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お母さんじゃない

ー/ー



――出ていけとか言われたらここ来な。

 って。
 氷をカラカラ鳴らしながら笑った。

――とか言ってホントに出て行ったら大騒ぎすんだわ、親なんてもんはさ。

 西空は茜色に燃えていた。
 けれど天頂はもう青が席巻している。二色が混ざるその中間にとても切ない色を残して。
 黒いシルエットのようになった街並みを眺めていた盟子は心を決めて窓を閉めた。

「ねぇお母さん」

 夕食の準備をしている母の背中に思い切って呼びかける。
 
「私、鈴アカやめる」

 説明は省いてまず一気にそれを言ってしまうと、胸のあたりが少し軽くなった気がした。母がコンロの火を弱めて何事かと振り返る。
「え、どういうこと?」
「だから言った通り。鈴アカやめる」
「は? どうしてなの?」
 声のトーンが上がっているのは感情的になってきている証拠だ。

「やりたくない……違うな、やる気がないから」
「何言ってるの? だってもう2学期の分の学費は振りこんだわよ!?」
 曖昧にごにょごにょと言葉を濁すいつものクセをやめてしまうと、私って意外と容赦ない物言いだな、なんて自分で思ったりした。
 喧嘩をする気はなかった。あくまで静かに穏やかに。ただしこれは決定事項だ。人の顔色を伺って、やる気もないのにそれっぽいフリ(・・)をして今だけ取り繕っていても、いずれ破綻するのだから。

「あんたが美術をやりたいって、美大に進みたいって言ったんでしょ?」
 こういう人たちの思考回路には本当にため息が出る。南緒もそうだった。頭の中で自分に都合がいいように事実が捏造される。

「そもそも資料取り寄せたのはお母さんか小林のおばさんか知らないけど、私からは一言も頼んでないしやりたいって言ってないよ。今まで反論しなかったけど、もうそういうのやめる。私には無理だと思う」
「美大に行きたいんじゃないの!?」
「それ。どうして私が美大に行きたいことになってるの?」

 できない、と思う。
 創作や表現の世界で自分を主張していくタイプの人間では明らかにない。
 とはいえ、つい目を伏せてしまうのはやっぱり申し訳ない気持ちがあるからで。
 母の願い通りの子供でなかった自分。やりたいことがまだ見つかっていない自分。

「じゃああんたは何がやりたいわけ?」
 母の語調がきつくなる。
「雄眞くんは公務員目指してるし、細江さんとこの美歩ちゃんは来年から化粧品の研究開発の仕事だって。みんなしっかりしてる。なのにあんたはやりたいことも目標もなくて、ふらふらしてるばっかりじゃない」

――でもね、大丈夫だよ。これからなんだよ。急がなくていいの。

 遠峰神社の例大祭の帰りにかけてもらったその言葉が今、護符のように盟子の心を護ってくれている。

「今ここでお母さんが納得するような進路と職業を言わないと、ふらふらしてることになるの?」
「だって3年生になったら進路を決めないといけないでしょ!? 美大はそれからじゃ遅いのよ?」
「私たぶん、美術系にはいかないよ。普通の文系だと思う」
「つまらないわね、そんな平凡な道」

 思い切り機嫌を損ねて、母はぷいっと調理に戻る。これ以上話し合う気はないみたいだ。いずれ盟子を丸め込んで元通りの道に戻す気でいるに違いない。そんな母に、ずっとずっと言い返したかった一言があった。

