最近よく夢を見る。
俺が廃墟の屋上から飛び降りる夢だ。
月も星もない夜に、生気のない顔で、よれたスーツを着て。
遠くの街の光を眺めながら「疲れた……」と柵の向こうの闇に落ちていく。
浮遊感があって、それから地面が、物凄い速さで近づいてきて――。
ぐしゃり……。
誰かが俺の肩を揺すっている。
「――ねえ、起きて、もう学校終わったよ?」
優しげな声音がはっきりと耳に届いた。
突っ伏していた机から身を起こすと、夕陽が目を焼く。
「まぶし……」
「もう、やっと起きたの雄介? このお寝坊さん」
夕陽を遮るように腕を上げた俺を、女子生徒が見下ろしていた。
肩まで切りそろえた黒髪と、垂れさがった目じりが特徴のおとなしそうな少女だ。
彼女の名前は確か……。
「美雪……そっか、俺居眠りしてたのか」
まだ頭の中が霞かかっているような感じがする。
だけど、目の前の女子生徒の名前はわかる。
真白美雪。
小中高と学校が同じで、教室もだいたい同じになって、ほぼ同じ思い出と時間を共有してきた……幼馴染だ。
ぺらり、一枚の原稿用紙を美雪が差し出してくる。
「はいこれ」
「……なんだこれ?」
「先生から雄介が起きたら渡してくれって頼まれたの。居眠りの反省文。提出するまで帰っちゃダメだって」
「うげっマジかよ……文章書くの苦手なんだが……」
真っ白な原稿用紙を受け取って完全に目が覚めた。
げんなりしながら反省文に手をつける俺に、美雪は楽しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ。終わるまで待っててあげるから」
「頼んでないから。話かけないでくれ気が散る」
「そんなこと言って一人ぼっちはさびしいくせに~」
「おい、ほっぺをつつくな美雪。字がぶれるだろ」
こいつ、俺の反省文を邪魔するために起きるのを待ってたんじゃないか?
「ところで、言いたくなかったらいいんだけど」
「……なんだよ」
え~っと、この度は居眠りをしてしまい申し訳ございません……以後このようなことがないよう生活習慣を見直し……。
「雄介が居眠りしちゃうのって、変な夢を見るせい? 飛び降り……とか」
グシャリ……。
シャーペンの芯が潰れる音が、嫌に教室に響いた。
「なん……のことだ?」
美雪を見上げる。
彼女はじーっと無表情に俺を見下ろしていた。
一緒にいる時間が長かった弊害か恩恵かはわからないが、美雪は俺の思考を読んだり心を見透かすような言動をして俺を驚かすことが度々あった。
これも、その一種なのだろうか。
だけど、夢の内容まで当てられるものなのだろうか?
蛇に睨まれたカエルのように固まっていると、美雪がふっと微笑んだ。
「ふふ、冗談だよ。昨日そういうサスペンスドラマを見てね? 雄介怖がりだからちょっとからかっただけ」
べーっと紅い舌を出す美雪。
「お、おま……この、帰れ! 邪魔すんなら帰れまじで!」
ちょっと見ない間に生意気になりやがって……。
「そんなこと言って一人は寂しいんでしょ? 大丈夫だよ待っててあげるから、ね? 雄介の事はなんでもお見通しなんだから」
ウインクする美雪。
「くそ、これだから幼馴染ってやつは」
「あ、そこ漢字間違ってるよ? 『真に』じゃなくて、『誠に』、だよ?」
「ぐっ……」
「やっぱり私がいなくちゃダメダメだね雄介は」
「うぐぐっ……」
俺は美雪のウザ絡みに翻弄されながらも反省文を完成させるのだった。
キーンコーンカーンコーン……。
「……あ、れ?」
目が覚めると教室がガヤガヤと騒がしい。
昼休みだった。
昨日は反省文を提出して、美雪と一緒に学校から出て……それから。
それから?
