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3兆円のキス

ー/ー



――やっぱり行ってみよう。

 コピーに行くのはやめた。理屈なんてない。だからそれを直感というのだ。

 守谷の消えていった階段を駆け上がり、ドアの取っ手に手をかける。
 ……怖かった。このまま物陰に潜んでいれば、何も見聞きしなければ、南緒の不機嫌を何週間か耐え凌げば。 
 今までと同じ日常がきっと戻ってくるのに。
 これからそれを壊しに行く。その先に何があるのかわからない。だとしても。

 重たいドアに身体を傾けるとぶわっと風の洗礼を受ける。
 少し先の給水タンクの足元に人影が見えた。突き抜ける青を背景に向き合うすらりとした青年とボーイッシュな少女。盟子は二人の前に姿を晒した。

「梅崎さん?」
 守谷がひどく驚いた顔をした。
「は? 何で盟子がここにいるの?」
 敵意剥き出しの南緒の目。もちろん、笑って手を振ってもらえるなんて思っちゃいない。

「キモっ、玲峰先生のストーカー?」
 うるっとしたベビーピンクの唇から容赦なく飛び出すナイフのような言葉。
「消えろよブス」
「嘘つき」
 初めて。
 初めて、南緒に言い返した。真正面から敵対した。少し手が震えた。

「……玲峰先生に相談なんて嘘でしょ。私わかるよ」
「は? 嘘じゃねーし」
「嘘ばっかりついてると、嘘か本当かも区別つかなくなるんだね」
 小学校から積み上げてきた関係が今、崩れていく。その音が聞こえる。

「てか盟子に関係ねーし」
 その言いぐさには思わず笑ってしまった。まだ手は震えているのに。
「関係ない? 私を利用して散々美術室まで押しかけたくせに?」
「は? 一人じゃ何もできないから私がしてやったんじゃん。お礼言うとこだよねそれ?」
「私、そんなこと頼んでない」
「お前さぁ」
 南緒がイライラと盟子を睨みつける。
「昔から地味で暗くて存在感うっすかったよね? 金魚のフンのくせして何を勘違いしてんの?」

――それは、そうだったのかもしれない。うん、確かにこれまでの私はそうだったな。

 でも、今ここから変わったっていいはずだ。

「それに南緒、小林にも嘘ついたよね? 私が小林のことを意識してるって」
「だって雄眞と付き合ってんだから結果オーライじゃん」
 ……本気でそう思っているのだとしたら。
 なんてかわいそうなんだろう。
「……南緒って誰かを本気で好きになったことないんだ」
「は!? 何なのお前!」
「二人ともちょっとストップしよっか」

 突然目の前に降って湧いた修羅場を黙って観戦していた守谷が、ついに腕組みを解いた。はいはい落ち着いてーと盟子と南緒を仲裁する。南緒は一瞬で声とキャラを変えて絡みついた。

「先生ごめーん、この子頭おかしいの。私に嫉妬してるんだよ、先生と仲いいからって」
「そういうんじゃない!」
「ほらね先生わかったでしょ? こうやって私に嫌がらせしてくるの。しかも彼氏いるくせに先生に手出そうとして」

 甘い顔を守谷に向けたかと思うと一転、南緒は悪魔みたいな表情をしてベビーピンクの唇を歪ませた。

「死 ねクソビッチ」
「やめなさい」
 守谷がぴしゃりと制す。
「だってそうじゃん! こうやって邪魔しに来てんじゃん!」
 そういいながら、南緒は自分のワイシャツのボタンをぷつりぷつりと外してゆく。南緒が何をしようとしているのかわからない。

「ねぇほら、先生ちょっとこれ見てよ」
 言いながら更に距離を詰め、ボタンをはずしきったワイシャツをはだけた。そして黒の下着をつけた胸をさらしたまま守谷の懐に滑り込む。
 止める間もなく、行動の意味を理解する間もなく、南緒はそれ(・・)を一瞬でやってのけた。

「……なっ!?」

 たぶんそれは、綿密に計画された行動だったのだ。
 守谷が慌てて南緒を突き放して唇をぬぐったその時、誰かが給水設備の建物の陰からゆっくりとスマホを掲げたまま歩み出てきた。

「はい録画したー」
 さすがに今のはヤバいよなぁ、と薄笑いを浮かべているのは。
「小林……! 何してるの!?」
「そんな顔しないでよ先生、軽ーい冗談だよ? だってこうでもしないと私の話真面目に聞いてくれないじゃん」
 玲峰先生とキスしちゃったぁ、と。ボタンを留めながら南緒が楽しそうに笑っている。
「ね、先生、一度でいいからデートして? 私さぁ絶対先生満足させられるよ! 自信あるもん!」

