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扉が開いた

ー/ー



 月日の移ろいは早いもので、ユージが中道界で暮らし始めてからもうすぐ1年になろうとしていた。
 ユージのジムルグ語は、居酒屋で客との意思疎通が問題なく図れるまでに上達していた。
 しかし、カオルの目から見ると、まだ客あしらいが出来ているとは言えないようで、相変わらず研究の許可は下りないままだった。
 その代わり、カオルからは1カ月ほど前にジムルグで話題になっている小説の文庫本を手渡され、
 「これ、読んだらあらましを教えとくれ」
 と命じられていた。
 「わかりました」
 (もしかして、これが最終試験なのかな)
 ユージは本を受け取りながら、そう直感した。
 そんなわけで、今は辞書を引いたり、どうにも理解出来ないところをインターネットで調べたりしながら少しずつ本を読み進めているところだ。
 
 魔界に居る我が子はすくすくと成長し、今では活発にそこら辺を這い回るようになっていた。
 そして、最後にサクラとの通話で見たサトルは、覚束ないながらもつかまり立ちを披露してくれたのだ。
 「サトル、もうそんなことが出来るの?」
 『そうなの。まだすぐ尻もちついちゃうけど――ほらね』
 サクラの言う通り、サトルはすぐにその場にすとんと尻もちをついてしまい、不思議そうな顔をして母に向かって手を伸ばした。
 「はいはい、抱っこね」
 サクラはサトルを抱き上げると、端末の前に戻って来た。
 『だんだん出来ることが増えて、サトルも嬉しいみたいよ』
 「そっか」
 (俺も、負けてはいられないな)
 その時、サトルは「あぷう」と声を上げて、ユージが写っているであろう画面に向けて小さな手を伸ばした。
 「パパがんばれ」
 と、言われている気がした。
 「サトル、パパもこっちで頑張るよ」
 せめて、サトルが歩き出すよりも早く研究が始められるようになりたいと思うユージであった。
 
 
 そして、そんなユージに転機が訪れる。
 それはまるで、今まで何かに堰き止められていた水が一気に流れ出したかのような体験であった。
 

 昨夜の残り物で簡単な朝食を済ませたユージは、折り畳み式の机を出して、ノートパソコンと文庫本をその上に置いた。
 カオルから渡された文庫本は、1カ月ちょっとかけてやっと半分ぐらい読み進んだところだ。
 (やっと半分か。うーん、結構時間掛けちゃってるなあ)
 言葉の意味を調べながら読んでいることは勿論だが、読み取った内容を忘れないようにとメモを取っている時間もばかにならないのだ。
 (やれやれ、我ながらまるで亀の歩みだな。仕方ないかもだけど)
 ふう、と雄弁な溜息をひとつついた後、
 「よし、今日も頑張るぞ!」
 と、ジムルグ語で声に出して自らに気合を入れ直す。
 文庫本を手に取り、栞でマークしたページを開く。
 
 その時。
 本に書かれている現代ジムルグ語が、いつか見た万葉集の歌と同じように、動いた。
 
 (あっ……)
 ユージは目を見開いた。
 (言葉が、俺に心を開いてくれた)
 これは他の誰に語っても恐らく理解されることのない、ユージ独特の感覚だ。
 厳密に言うと、本に記載されているジムルグ語そのものを読み下せているわけではないし、ユージがまだ知らない単語だってたくさんある。だが、そこに書かれている内容が「わかる」のだ。
 そう、まるでそこに、その言葉を使って書かれた「もの」の本質のようなものが、ユージの心に染み出してくるように。
 (……初めから読み直してみよう。書き溜めたメモと、わかった内容が一致していれば正解だ)
 ユージは、栞の位置はそのままに、改めて最初のページへ移動する。
 昨日までは亀の歩みだったが、今日は見ただけで内容が「わかる」だけあって、すいすいと読み進められている。
 その間、脇目も降らず集中していたこともあり、読み返してから何と1時間ちょっとで栞が挟まれているところに到達した。
 (さて、答え合わせ)
 ユージはドキドキしながらノートパソコンに書き溜めたメモ書きを開いた。
 今日読み取った内容を頭に思い浮かべながら、メモと照らし合わせていく。
 (ああ……)
 最初は少し不安そうだったユージの顔がみるみる紅潮し、目の輝きが増してきた。
 そして。
 「やった……!」
 噛み締めるように小さく声を上げると、右手でぐっと握り拳を作った。
 (出来た、出来た、出来た、出来た!サクラ、とうとう俺、やったよ!)
 心の中で最愛の妻の名を呼び、両手を高く突き上げた。
 何だか、心許なかった自分の中に、揺らぐことのない芯が一本通った。そんな気がした。
 (あっ、でも、まだ半分)
 ユージはそのことに気づくと、再び文庫本の続きを読み始めた。
 これまたすいすいと1時間半ほどで読み終わると慌しく席を立ち、カオルの部屋の引戸をノックした。

