表示設定
表示設定
目次 目次




#4

ー/ー



「一刻も早くボートに乗ってくれ。頼む」

 強引に俺の背中を押しブライアンが歩き出す。人波をかきわけ順番待ちの最後列につくと、ブライアンが俺の肩を強く抱き寄せた。

「ペットの同乗はご遠慮願います、マダム」
「置いていけと言うの? 私の家族なのよ!」

 犬を連れた婦人とスチュワードが、押し問答している。ふと、プロムナードデッキで言葉を交わした老婦人とマロンの姿が頭を過ぎった。

 彼女はもう避難しただろうか。マロンもタイタニックに置き去りにされるのだとしたら、あまりに残酷だ。

「ブライアン……」
「大丈夫だよ、アシュリー」

 小さな子供をあやすようにブライアンが囁いた。その声がひどく優しくて、なぜか悲しくなった。

「覚えているかい? 六歳の時、兄さんのまっさらな便せんに万年筆で絵を描いて怒られたことがあったね」

 何で急にそんな話をするんだろう。不思議に思いながら、俺は覚えてるよと答えた。特注の箔押し便せんだった。

「一度にに十枚くらい無駄にして、父さんにめちゃくちゃ怒られた」

 ついでに万年筆のペン先もだめにしたんだ。十八金だとか言われても、当時の俺に価値がわかるはずもなかった。

「アシュリーは誰の絵を描いたんだっけ」
「父さんと母さんと俺……三人で遊園地に行ったときの」

 夏の終わり、めずらしく父さんが俺を連れ出してくれたんだ。昼に母さんの作ったサンドイッチを芝生に座って三人で食べた。

 父さんも母さんも楽しそうだった。
 もちろん俺も同じで、一日中はしゃいでたのを思い出す。

「兄さんはいまもその絵を大事に書斎の引き出しにしまっているよ」
「まさか。全部捨てられたはずだ」

 ブライアンは首を横に振った。

「最後の一枚だけはね、捨てなかったんだよ。便せんの一件以来、アシュリーは自分の絵を描いてくれなくなったと、兄さんはとても悔やんでいた。だから、家族三人描かれたその絵は、いまでも宝物だって」

 胃のあたりがきゅっとしめつけられた。なんだよ。そんな話聞きたくないよ。

「俺の家族はブライアンだけだ」
「兄さんも、義姉さんも、家族だよ。みんなでひとつの家族なんだよ、アシュリー」

 救難信号の花火が打ち上がる。

 その一瞬だけ、船上と周囲の暗い海原が明るく照らし出された。じわじわと迫りくる得体のしれない焦燥感に、俺の心は揺れた。

 男性たちは奥さんや恋人、子供たちに別れを告げ、海に降ろされていくボートに手を振る。

 幼い子供たちの泣き声、不満を漏らす乗客の怒号がそこかしこで聞こえ、目に映る光景は次第に痛々しい様相を呈し、俺をひどく苦い気持ちにさせた。


次のエピソードへ進む #5


みんなのリアクション

「一刻も早くボートに乗ってくれ。頼む」
 強引に俺の背中を押しブライアンが歩き出す。人波をかきわけ順番待ちの最後列につくと、ブライアンが俺の肩を強く抱き寄せた。
「ペットの同乗はご遠慮願います、マダム」
「置いていけと言うの? 私の家族なのよ!」
 犬を連れた婦人とスチュワードが、押し問答している。ふと、プロムナードデッキで言葉を交わした老婦人とマロンの姿が頭を過ぎった。
 彼女はもう避難しただろうか。マロンもタイタニックに置き去りにされるのだとしたら、あまりに残酷だ。
「ブライアン……」
「大丈夫だよ、アシュリー」
 小さな子供をあやすようにブライアンが囁いた。その声がひどく優しくて、なぜか悲しくなった。
「覚えているかい? 六歳の時、兄さんのまっさらな便せんに万年筆で絵を描いて怒られたことがあったね」
 何で急にそんな話をするんだろう。不思議に思いながら、俺は覚えてるよと答えた。特注の箔押し便せんだった。
「一度にに十枚くらい無駄にして、父さんにめちゃくちゃ怒られた」
 ついでに万年筆のペン先もだめにしたんだ。十八金だとか言われても、当時の俺に価値がわかるはずもなかった。
「アシュリーは誰の絵を描いたんだっけ」
「父さんと母さんと俺……三人で遊園地に行ったときの」
 夏の終わり、めずらしく父さんが俺を連れ出してくれたんだ。昼に母さんの作ったサンドイッチを芝生に座って三人で食べた。
 父さんも母さんも楽しそうだった。
 もちろん俺も同じで、一日中はしゃいでたのを思い出す。
「兄さんはいまもその絵を大事に書斎の引き出しにしまっているよ」
「まさか。全部捨てられたはずだ」
 ブライアンは首を横に振った。
「最後の一枚だけはね、捨てなかったんだよ。便せんの一件以来、アシュリーは自分の絵を描いてくれなくなったと、兄さんはとても悔やんでいた。だから、家族三人描かれたその絵は、いまでも宝物だって」
 胃のあたりがきゅっとしめつけられた。なんだよ。そんな話聞きたくないよ。
「俺の家族はブライアンだけだ」
「兄さんも、義姉さんも、家族だよ。みんなでひとつの家族なんだよ、アシュリー」
 救難信号の花火が打ち上がる。
 その一瞬だけ、船上と周囲の暗い海原が明るく照らし出された。じわじわと迫りくる得体のしれない焦燥感に、俺の心は揺れた。
 男性たちは奥さんや恋人、子供たちに別れを告げ、海に降ろされていくボートに手を振る。
 幼い子供たちの泣き声、不満を漏らす乗客の怒号がそこかしこで聞こえ、目に映る光景は次第に痛々しい様相を呈し、俺をひどく苦い気持ちにさせた。