 バチっ! と。
 乾いた音が響く。

 そうしようと決断するより先に、盟子は南緒の頬をひっぱたいていた。
 一瞬のタイムラグがあって、何をされたのか理解した南緒が血相を変える。
 一触即発になった二人の間に、守谷が割って入った。
「ちょっとちょっと二人とも、女の子が殴り合いとかだめだよー」
 その声はやけに悠長だった。下着姿の女子生徒とのキスを撮影されてしまった割には。

「うんうん、大体話は読めたわ。黒田ちゃんと小林くんさ、ほんとは玲峰の唇ってめっちゃくちゃ高いんだけどぉ、3兆円くらいするんだけどぉ」
 今回はまぁ冗談ってことで許してあげてもいいから、と優雅に笑っている。
「だからとりあえず黒田ちゃんはさ、梅崎さんに謝りなさいね? 色々事実と違うこと言ってるよね?」

「は? ヤバいのはそっちなんだぞっ」
 雄眞が目を剥いた。
「ここに動画があるんだからな! そんな態度でいいのかよ!?」
 確かに、消してくださいと真っ青になって懇願してくるはずのところだ。

「えー、せっかく見逃してあげるって言ってるのに? 本当にいいの? 大丈夫?」
 けれど守谷は真っ青どころか心の底から心配そうな上から目線でそう言った。

「あたしってばー、実はこう見えて由緒ある神社の息子だったりするの」
 で、何を言い出すかと思えば。
「守護がけっっっこう強いからぁ、色々跳ね返るかもしれないから気を付けてほしいのね」
 神社。守護。
「事故とか病気とか、あと火事もあり得るかも……心配だわー」
 突然飛び出したパワーワードは、その場を一瞬凍り付かせるだけの威力があった。けれど。
「いい加減にしろよ!」
 業を煮やした雄眞がイライラと怒鳴る。

「この動画、磯部に見せるからな!」

 呆然としていた盟子は、その言葉で我に返った。
 先手をとらないといけない。
 雄眞があの動画を都合よく加工したり切り取ったりする前に。二人が口裏を合わせて筋書きを捏造する前に。
 盟子がここにいたのは2人にとって想定外のはずで、成り行きを全部見ていた第三者もまた盟子だけなのだから。
 
 弾かれたように走り出す。確か、入口のところにあったはず。
 屋上のドアを後ろ手に閉めると、人生の中でたぶんもう二度と押すことはないだろうその——火災報知器緒の——赤いボタンを、盟子は力任せに押した。




