師匠の住まいは、とある駅近くの裏路地の飲み屋街にあった。
道の両脇に同じような造りの古びた店が並んでおり、どれも1階が店舗で2階に居住スペースがあるようだ。
「従業員の出入りはここからだ。さ、お入り」
師匠は居酒屋の勝手口からユージを招き入れた。厨房と呼ぶには小さめのキッチンの向こうに客席がある。
居酒屋の店内はコの字型のカウンターと、小上がりに卓袱台がひとつ置いてあるだけだった。
店の広さから考えるとテーブルを置くなりしてもっと席数を増やせそうだが、
「あたし一人で切り盛りしてるから、これぐらいで丁度いいのさ。別に儲けようとも思ってないしね」
と、師匠が説明してくれた。
続いて、彼女は再び勝手口前にユージを誘い、目の前の暖簾を潜った。
「二階へあがる階段はここ。ちょっと狭いから気を付けとくれ」
と、トントンと二階へ上がっていく。
「はい」
ユージも荷物を持って後に続く。古い造りのせいか、確かに階段が狭くて急だ。
階段を上がった先に廊下があり、右側にトイレ、廊下の突き当りにシャワー室と脱衣所がある。
「お前の部屋はここだ」
と、師匠は廊下を挟んでトイレの向かいにある引戸を開けた。
「ありがとうございます。お邪魔します」
部屋は6畳の畳張りだった。そこには調度品は何もなかったが、その代わり大小様々な段ボール箱が乱雑に置かれていた。
「あー、後で片付けるから、今はこのまんまにしておいておくれな」
と、師匠はばつの悪そうな顔をしたが、
「はい。寝るスペースさえ取れれば、僕は全然」
ユージは全く気にする様子など見せずに、笑顔を見せた。
居候させてもらう身としては、自分の部屋があるだけでも有難いのだ。
「ま、そうは言ってもこのまんまには出来ないからね。今日中には片付けるよ」
「すみません。ありがとうございます」
ユージはぺこりと頭を下げた。
「それじゃ、まずはお前に伝えなきゃいけないことから済まそうかね」
「はい。何でしょうか」
ユージは背筋を伸ばして師匠の言葉を待った。
「まず、ここにあたしが居ることは、他の弟子には内緒にしておくれ」
意外な言葉に、ユージは目を丸くした。
「えっ、それじゃ、ジンさんもヤンさんも師匠の居場所を御存じないってことですか?」
「誰にも教えてないよ」
師匠はあっさりと肯定した。
「用があったらこっちから出向けばいいし、第一、ここに押しかけて来られても面倒臭いだけだからね」
師匠は心底嫌そうな顔をした。どうやら本当にそう思っているようだ。
「……わかりました。誰にも言いません」
ユージは神妙な面持ちで頷いた。
直感的に、師匠とここで住んでいることは、サクラにさえ話せないな、と思った。
「よし。それじゃあ、お次は生活面の話だ。
基本的に店を開けている時以外は自由に過ごしとくれ。食事はキッチンにあるものを自由に食べていいよ。
それから、自分の服は自分で洗っとくれ。うちは洗濯機がないから、近くのコインランドリーを使うといい」
「わかりました」
「店は夕方5時開店、夜11時閉店。準備があるから4時から仕事だと思っとくれ。お前には当分の間、片付けと皿洗いをやってもらうつもりだ」
「はい。がんばります」
「いい心がけだ。給金は、他の店のバイトと同じぐらいの金額は出すつもりだ。ま、それでもせいぜい小遣い程度なもんだけどね」
「いいえ、お金を戴けるだけでも有難いです!ありがとうございます!!」
ユージは頬を紅潮させた。何もかも願ったり叶ったりだ。
「ま、慣れるまでは何かと大変だろうが、せいぜい頑張んな」
師匠は彼女流の言葉で弟子を励ました。
話がひととおり終わりそうなところで、ユージはかねてより気になっていたことを訊いてみることにした。
「あの、師匠。前々から気になっていたんですけど」
「?何だい?」
「もの凄く今更で申し訳ないんですけど、実は、僕、師匠のお名前を知らなくて。
もし宜しければ、お名前を教えて頂けませんか?」
おずおずとしたユージの問いかけに、師匠の動きが止まった。
「ん?あたしの名前かい?」
「はい。弟子のくせに師匠のお名前を知らないなんて、どう考えても宜しくないなと思って」
生真面目なユージの言葉に、師匠は突然笑い出した。
「あ、あれ?僕、なんか変なこと言いました?」
戸惑うユージに、師匠は右手をひらひらさせながら、
「いや、そうじゃないが……あははは、こりゃいいね。あたしの名前を訊いてきた弟子は、お前が初めてだよ」
と、笑いながら打ち明けた。
「えっ、そ、そうなんですか」
ユージはほんのり顔を紅潮させた。
(そういえば、ジンさんも師匠の名前を知らないって言ってたっけ)
あの兄弟子たちも師匠の名前を訊かずに済ませているということは、
(もしかして、触れてはいけないことだったのかな)
ちらっと上目遣いに師匠の顔を見ると、まだ腹を抱えて笑っている。
「あは、あはは、ああ苦しい――ユージ。面と向かって訊かれたから、それに免じて教えてやるよ」
「は、はい。ありがとうございます」
「あたしは、カオルっていうんだ。尤も、これは通り名みたいなもんだけど、十分だろ?」
そういって、師匠――カオルはからりとした顔で笑った。
「カオルさん、ですか。では、これからカオルさんって呼んでもいいですか?」
ユージは、つい調子に乗ってそんなことを口にした。
カオルは一瞬嫌そうな顔をしたが、
「しょうがないねえ。好きにおし」
最終的に認めてくれた。
そして、カオルはこの後の言葉でユージを奈落の底に突き落とした。
「ああ、そうだ。
ユージ。お前はここで客あしらいが出来るようになるまで研究禁止だ。
言葉が出来ない奴に言葉の研究をさせたとあっちゃあ、師匠であるあたしの沽券にかかわるってもんだ。
そこんとこ、肝に銘じといとくれ」
(……まじか……)
ユージはぐうの音も出せず、がっくりと項垂れるより他になかった。