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認めたから

ー/ー



——先生があっちの世界に飛んでしまわなくてよかったな、って。

 心に浮かぶのはそのことばかりだった。
 例え昨日の出来事が茶番であっても、なかったことになったとしても。

 あの細い支柱の上で空を背に立ち上がった時、その姿があまりにもきれいで。今にも向こう側に行ってしまいそうで。

「梅ちゃん今日は何をそんなに急いでんの?」
 健人が不思議そうにのぞき込んでくる。
 閉店前、ホールには常連のお客さんが2人。コーヒーのアロマの中で時間はゆっくりと流れているのに、盟子だけがやたらせかせかしている。

 仕事は全部、前倒しで進めた。
 布巾を洗うのも、カップの漂白も、アイスコーヒーづくりも。
 とにかくできることは全部先にやっておいた。そしてタイミングを伺っていた。
 上の住人は、たぶんもう帰宅している気配がある。
 できれば今日のうちに。次のバイトは3日後になるから、時間が空きすぎる。

「さっきからやたら走ってない?」
 盟子はそう尋ねられて困って目を泳がせた。
「えーと、実は、謝りに行きたくて」
「はい?」
「先生に」



 こっちは大丈夫だから行ってきなよ、と健人に背中を押されて、盟子は事務所の奥の階段を登った。

 怒っているだろうな、とは覚悟している。
 もしくは、呆れられてるかな、と。
 頭が冷えてみたら、自分はとんでもないことをしでかしたのではないかと今更思っている。
 わざわざ何人もの同僚たちの前で、公にしなくてもいいことを公にしてしまったのではないか、と。

 ドアをノックすると、「どーぞぉ」といつも通りの声が聞こえた。
「失礼しま……」
「盟子ちゃん! あんた頑張ったねぇ!」
 ところが盟子が開ける前にドアが勢いよく開いて、中に引っ張り込まれた。
「玲峰さー、泣きそうになっちゃった!」
 そう言って勝手に目を潤ませている守谷の手には、氷と共に淡い金色の液体を湛えたグラスが。何やらテンションがおかしいのはどうやら飲んでいるみたいだ。そして、いつものピシッと決まった姿とは真逆のラフなスウェット。

「……お酒飲んでるんですか?」
「教えなーい」
 顔はいつも通り白いけれど、少し目がとろんとしている。
「あの、私謝りに……」
「うんうん、頑張って黒田ちゃんと戦ったよねぇ。きっと怖かったよね。でもさ、でもさ」
「は、はい」
「飛び降りるのはダメ! ぜぇーーーったいダメ!」
 今度は急に怒り出した。
「自分だって飛び降りようとしたじゃないですか」
「あれねー、磯部先生が止めてくれなかったらホントに飛んでたとこだった。あははははは」
「笑いごとじゃないんです!」

 盟子は語気を強めた。私ってこんなキャラだったか、と自分でも内心戸惑いながら。

「あの時、先生が本当に飛び降りちゃったらどうしようって……」
「それあたしのセリフー!」
 ケラケラ笑う守谷の顔を見ていたら、急に涙がこぼれそうになった。
「……先生が生きててよかった」
「そうだよ! 玲峰が死んだら世界の損失ですから! って、やーんそんな顔しないで。可愛いんだからもう」
 ぎゅうっ、と。
 ドキドキする間もなく押し付けられたブルーのスウェットの胸は、いつものベルガモットの香りと、その向こうに男の人のシャンプーの香りと。そしてアルコールの匂いがした。

「……あの、私が余計なことをしたばっかりに、玲峰先生に迷惑かけちゃってごめんなさい。あんなことしなくても、先生は自分で解決できてたかもしれないのに」
 うんうん、と守谷は頷く。
「確かにパーフェクトな玲峰の力をもってすれば適当にかわせるんだけどぉ、でも、それだとまた同じことするよねあの子たち」
 それは、そうかもしれない。南緒は一層執着して、雄眞は更に妬み僻みを募らせて。
「だからね、この結果でよかったと思うの。盟子ちゃんが立ち上がったことに意味があるのよ」
「……あの、どうして今日は盟子って言うんですか」
「認めたから」
 守谷はぐいっとグラスをあおった。

「なんか変わったもん」
「そ、そうですか?」
「今日から盟子って呼んであげる! ありがたく思いなさい!」
「はあ、ありがとうございます」

 それはたぶん、いや絶対に、間違いなく、ありがたいことに違いない。
 生きてるからそう呼んでもらえるし、そう呼んでくれる。生きてれば何でもできるし、どうにでもなる。嫌われたって叱られたって、生きてさえいれば。

「ねえ、盟子今夜付き合ってよ。あ、高校生はダメかぁ。おーい健人終わったら上がってこーい」
 守谷はわけもなく盟子の頭をくしゃくしゃ撫でると、下に向けて叫ぶ。
「りょ」
 健人がそう叫び返してきた。