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――やっぱり行ってみよう。
 コピーに行くのはやめた。理屈なんてない。だからそれを直感というのだ。
 守谷の消えていった階段を駆け上がり、ドアの取っ手に手をかける。
 ……怖かった。このまま物陰に潜んでいれば、何も見聞きしなければ、南緒の不機嫌を何週間か耐え凌げば。 
 今までと同じ日常がきっと戻ってくるのに。
 これからそれを壊しに行く。その先に何があるのかわからない。だとしても。
 重たいドアに身体を傾けるとぶわっと風の洗礼を受ける。
 少し先の給水タンクの足元に人影が見えた。突き抜ける青を背景に向き合うすらりとした青年とボーイッシュな少女。盟子は二人の前に姿を晒した。
「梅崎さん?」
 守谷がひどく驚いた顔をした。
「は? 何で盟子がここにいるの?」
 敵意剥き出しの南緒の目。もちろん、笑って手を振ってもらえるなんて思っちゃいない。
「キモっ、玲峰先生のストーカー?」
 うるっとしたベビーピンクの唇から容赦なく飛び出すナイフのような言葉。
「消えろよブス」
「嘘つき」
 初めて。
 初めて、南緒に言い返した。真正面から敵対した。少し手が震えた。
「……玲峰先生に相談なんて嘘でしょ。私わかるよ」
「は? 嘘じゃねーし」
「嘘ばっかりついてると、嘘か本当かも区別つかなくなるんだね」
 小学校から積み上げてきた関係が今、崩れていく。その音が聞こえる。
「てか盟子に関係ねーし」
 その言いぐさには思わず笑ってしまった。まだ手は震えているのに。
「関係ない? 私を利用して散々美術室まで押しかけたくせに?」
「は? 一人じゃ何もできないから私がしてやったんじゃん。お礼言うとこだよねそれ?」
「私、そんなこと頼んでない」
「お前さぁ」
 南緒がイライラと盟子を睨みつける。
「昔から地味で暗くて存在感うっすかったよね? 金魚のフンのくせして何を勘違いしてんの?」
――それは、そうだったのかもしれない。うん、確かにこれまでの私はそうだったな。
 でも、今ここから変わったっていいはずだ。
「それに南緒、小林にも嘘ついたよね? 私が小林のことを意識してるって」
「だって雄眞と付き合ってんだから結果オーライじゃん」
 ……本気でそう思っているのだとしたら。
 なんてかわいそうなんだろう。
「……南緒って誰かを本気で好きになったことないんだ」
「は!? 何なのお前!」
「二人ともちょっとストップしよっか」
 突然目の前に降って湧いた修羅場を黙って観戦していた守谷が、ついに腕組みを解いた。はいはい落ち着いてーと盟子と南緒を仲裁する。南緒は一瞬で声とキャラを変えて絡みついた。
「先生ごめーん、この子頭おかしいの。私に嫉妬してるんだよ、先生と仲いいからって」
「そういうんじゃない!」
「ほらね先生わかったでしょ? こうやって私に嫌がらせしてくるの。しかも彼氏いるくせに先生に手出そうとして」
 甘い顔を守谷に向けたかと思うと一転、南緒は悪魔みたいな表情をしてベビーピンクの唇を歪ませた。
「死 ねクソビッチ」
「やめなさい」
 守谷がぴしゃりと制す。
「だってそうじゃん! こうやって邪魔しに来てんじゃん!」
 そういいながら、南緒は自分のワイシャツのボタンをぷつりぷつりと外してゆく。南緒が何をしようとしているのかわからない。
「ねぇほら、先生ちょっとこれ見てよ」
 言いながら更に距離を詰め、ボタンをはずしきったワイシャツをはだけた。そして黒の下着をつけた胸をさらしたまま守谷の懐に滑り込む。
 止める間もなく、行動の意味を理解する間もなく、南緒は|それ《・・》を一瞬でやってのけた。
「……なっ!?」
 たぶんそれは、綿密に計画された行動だったのだ。
 守谷が慌てて南緒を突き放して唇をぬぐったその時、誰かが給水設備の建物の陰からゆっくりとスマホを掲げたまま歩み出てきた。
「はい録画したー」
 さすがに今のはヤバいよなぁ、と薄笑いを浮かべているのは。
「小林……! 何してるの!?」
「そんな顔しないでよ先生、軽ーい冗談だよ? だってこうでもしないと私の話真面目に聞いてくれないじゃん」
 玲峰先生とキスしちゃったぁ、と。ボタンを留めながら南緒が楽しそうに笑っている。
「ね、先生、一度でいいからデートして? 私さぁ絶対先生満足させられるよ! 自信あるもん!」
 バチっ! と。
 乾いた音が響く。
 そうしようと決断するより先に、盟子は南緒の頬をひっぱたいていた。
 一瞬のタイムラグがあって、何をされたのか理解した南緒が血相を変える。
 一触即発になった二人の間に、守谷が割って入った。
「ちょっとちょっと二人とも、女の子が殴り合いとかだめだよー」
 その声はやけに悠長だった。下着姿の女子生徒とのキスを撮影されてしまった割には。
「うんうん、大体話は読めたわ。黒田ちゃんと小林くんさ、ほんとは玲峰の唇ってめっちゃくちゃ高いんだけどぉ、3兆円くらいするんだけどぉ」
 今回はまぁ冗談ってことで許してあげてもいいから、と優雅に笑っている。
「だからとりあえず黒田ちゃんはさ、梅崎さんに謝りなさいね? 色々事実と違うこと言ってるよね?」
「は? ヤバいのはそっちなんだぞっ」
 雄眞が目を剥いた。
「ここに動画があるんだからな! そんな態度でいいのかよ!?」
 確かに、消してくださいと真っ青になって懇願してくるはずのところだ。
「えー、せっかく見逃してあげるって言ってるのに? 本当にいいの? 大丈夫?」
 けれど守谷は真っ青どころか心の底から心配そうな上から目線でそう言った。
「あたしってばー、実はこう見えて由緒ある神社の息子だったりするの」
 で、何を言い出すかと思えば。
「守護がけっっっこう強いからぁ、色々跳ね返るかもしれないから気を付けてほしいのね」
 神社。守護。
「事故とか病気とか、あと火事もあり得るかも……心配だわー」
 突然飛び出したパワーワードは、その場を一瞬凍り付かせるだけの威力があった。けれど。
「いい加減にしろよ!」
 業を煮やした雄眞がイライラと怒鳴る。
「この動画、磯部に見せるからな!」
 呆然としていた盟子は、その言葉で我に返った。
 先手をとらないといけない。
 雄眞があの動画を都合よく加工したり切り取ったりする前に。二人が口裏を合わせて筋書きを捏造する前に。
 盟子がここにいたのは2人にとって想定外のはずで、成り行きを全部見ていた第三者もまた盟子だけなのだから。
 弾かれたように走り出す。確か、入口のところにあったはず。
 屋上のドアを後ろ手に閉めると、人生の中でたぶんもう二度と押すことはないだろうその——火災報知器緒の——赤いボタンを、盟子は力任せに押した。