ばたん。
玄関のドアが閉まる音がした。
ユージは掃除の手を止め、耳をそばだてた。
(サクラ、帰ってきたかな)
ユージは、物がほぼなくなって、がらんとした書斎の掃除をしていた。
サクラの不在中に、これまで買い集めた本は古本屋に持ち込み、捨てられるものは全部捨てた。どうしても捨てられないものは実家に送り付け、何処かに保管してもらうように頼んでおいた。
残ったのはジムルグに持って行くものと、身の回りのちょっとしたものだけだ。
そのうちに、ずかずかと力強く床を蹴る足音が近づいてきた。
「ユージ、いる?開けるわよ!」
元気なサクラの声と共に、勢いよく書斎のドアが開かれた。
(へ?)
見ると、書斎の入り口でサクラが口を真一文字に結んで仁王立ちしているではないか。
「え、えっと?」
妻は、驚いて目をぱちくりさせている夫に対し、
「ユージ。こないだはよくも別れろなんて言ってくれたわね。今日はあたしの話を聞いてもらうわ。ちょっと顔貸しなさい」
と、威嚇するような口調でまくし立てた。
「えっ?な、何?」
「ふん。一方的に好き勝手言われて引き下がるようなサクラ様じゃないってことよ――ほら、さっさと出て来なさい」
サクラは腕組みしたまま、くいっと顎をしゃくった。
(サクラ、なんか、パワーアップして帰って来た)
ユージはサクラの気迫に押され、すごすごと書斎から出てきた。
サクラはユージをリビングに連行すると、
「そこ座って」
と指示を出し、自分はその正面に腰かけた。
そして、自分のタブレット端末を操作し、ユージが送り付けてきた離婚届を表示した。
「まず、これね」
見ると、まだサクラのサインは入っていない。
「あたしはユージと離婚する気はありません。だから、サインしません」
「えっ」
サクラの宣言に、ユージは驚いたように目を上げた。
「でも、この書類は使えそうだから、破棄せずにこのまま持っておくわ」
「それ、どういうこと?」
困惑するユージに、サクラはにいっと笑って、話を先に進める。
「それから、子供の事なんだけど、出産したらあたしが引き取りに行きます。育休はたっぷり3年取得します。その間のお給料は保証されているから、お金の問題はないと思っています。それで、しばらく実家に帰って、ママに助けてもらいながら子育てします。子供がひとりで座れるようになったらここに戻ってきて、アルファちゃんと一緒に子育てします」
ユージは、サクラの話をぽかんと口を開けて聞いている。
「でね。アルファちゃんに聞いたんだけど、離婚が成立していなくてもひとり親支援サービスが使えるケースがあるらしいの。承認されるかどうかはやってみないと分からないんだけど、そこでユージのサインが入った離婚届の登場」
と、サクラはタブレット端末を人差し指でとんとんと叩いた。
「離婚協議中にユージが中道界に逃げた体にさせてもらうわ。財産分与も何も決まってないのに逃げられた、今のままじゃ離婚出来ない、ってね」
「……はあ」
サクラのプレゼンに、ユージはただただびっくりしている様子だ。
「ユージ。今から大事なことを言うから、よく聞いてね」
サクラは背筋を伸ばして座り直すと、夫を真直ぐに見て真剣な面持ちで言葉を継いだ。
「あたしはユージの研究の邪魔をするつもりはないの。ジムルグで研究したければ後のことは何も気にせず、堂々と行ったらいいわ。――だけどね、だけど、このことで、あたしと赤ちゃんを捨てないで欲しいの。あたしは、こんなことでユージと他人になるのは絶対に嫌だわ。でも――」
不意に、サクラは悲しそうな顔をして俯いた。
「でも、そうじゃなくて、ユージが本当にあたしのことを嫌いになったっていうなら、話は別だけど……」
「ち、違う。サクラを嫌いになったんじゃない。俺はただ――あっ」
言いさしたユージは、はっ、と両手で己の口元を覆った。
(やべ)
語るに落ちた。
ちらりとサクラの顔を見ると、してやったりの満面の笑みだ。
「はあああ……」
ユージは力なくソファの背もたれに体重を預けた。
悩みに悩み、苦しみ抜いた末に、必死に作り上げてきたものが、サクラの手によって脆くも崩れ去ったように感じた。
(必死に考えて、結論出したの、何だったんだ)
それは言うまでもなく、ユージのひとり相撲だ。
「……サクラは、本当にそれでいいの?子供のことは任せきりになるし、第一、今後のことは何も約束出来ないよ?」
素に戻ったユージは、改めてサクラに念押しした。
「それでも、いつかは帰ってきてくれるんでしょ?あたし、待ってるから」
サクラの覚悟はゆるぎないものだった。
「……」
ユージは言葉にならない声を上げて、頭をぐしゃぐしゃと掻きむしった。
「ふふっ、これで一件落着。今日の晩御飯は何か美味しいもの頼んじゃおっかな」
夫がぐだぐだする様をよそに、サクラは勝ち誇ったような声を上げた。
「それはいいけど……もー、俺、これでも頑張ったんだよ」
ユージはただただ悔しくてそんなことを口にした。