……聞いたところによるとこの日2人は0時過ぎまで飲んで、健人は泊まって行ったらしかった。




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——先生があっちの世界に飛んでしまわなくてよかったな、って。
 心に浮かぶのはそのことばかりだった。
 例え昨日の出来事が茶番であっても、なかったことになったとしても。
 あの細い支柱の上で空を背に立ち上がった時、その姿があまりにもきれいで。今にも向こう側に行ってしまいそうで。
「梅ちゃん今日は何をそんなに急いでんの?」
 健人が不思議そうにのぞき込んでくる。
 閉店前、ホールには常連のお客さんが2人。コーヒーのアロマの中で時間はゆっくりと流れているのに、盟子だけがやたらせかせかしている。
 仕事は全部、前倒しで進めた。
 布巾を洗うのも、カップの漂白も、アイスコーヒーづくりも。
 とにかくできることは全部先にやっておいた。そしてタイミングを伺っていた。
 上の住人は、たぶんもう帰宅している気配がある。
 できれば今日のうちに。次のバイトは3日後になるから、時間が空きすぎる。
「さっきからやたら走ってない?」
 盟子はそう尋ねられて困って目を泳がせた。
「えーと、実は、謝りに行きたくて」
「はい?」
「先生に」
 こっちは大丈夫だから行ってきなよ、と健人に背中を押されて、盟子は事務所の奥の階段を登った。
 怒っているだろうな、とは覚悟している。
 もしくは、呆れられてるかな、と。
 頭が冷えてみたら、自分はとんでもないことをしでかしたのではないかと今更思っている。
 わざわざ何人もの同僚たちの前で、公にしなくてもいいことを公にしてしまったのではないか、と。
 ドアをノックすると、「どーぞぉ」といつも通りの声が聞こえた。
「失礼しま……」
「盟子ちゃん! あんた頑張ったねぇ!」
 ところが盟子が開ける前にドアが勢いよく開いて、中に引っ張り込まれた。
「玲峰さー、泣きそうになっちゃった!」
 そう言って勝手に目を潤ませている守谷の手には、氷と共に淡い金色の液体を湛えたグラスが。何やらテンションがおかしいのはどうやら飲んでいるみたいだ。そして、いつものピシッと決まった姿とは真逆のラフなスウェット。
「……お酒飲んでるんですか?」
「教えなーい」
 顔はいつも通り白いけれど、少し目がとろんとしている。
「あの、私謝りに……」
「うんうん、頑張って黒田ちゃんと戦ったよねぇ。きっと怖かったよね。でもさ、でもさ」
「は、はい」
「飛び降りるのはダメ! ぜぇーーーったいダメ!」
 今度は急に怒り出した。
「自分だって飛び降りようとしたじゃないですか」
「あれねー、磯部先生が止めてくれなかったらホントに飛んでたとこだった。あははははは」
「笑いごとじゃないんです!」
 盟子は語気を強めた。私ってこんなキャラだったか、と自分でも内心戸惑いながら。
「あの時、先生が本当に飛び降りちゃったらどうしようって……」
「それあたしのセリフー!」
 ケラケラ笑う守谷の顔を見ていたら、急に涙がこぼれそうになった。
「……先生が生きててよかった」
「そうだよ! 玲峰が死んだら世界の損失ですから! って、やーんそんな顔しないで。可愛いんだからもう」
 ぎゅうっ、と。
 ドキドキする間もなく押し付けられたブルーのスウェットの胸は、いつものベルガモットの香りと、その向こうに男の人のシャンプーの香りと。そしてアルコールの匂いがした。
「……あの、私が余計なことをしたばっかりに、玲峰先生に迷惑かけちゃってごめんなさい。あんなことしなくても、先生は自分で解決できてたかもしれないのに」
 うんうん、と守谷は頷く。
「確かにパーフェクトな玲峰の力をもってすれば適当にかわせるんだけどぉ、でも、それだとまた同じことするよねあの子たち」
 それは、そうかもしれない。南緒は一層執着して、雄眞は更に妬み僻みを募らせて。
「だからね、この結果でよかったと思うの。盟子ちゃんが立ち上がったことに意味があるのよ」
「……あの、どうして今日は盟子って言うんですか」
「認めたから」
 守谷はぐいっとグラスをあおった。
「なんか変わったもん」
「そ、そうですか?」
「今日から盟子って呼んであげる! ありがたく思いなさい!」
「はあ、ありがとうございます」
 それはたぶん、いや絶対に、間違いなく、ありがたいことに違いない。
 生きてるからそう呼んでもらえるし、そう呼んでくれる。生きてれば何でもできるし、どうにでもなる。嫌われたって叱られたって、生きてさえいれば。
「ねえ、盟子今夜付き合ってよ。あ、高校生はダメかぁ。おーい健人終わったら上がってこーい」
 守谷はわけもなく盟子の頭をくしゃくしゃ撫でると、下に向けて叫ぶ。
「りょ」
 健人がそう叫び返してきた。
……聞いたところによるとこの日2人は0時過ぎまで飲んで、健人は泊まって行ったらしかった。