「だったらお母さんが受験すれば(・・・・・・・・・・)いいでしょ、美大。そしてつまらなくない道を進めば?」

 人参を刻む音が止まった。

「美大に行きたいのはお母さんの夢でしょ。それを私に背負わせないで」

 バン、と包丁を叩きつけて母が振り返る。
「私はただ、あんたが美術の才能があるからそっちに進めばいいと思って……」

 弱い人なんだ、と盟子は思った。
 反対されて美大受験を諦めてしまったのは紛れもなく母自身で、それが母の熱意の程であり、選択であり人生なのに。
 
「才能の有無よりも、私がやりたいかどうかじゃない?」
 母の考え方を否定はしない。でも、受け入れることもしない。

「あとね、鈴アカの人から聞いたんだけど、美大出ても就職とか色々大変だって。食うや食わずでも絵を描き続けたいっていう熱意はないな、私は」
 炒め物の火力が一気に上がったのは、聞きたくないことを遮断しているせいだ。その背中に、母の夢に、意を決してとどめを刺す。それはつらいけれど仕方がないことだ。

「そう、美術をやりたいって言う熱意がないの。下手でも才能なくてもどうしてもやりたいっていう気持ちだったらまだよかったのかもしれないけど」
 お母さんと同じ夢を持てたらよかったね。でも、私はお母さんじゃない(・・・・・・・・)から。

「ごめんね、お母さん」
 私は私だから。

「だから、進路のことはもう少し考えさせて。決して努力するのが嫌なんじゃないし、ズルして楽したいわけでもない。今はもっと色んなものをみてみたい。でも決めたらちゃんとやる」

 返事は、なかった。
 いつか母が「そうね」と言ってくれる日を、今は待つことにしよう。



 数日後。
 思い立って、リビングに飾られていた紫陽花の絵を盟子は取り外した。母が出かけている間のこと。

 ずっと母が取ってくれるのを待っていたのだ。
 でも、自分で取ればいいのだと気付いた。自分が描いたものなのだから。

 額を降ろし、乾き切って黄ばんだその絵を取り出す。
 くるくると撒いて輪ゴムをかけ、小学校の卒業証書の丸筒にぽんと放り込んでクローゼットにしまうと、それはもう色褪せて懐かしいだけの思い出になった。笑ってしまう程簡単な作業だった。