 
 「カオルさん。ちょっと宜しいですか」
 緊張しながら声を掛けると、
 「お入り」
 直ぐに返事があった。
 「失礼します」
 引き戸を開けると、珍しくTシャツにスウェット姿のカオルが胡坐をかいて座っていた。
 「何だい、ユージ。やけに嬉しそうじゃないか」
 カオルは顔を紅潮させて入って来た愛弟子を見上げると、にやりと笑って見せた。
 「カオルさん。本、読み終わりました」
 ユージは文庫本を抱きかかえるようにして、カオルの正面に正座した。
 「そうかい。じゃ、あらましを聞かせておくれな」
 「はい」
 ユージは、ふう、とひとつ深い息をついて自分を落ち着かせた後、小説のあらましをぽつぽつと語り始めた。
 彼は、自分が「わかった」内容を確実に師に伝えようと必死になっていた。
 カオルは、そんなユージの表情と仕草を注意深く観察しながら、黙ってその報告を聞いていた。
 「……すみません、上手く説明出来たか不安ですけど、僕が読み取った内容は以上です」
 ユージは額の汗を手の甲で拭い、ぺこりと頭を下げた。
 「ふうん。大分時間がかかったが、どうやら最後まで読み切ったようだね」
 「は、はい、何とか。亀の歩みですみません」
 恥ずかしそうに俯いたユージの頭を、カオルはくしゃくしゃと撫で回した。
 「ユージ、よく頑張った。合格だ」
 「えっ……師匠、それじゃあ」
 顔を上げたユージに、カオルはにっこりと微笑んだ。
 「ああ、研究解禁だ。今、この時から好きなように取り組んどくれ」
 「あ、ありがとうございますっ……やった!」
 ユージは、両手で握り拳を作り、喜びを露にした。


 「ところでユージ。どうして中道界だとお前の言う所の『言葉が動く』現象が起こるか、わかるかい?」
 カオルは喜色満面のユージにそんなことを訊いてきた。
 「えっ」
 ぴたっ、とユージの動きが止まった。
 正直な所、中道界で言葉が動く理由など、考えてみたこともなかったのだ。
 「その顔じゃあ、そんなこと気にもしてなかったってとこだね」
 カオルはじんわりと苦笑した。
 「は、はい。すみません」
 ユージは反射的に謝った。
 「謝るほどの事じゃないよ。ただまあ、研究者たるもの疑問ぐらいは持って欲しかったところだけどね」
 カオルはちくりと嫌味を差した。
 ユージは顔を赤らめて俯いた。カオルの言葉は仰る通り過ぎてぐうの音も出せない。
 
