだ。幼い子供みたいに俺の指を握り、少しだけ身を丸くしている。
ここ最近眠れていないだなんて、まるで嘘みたいだ。あまりにも早い入眠。こんな知らない男と2人っきりでよく眠れるな。
まぁしかし、流石にもう知らない仲ではないのか。一応互いに名前を知ってるし、どこの学校に通っているのかも知っている。
知らないのは彼女の過去だ。なぜ不眠となってしまったのか。なにか原因があるはず。
犬を飼っていたと言った。『飼っていた』だ。
過去形ということは、今はもう飼っていないかもしれない。それが家庭の事情で泣く泣くお別れしたのか、不幸に見舞われて死別したのか。
どちらにしてもそれはストレスの原因となりうるだろう。無論これだけで判別なんてできないけど、間違いなく手がかりではあるはず。
たとえば、これまで一緒に寝ていた犬と別れ、それまで普通に眠れていたのに犬がいないせいで眠れなくなったとか――なんの根拠もない妄想だが。
憶測で物事を突き詰めるのは良くない。思考を中断し、本を閉じて脇に置く。
顔を斜め下に向けると彼女が眠っている。小さい手だ。柔らかくて少しむちっとしている――というのは言わないほうがいいかも。
少し視線を動かすと彼女の肢体が映り込む。スカートにしまった黒いブラウス。それは彼女の柔らかそうな二の腕とか、16歳にしては大きく見える胸とか、第2ボタンまで外したせいで微かに覗くグレーのキャミソールの布地とか、いやでも脳裏に張り付いてしまう。
最悪だ。なにを考えてるんだ俺は。彼女は純粋に俺へ助けを求めてここまで来てくれたというのにこんな――
「んぅ……」
寝息を立てると同時に、美穂ちゃんが仰向けになる。右手は俺の左手に触れたまま、また規則的な呼吸を続ける。
彼女の豊かな胸が呼吸によって上下する。いやこれは別に性的なアレではなく、本当にただ目の前の状況を客観的に認識しただけで、やましい気持ちは一切ない。本当だ。
目の前で動く物体があったから、そこへ視線がいってしまっただけに過ぎない。
まぁしかし動いてるからってジロジロ見るのは良くない。たとえ相手が眠っていたとしても。
ひとまずスマホを手元に置いて時間を確認しよう。前かがみになってデスクの上に置いてあるスマホを掴み――今の状況にちょうどいいものを見つけた。
デスクに畳んで置かれているタオルケット。やや大きめなサイズのそれを回収して広げる。
空調が効いているので身体が冷えることはないと思うが一応かけたほうがいいかもしれない。彼女を起こさないようソッと胸の上にかけて、俺はふーっと息を吐いた。
これで健全、いや、安全だ。いや安全っていうのもまた少し違う気がする。まるでさっきまで危険な状態だったみたいだ。
とにかく、これでいい。1人で頷いてなんの気なしに彼女をまた見下ろす。
ぐっすり眠っている美穂ちゃんの表情はとても穏やかで、安心しているように見えた。