また、脳裏に霞がかかっているような感じがする。
俺はいつ、登校したんだろう。
「雄介お昼、行こう」
可愛らしいピンクの包みの弁当を持って美雪が俺のところに来た。
「行こうって……?」
「いいから、お昼休みなくなっちゃうよ?」
俺は美雪に背を押されて半ば強制的に教室から連れ出された。
「ん~気持ちいい~! やっぱり晴れた日のお弁当はこういうところで食べなくちゃ!」
飛び切りの笑顔を向けてお弁当を広げ始める美雪。
「屋上か……」
俺は引きつり気味に返事をする。
最近よく見る夢が屋上からの飛び降り自殺なせいで、美雪には悪いが屋上にあまりいい印象がない。
「あれ、雄介屋上嫌いだったっけ?」
「いや、まあ、なんというか……それより飯にしよう」
変に気を遣わせないようにごまかそうとした俺だが、気づく。
「はっ! 俺弁当持ってきてねーじゃん!?」
寝ぼけてたせいか、ぼーっとしてたせいか。
これから購買部に買いに走ってもおそらく残っているものはないだろう。
昼飯抜きで午後の授業に挑むのは辛い……。
百面相して苦悩する俺に美雪が不敵に笑いかけた。
「ふっふっふ……」
「な、なんだよ……そんなにおかしいかよ」
「じゃーん! そんな雄介の為にお弁当作ってきちゃいました!」
美雪はもう一つピンク色の包みのお弁当を取り出して、俺に手渡した。
「え、まじ? これ、俺に?」
「へへん。まじまじ。昨日反省文書くの邪魔しすぎちゃったから……そのお詫びだよ? 遠慮しないで食べて」
「ありがてぇ……。やっぱ持つべきものは幼馴染なんだな。いただきます!」
「えへへへ……」
嬉しそうに俺を見つめる美雪の前で、俺は弁当箱の蓋を開けた。
卵焼きに蛸さんウインナーブロッコリー、きんぴらごぼうと唐揚げ……。
色とりどりのおかずと、梅干に白米がセットの栄養満点のお弁当だった。
「おお、うまそー。まさか、これ美雪が作ったのか?」
尋ねると美雪はもじもじと縮こまった。
「そ、そうだよ? と言っても、きんぴらごぼうと唐揚げと卵焼きくらいで、あとは盛り付けるだけだから……大したことじゃ」
「いやいや、十分すげーよ。俺なんてご飯炊くくらいしかできねーもん」
「雄介ほめ過ぎだよ……」
顔を真っ赤にした美雪は顔を背けてしまった。
俺もなんだか恥ずかしくなってきた。
「そ、それじゃあ、最初は唐揚げから……」
と、気を取り直して俺は唐揚げに箸を伸ばす。
ぐにゃり、と突然視界がゆがんだ。
「え……」
モノが二重に見えてクルクルと世界が回る。
屋上も、美雪も、太陽も……そして、弁当と箸先もだ。
カラン……。
俺は箸を取り落とし、その場にうずくまった。
「ぐ、うっ……」
「雄介!? どうしたの!?」
美雪がすぐさま俺の傍に寄って背中をさすってくれる。
目を閉じてもぐるぐると回る感覚は続いていた。
なにが起きた? 病気か? でも気持ち悪くないし、腹も減ってるし……。
……あれ? 収まった。
ふっと視界のゆがみと回る感覚が何事もなかったかのように消えた。
「……大丈夫?」
と背中をさすりながら声をかけ続けてくれた美雪が尋ねてくる。
俺は顔を上げた。
「ああ、だいじょう……ぶ」
俺は目を見開いた。
さっきまで昼だったのに、今は星も月も出ていない真夜中になっていた。
屋上は荒れ果て、柵がところどころ腐り落ちている。
弁当も色とりどりでおいしそうだったモノが、黒ずみ、腐敗した何かになっていた。
「どうしたの、雄介? 熱でもあるの?」
そんな中俺のおでこに美雪が手を当てる。
ひやりと冷たい手のひらに、今一度美雪に視線を向けた俺は目を見開いた。
「うわぁ!!!?」
思わずその手を払いのけ、立ち上がった俺はその場から後ずさる。
「雄介? ……どうしたの?」
美雪は心配そうに俺に一歩また一歩と近づいてくる。
「く、くるな!!」
俺は半狂乱で叫び散らかしながら彼女をけん制する。
ぽたり、ぽた、ぽた……。
「どうしたの、雄介? なんで逃げるの」
「どうしたのはそっちだ美雪! お前、なんでそんな血みどろになってんだよ!!」
美雪は気づいていないのだろうか。
頭蓋がへこみ、おびただしい血を流していることを。
「え? 嘘……なに、これ」
美雪は自分の血みどろになった顔に触れ、べっとりと掌に付着した血液に唖然とした。
「いや、いや嫌イヤッ……私、なんでこんなことに……!」
美雪は震えながら何かに後ろ髪を引かれるように屋上の柵の向こうへと後退していく。
「こんなはずじゃなかったのに。雄介にこんな姿見せたくなかったのに……飛び降りなんて……」
ブツブツと呟いて、髪を振り乱す美雪。
「美、雪……」
俺は恐怖と、心配がないまぜになり動けなかった。
美雪はぴたりと動きを止め、俺を見た。
その瞳は後悔と諦めと親愛にも似た感情がないまぜになっていた。
彼女はどこか淡く微笑しながら呟く。
「ごめんね、雄介……」
そして美雪は屋上から飛び降りた。
「美雪ッ!!」
俺はやっと腕を伸ばした。
だがその腕が彼女に届くことはない。
俺はまた彼女を死なせてしまった。
……また?