 「それじゃ、頑張ったご褒美にとっかかりだけ教えようかね」
 「!」
 ユージが目を上げると、カオルはいつの間にかいつもの着物姿になっていた。



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 月日の移ろいは早いもので、ユージが中道界で暮らし始めてからもうすぐ1年になろうとしていた。
 ユージのジムルグ語は、居酒屋で客との意思疎通が問題なく図れるまでに上達していた。
 しかし、カオルの目から見ると、まだ客あしらいが出来ているとは言えないようで、相変わらず研究の許可は下りないままだった。
 その代わり、カオルからは1カ月ほど前にジムルグで話題になっている小説の文庫本を手渡され、
 「これ、読んだらあらましを教えとくれ」
 と命じられていた。
 「わかりました」
 (もしかして、これが最終試験なのかな)
 ユージは本を受け取りながら、そう直感した。
 そんなわけで、今は辞書を引いたり、どうにも理解出来ないところをインターネットで調べたりしながら少しずつ本を読み進めているところだ。
 魔界に居る我が子はすくすくと成長し、今では活発にそこら辺を這い回るようになっていた。
 そして、最後にサクラとの通話で見たサトルは、覚束ないながらもつかまり立ちを披露してくれたのだ。
 「サトル、もうそんなことが出来るの?」
 『そうなの。まだすぐ尻もちついちゃうけど――ほらね』
 サクラの言う通り、サトルはすぐにその場にすとんと尻もちをついてしまい、不思議そうな顔をして母に向かって手を伸ばした。
 「はいはい、抱っこね」
 サクラはサトルを抱き上げると、端末の前に戻って来た。
 『だんだん出来ることが増えて、サトルも嬉しいみたいよ』
 「そっか」
 (俺も、負けてはいられないな)
 その時、サトルは「あぷう」と声を上げて、ユージが写っているであろう画面に向けて小さな手を伸ばした。
 「パパがんばれ」
 と、言われている気がした。
 「サトル、パパもこっちで頑張るよ」
 せめて、サトルが歩き出すよりも早く研究が始められるようになりたいと思うユージであった。
 そして、そんなユージに転機が訪れる。
 それはまるで、今まで何かに堰き止められていた水が一気に流れ出したかのような体験であった。
 昨夜の残り物で簡単な朝食を済ませたユージは、折り畳み式の机を出して、ノートパソコンと文庫本をその上に置いた。
 カオルから渡された文庫本は、1カ月ちょっとかけてやっと半分ぐらい読み進んだところだ。
 (やっと半分か。うーん、結構時間掛けちゃってるなあ)
 言葉の意味を調べながら読んでいることは勿論だが、読み取った内容を忘れないようにとメモを取っている時間もばかにならないのだ。
 (やれやれ、我ながらまるで亀の歩みだな。仕方ないかもだけど)
 ふう、と雄弁な溜息をひとつついた後、
 「よし、今日も頑張るぞ!」
 と、ジムルグ語で声に出して自らに気合を入れ直す。
 文庫本を手に取り、栞でマークしたページを開く。
 その時。
 本に書かれている現代ジムルグ語が、いつか見た万葉集の歌と同じように、動いた。
 (あっ……)
 ユージは目を見開いた。
 (言葉が、俺に心を開いてくれた)
 これは他の誰に語っても恐らく理解されることのない、ユージ独特の感覚だ。
 厳密に言うと、本に記載されているジムルグ語そのものを読み下せているわけではないし、ユージがまだ知らない単語だってたくさんある。だが、そこに書かれている内容が「わかる」のだ。
 そう、まるでそこに、その言葉を使って書かれた「もの」の本質のようなものが、ユージの心に染み出してくるように。
 (……初めから読み直してみよう。書き溜めたメモと、わかった内容が一致していれば正解だ)
 ユージは、栞の位置はそのままに、改めて最初のページへ移動する。
 昨日までは亀の歩みだったが、今日は見ただけで内容が「わかる」だけあって、すいすいと読み進められている。
 その間、脇目も降らず集中していたこともあり、読み返してから何と1時間ちょっとで栞が挟まれているところに到達した。
 (さて、答え合わせ)
 ユージはドキドキしながらノートパソコンに書き溜めたメモ書きを開いた。
 今日読み取った内容を頭に思い浮かべながら、メモと照らし合わせていく。
 (ああ……)
 最初は少し不安そうだったユージの顔がみるみる紅潮し、目の輝きが増してきた。
 そして。
 「やった……!」
 噛み締めるように小さく声を上げると、右手でぐっと握り拳を作った。
 (出来た、出来た、出来た、出来た!サクラ、とうとう俺、やったよ!)
 心の中で最愛の妻の名を呼び、両手を高く突き上げた。
 何だか、心許なかった自分の中に、揺らぐことのない芯が一本通った。そんな気がした。
 (あっ、でも、まだ半分)
 ユージはそのことに気づくと、再び文庫本の続きを読み始めた。
 これまたすいすいと1時間半ほどで読み終わると慌しく席を立ち、カオルの部屋の引戸をノックした。
 「カオルさん。ちょっと宜しいですか」
 緊張しながら声を掛けると、
 「お入り」
 直ぐに返事があった。
 「失礼します」
 引き戸を開けると、珍しくTシャツにスウェット姿のカオルが胡坐をかいて座っていた。
 「何だい、ユージ。やけに嬉しそうじゃないか」
 カオルは顔を紅潮させて入って来た愛弟子を見上げると、にやりと笑って見せた。
 「カオルさん。本、読み終わりました」
 ユージは文庫本を抱きかかえるようにして、カオルの正面に正座した。
 「そうかい。じゃ、あらましを聞かせておくれな」
 「はい」
 ユージは、ふう、とひとつ深い息をついて自分を落ち着かせた後、小説のあらましをぽつぽつと語り始めた。
 彼は、自分が「わかった」内容を確実に師に伝えようと必死になっていた。
 カオルは、そんなユージの表情と仕草を注意深く観察しながら、黙ってその報告を聞いていた。
 「……すみません、上手く説明出来たか不安ですけど、僕が読み取った内容は以上です」
 ユージは額の汗を手の甲で拭い、ぺこりと頭を下げた。
 「ふうん。大分時間がかかったが、どうやら最後まで読み切ったようだね」
 「は、はい、何とか。亀の歩みですみません」
 恥ずかしそうに俯いたユージの頭を、カオルはくしゃくしゃと撫で回した。
 「ユージ、よく頑張った。合格だ」
 「えっ……師匠、それじゃあ」
 顔を上げたユージに、カオルはにっこりと微笑んだ。
 「ああ、研究解禁だ。今、この時から好きなように取り組んどくれ」
 「あ、ありがとうございますっ……やった!」
 ユージは、両手で握り拳を作り、喜びを露にした。
 「ところでユージ。どうして中道界だとお前の言う所の『言葉が動く』現象が起こるか、わかるかい?」
 カオルは喜色満面のユージにそんなことを訊いてきた。
 「えっ」
 ぴたっ、とユージの動きが止まった。
 正直な所、中道界で言葉が動く理由など、考えてみたこともなかったのだ。
 「その顔じゃあ、そんなこと気にもしてなかったってとこだね」
 カオルはじんわりと苦笑した。
 「は、はい。すみません」
 ユージは反射的に謝った。
 「謝るほどの事じゃないよ。ただまあ、研究者たるもの疑問ぐらいは持って欲しかったところだけどね」
 カオルはちくりと嫌味を差した。
 ユージは顔を赤らめて俯いた。カオルの言葉は仰る通り過ぎてぐうの音も出せない。
 「それじゃ、頑張ったご褒美にとっかかりだけ教えようかね」
 「!」
 ユージが目を上げると、カオルはいつの間にかいつもの着物姿になっていた。