――次にあの絵を広げる時、私はどうなってるのかな。

 そうして長い間その場所を占めていた絵が消え、すっきりとした壁はほんの少し心許なかった。




次のエピソードへ進む いつか、そこまで届きたい。


みんなのリアクション

――出ていけとか言われたらここ来な。
 って。
 氷をカラカラ鳴らしながら笑った。
――とか言ってホントに出て行ったら大騒ぎすんだわ、親なんてもんはさ。
 西空は茜色に燃えていた。
 けれど天頂はもう青が席巻している。二色が混ざるその中間にとても切ない色を残して。
 黒いシルエットのようになった街並みを眺めていた盟子は心を決めて窓を閉めた。
「ねぇお母さん」
 夕食の準備をしている母の背中に思い切って呼びかける。
「私、鈴アカやめる」
 説明は省いてまず一気にそれを言ってしまうと、胸のあたりが少し軽くなった気がした。母がコンロの火を弱めて何事かと振り返る。
「え、どういうこと?」
「だから言った通り。鈴アカやめる」
「は? どうしてなの?」
 声のトーンが上がっているのは感情的になってきている証拠だ。
「やりたくない……違うな、やる気がないから」
「何言ってるの? だってもう2学期の分の学費は振りこんだわよ!?」
 曖昧にごにょごにょと言葉を濁すいつものクセをやめてしまうと、私って意外と容赦ない物言いだな、なんて自分で思ったりした。
 喧嘩をする気はなかった。あくまで静かに穏やかに。ただしこれは決定事項だ。人の顔色を伺って、やる気もないのにそれっぽい|フリ《・・》をして今だけ取り繕っていても、いずれ破綻するのだから。
「あんたが美術をやりたいって、美大に進みたいって言ったんでしょ?」
 こういう人たちの思考回路には本当にため息が出る。南緒もそうだった。頭の中で自分に都合がいいように事実が捏造される。
「そもそも資料取り寄せたのはお母さんか小林のおばさんか知らないけど、私からは一言も頼んでないしやりたいって言ってないよ。今まで反論しなかったけど、もうそういうのやめる。私には無理だと思う」
「美大に行きたいんじゃないの!?」
「それ。どうして私が美大に行きたいことになってるの?」
 できない、と思う。
 創作や表現の世界で自分を主張していくタイプの人間では明らかにない。
 とはいえ、つい目を伏せてしまうのはやっぱり申し訳ない気持ちがあるからで。
 母の願い通りの子供でなかった自分。やりたいことがまだ見つかっていない自分。
「じゃああんたは何がやりたいわけ?」
 母の語調がきつくなる。
「雄眞くんは公務員目指してるし、細江さんとこの美歩ちゃんは来年から化粧品の研究開発の仕事だって。みんなしっかりしてる。なのにあんたはやりたいことも目標もなくて、ふらふらしてるばっかりじゃない」
――でもね、大丈夫だよ。これからなんだよ。急がなくていいの。
 遠峰神社の例大祭の帰りにかけてもらったその言葉が今、護符のように盟子の心を護ってくれている。
「今ここでお母さんが納得するような進路と職業を言わないと、ふらふらしてることになるの?」
「だって3年生になったら進路を決めないといけないでしょ!? 美大はそれからじゃ遅いのよ?」
「私たぶん、美術系にはいかないよ。普通の文系だと思う」
「つまらないわね、そんな平凡な道」
 思い切り機嫌を損ねて、母はぷいっと調理に戻る。これ以上話し合う気はないみたいだ。いずれ盟子を丸め込んで元通りの道に戻す気でいるに違いない。そんな母に、ずっとずっと言い返したかった一言があった。
「だったら|お母さんが受験すれば《・・・・・・・・・・》いいでしょ、美大。そしてつまらなくない道を進めば?」
 人参を刻む音が止まった。
「美大に行きたいのはお母さんの夢でしょ。それを私に背負わせないで」
 バン、と包丁を叩きつけて母が振り返る。
「私はただ、あんたが美術の才能があるからそっちに進めばいいと思って……」
 弱い人なんだ、と盟子は思った。
 反対されて美大受験を諦めてしまったのは紛れもなく母自身で、それが母の熱意の程であり、選択であり人生なのに。
「才能の有無よりも、私がやりたいかどうかじゃない?」
 母の考え方を否定はしない。でも、受け入れることもしない。
「あとね、鈴アカの人から聞いたんだけど、美大出ても就職とか色々大変だって。食うや食わずでも絵を描き続けたいっていう熱意はないな、私は」
 炒め物の火力が一気に上がったのは、聞きたくないことを遮断しているせいだ。その背中に、母の夢に、意を決してとどめを刺す。それはつらいけれど仕方がないことだ。
「そう、美術をやりたいって言う熱意がないの。下手でも才能なくてもどうしてもやりたいっていう気持ちだったらまだよかったのかもしれないけど」
 お母さんと同じ夢を持てたらよかったね。でも、私は|お母さんじゃない《・・・・・・・・》から。
「ごめんね、お母さん」
 私は私だから。
「だから、進路のことはもう少し考えさせて。決して努力するのが嫌なんじゃないし、ズルして楽したいわけでもない。今はもっと色んなものをみてみたい。でも決めたらちゃんとやる」
 返事は、なかった。
 いつか母が「そうね」と言ってくれる日を、今は待つことにしよう。
 数日後。
 思い立って、リビングに飾られていた紫陽花の絵を盟子は取り外した。母が出かけている間のこと。
 ずっと母が取ってくれるのを待っていたのだ。
 でも、自分で取ればいいのだと気付いた。自分が描いたものなのだから。
 額を降ろし、乾き切って黄ばんだその絵を取り出す。
 くるくると撒いて輪ゴムをかけ、小学校の卒業証書の丸筒にぽんと放り込んでクローゼットにしまうと、それはもう色褪せて懐かしいだけの思い出になった。笑ってしまう程簡単な作業だった。
――次にあの絵を広げる時、私はどうなってるのかな。
 そうして長い間その場所を占めていた絵が消え、すっきりとした壁はほんの少し心許なかった。