「うわぁあああああ!?」
机を蹴とばすようにして起き上がる。
いつの間にか俺は深紅の夕陽が差し込む教室の中にいた。
他の生徒は皆帰ってしまったのか、俺一人だ。
「……夢?」
心臓がバクバクと鳴っている。
混乱していた。
また俺は居眠りをしたのか。
また俺は……。
「そうだ美雪は……」
いつもなら待っていてくれる美雪の姿もない。
……いや、今日に限っては待っていてくれないほうがいい。
あんな夢を見た後に、美雪にどんな顔をして会えばいいのかわからない。
「今日は、休もう……家に帰ってゆっくり……」
ふらつきながら俺は俺のスーツカバンを手に帰ることにした。
あ、れ……?
「なんで学生カバンじゃ……ないんだ?」
見間違いかと思い、手元に視線を移す。
二重にぶれるようにして、スーツカバンが、学生カバンに戻っていく。
「……!?」
俺は思わずカバンを放り投げた。
学生カバンは教室扉に音を立ててブチ当たった。
「……なん、だよあれ」
気味の悪い現象に頭が追い付かない。
とにかく帰った方がいい。
急いで教室から出て行こうと扉に手を掛けたところで、変化に気付く。
「学生服じゃ、ない……? このスーツは……」
着ていた筈の学生服はいつの間にかよれたスーツに変わっていた。
それこそ、飛び降りる夢の中で俺が着ているスーツを俺は着ていた。
力強く扉を開け放つと、その先は月も星明りもない学校の屋上だった。
まるで数十年も時間が経過してしまったかのようにタイルが禿げ、落下防止用の柵は腐り落ちている。
遠く街の光は温かく、吹き付けてくる風は冷たい。
「……疲れた」
俺が呟いたとは思えないかすれた声が俺の口から漏れ出る。
は? と意識では思うが、体が勝手に屋上を進んでいく。
一歩一歩、前に。
腐り落ちた柵のその向こう側、ぽっかりと口を開ける奈落を目指す。
止まれ! おい!!
俺の意思では止まりたいのに、体がいう事を聞いてくれなかった。
あっという間に、屋上の淵へとたどり着く。
下から吹き上げてくる風、遠い街の光。足元に広がる真っ黒な闇。
こんなところに一秒だっていたくない。
脳裏に飛び降りる自分の姿が鮮明に浮かぶ。
「美雪……お前もここから落ちたよな……」
そっちに行くから――。
俺の意思に反して俺の体が下の闇を見つめてそうつぶやいた。
今……なんて言った?
俺の体は宙に一歩踏み出す。
「行っちゃだめぇ!!」
飛び降りる寸前の俺の手を、美雪が引っ張った。
屋上に倒れこんだ俺は学生服で、柵もタイルも禿げたり腐れ落ちていたりしなかった。ただ、美雪が目に涙をいっぱい貯めて仰向けに倒れこむ俺を見下ろしていた。
「バカ!! 雄介のばか!! ばかばかばか私を置いてかないで!! ずっと一緒にいてよ雄介!!」
美雪はまるで子供のように俺に抱きついて泣きつく。
俺は美雪の肩を抱きしめかけて、やめた。
「……違うな」
俺はもう全部思い出していた。
「……え?」
美雪を引き離し、俺は身を起こす。
「美雪は俺を置いていったんだ。10年前の高校二年の夏。この場所から飛び降りて」
そう、この屋上は美雪が飛び降りた場所だった。
「ゆ、雄介? 何言ってるの? わ、私全然わからないよ……」
美雪は動揺して俺から視線を外した。
俺は立ち上がる。
俺の着ている服が学生服からよれたスーツに変わった。
いや、戻った。
「美雪はおしゃべりな奴じゃなかったし、皆がいる前でお昼を一緒に食べようって誘ってくる奴でもなかった。いつも俺の傍にいて静かに笑ってるようなやつだったんだ」
そして俺はそんな美雪が……好きだった。
美雪は無表情になっていく。
俺はそんな彼女を睨んで問う。
「お前は、誰だ?」
すると、美雪だったモノは、醜悪な笑みを浮かべた。
「あんたは幸せな夢をずっと見ていたくないの? ここにいれば永遠に高校生のまま、愛しの美雪ちゃんとも一緒よ?」
「それは……」
美雪がいたあの日々が戻ってくるのならどんなに嬉しいことか。
けど、俺はもう大人になってしまった。
仕事にもまれ社会に流され……そうやって今日まで生きてきた。
未練を断ち切るために俺は首を横に振る。
「ここにいても本物の美雪には会えない。それに、俺はもう『疲れた』んだ。永遠なんて望んでない」
「ちっ……わかったよ。せいぜい生き苦しむといいさ。死にたがり。せっかく助けてやろうとしてたのに……」
美雪の姿をしたナニかが指をパチンと鳴らす。
次の瞬間、闇が世界を覆った。
ぼんやりと霞む視界の先で、ばたばたと慌ただしく救急隊員達が点滴や医療器具をいじっていた。
「救護者は内臓破裂のおそれ――」
「旧遠野高校からの飛び降り、かろうじて意識あり――」
「佐川さん? 佐川雄介さん、聞こえますか~?」
俺の名前を呼ぶ声が遠くくぐもって聞こえる。
担架で運ばれているか救急車の中なのか、白い天井が見えた。
まだ、生きてるのか俺は――。
もう目覚めないでくれ。
そう願って、俺は意識を手放した。
……。
…………。
消毒液の清潔な匂いでゆっくりと目が開いた。
「……ああ、生きてる、のか俺」
体から点滴などの色々な管があちこちに伸びている。
月明かりが差し込んでいるのを見るに、もう消灯時間はとっくに過ぎているのだろう。
一人部屋なのか、他に人の気配はない。
ため息が出た。
俺の自殺は失敗に終わったのだ。
毎日の残業、上司からのパワハラ、同僚の陰口。
そこに仕事のミスも重なってすべてが嫌になった。
どうせ死ぬならと、美雪が飛び降りた母校の屋上を選んだのに……人間は存外死ねないらしい。
むしろ、あの程度の高さだと死ぬのにも運が必要なのかもしれない。
……頭から落ちるべきだった。
「あの夢の奴はなんだったんだ……」
美雪に化けて出てきたあいつは、死神か、はたまた悪魔の類だったのか。
今となってはわからない。
生き死にの狭間に気まぐれに現れる妖怪、みたいなものだろうか。
ただ、あいつが見せてくれた夢は存外悪くはなかった。
ニセモノか、はたまた俺の記憶の幻影かは知らないけど、少なくともあの瞬間は美雪と一緒にいることができた。
幸せな時間だった。
あのまま永遠に夢に囚われていた方が……。
ふわりと、白いカーテンが揺れた。
「……?」
身を起こすと窓が開いていて、月下に人影が浮かんでいた。
美雪が微笑んでこちらに手を差し伸べていた。
「み、ゆき?」
俺は目を見開いて固まるが、美雪は優しく頷く。
夢かもしれない。
幻かもしれない。
悪魔や妖怪の類かもしれない。
窓の外に見える街明かりははるかに遠く、美雪に手を伸ばせば今度こそ命の保証はないだろう。
だが、俺は激しく痛む体を引きづって、どうにかこうにか窓辺に寄る。
美雪の近くに行きたい。傍にいたい……。
美雪は唇を動かして微笑んだ。
むかえにきたよ……と。
「いまそっちに行くからな美雪……」
必死に手を伸ばして美雪の手を掴もうとすると、美雪が俺の手を掴んできた。
これで、ずっと一緒だよ――。
美雪が微笑む、
「ああ、ずっと一緒だ……」
微笑み返した俺の体はいともたやすく窓を乗り越えた。
浮遊感は一瞬。あとは自由落下と風を切る音だけが残る。
そうして地面が近づいてきて……。
……ぐしゃり。
俺は美雪と一緒になれたのだ。