#2
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陽が落ちる頃、俺たちはタキシードに着替え一等船客専用レストランへ向かった。
「どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
ドアボーイがガラス張りの扉を開いた。歓談のざわめきや無数の男女の笑い声、食器やグラスが鳴り響く音、温かな料理の匂いに包まれる。
室内を埋めるディナー客は七割ほど。モノトーンのタキシードとは対照的に、イブニングドレス姿の女性たちがテーブルに花を添える。
「アシュリー、五月祭のセリフは覚えたかい?」
案内された窓側の席に腰かけると、間もなくコースの前菜が運ばれてきた。
陽が落ちる頃、俺たちはタキシードに着替え一等船客専用レストランへ向かった。
「どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
ドアボーイがガラス張りの扉を開いた。歓談のざわめきや無数の男女の笑い声、食器やグラスが鳴り響く音、温かな料理の匂いに包まれる。
室内を埋めるディナー客は七割ほど。モノトーンのタキシードとは対照的に、イブニングドレス姿の女性たちがテーブルに花を添える。
「アシュリー、五月祭のセリフは覚えたかい?」
案内された窓側の席に腰かけると、間もなくコースの前菜が運ばれてきた。
「ほぼ完ぺきだよ。暗唱してみせようか」
「とても聞きたい……けど、当日の感動が半減しないよう我慢しておくよ」
「そんなに楽しみ?」
「もちろん。私は俳優アシュリー・フレイザーのファンだからね、最前列で観ると決めているんだ」
「逆に観にくいだろ」
「オペラグラスなしで堪能するためだよ」
「ロンドンの劇場じゃないんだから」
親ばかならぬ、叔父ばかだ。ブライアンとは取りとめのない話ができて気が楽だ。反対に、父さんとは会話らしい会話は久しく交わしてない。
「それよりブライアン、フランス語教室の彼女とはどうなったんだよ」
仔牛のローストを頬張りながら訊ねると、ブライアンが飲んでいた赤ワインでむせた。
「急に切り込んでくるね。その……ずいぶん前に別れたよ」
「どうして、お似合いだったのに」
「堅い職業の男性と結婚したいらしくてね」
いくら人柄が良くて優秀でも記者は堅実じゃないとハネられるのか。それとも本物の愛じゃなかったのか。
何だか腹立たしいな。ぼやくと、ブライアンが苦笑した。
「私は優秀じゃないよ。それなりに頑張っているつもりだけどね。フレイザー家ではアウトローだ」
「それは父さんの評価だろ」
もしフレイザー家に生まれてなかったら? ブライアンは父さんに責められることなく、俺は窮屈に縮こまることなく生きられたはずだ。
「とても聞きたい……けど、当日の感動が半減しないよう我慢しておくよ」
「そんなに楽しみ?」
「もちろん。私は俳優アシュリー・フレイザーのファンだからね、最前列で観ると決めているんだ」
「逆に観にくいだろ」
「オペラグラスなしで堪能するためだよ」
「ロンドンの劇場じゃないんだから」
親ばかならぬ、叔父ばかだ。ブライアンとは取りとめのない話ができて気が楽だ。反対に、父さんとは会話らしい会話は久しく交わしてない。
「それよりブライアン、フランス語教室の彼女とはどうなったんだよ」
仔牛のローストを頬張りながら訊ねると、ブライアンが飲んでいた赤ワインでむせた。
「急に切り込んでくるね。その……ずいぶん前に別れたよ」
「どうして、お似合いだったのに」
「堅い職業の男性と結婚したいらしくてね」
いくら人柄が良くて優秀でも記者は堅実じゃないとハネられるのか。それとも本物の愛じゃなかったのか。
何だか腹立たしいな。ぼやくと、ブライアンが苦笑した。
「私は優秀じゃないよ。それなりに頑張っているつもりだけどね。フレイザー家ではアウトローだ」
「それは父さんの評価だろ」
もしフレイザー家に生まれてなかったら? ブライアンは父さんに責められることなく、俺は窮屈に縮こまることなく生きられたはずだ。
「アシュリーはフレイザー家に生まれたくなかった?」
「それはそうだろ。あんな父親の息子で幸せになれるわけがない」
「いま、アシュリーは不幸かい?」
「幸せとは言い難いね」
ブライアンは瞳に悲しそうな色をにじませた。
恵まれているとは思う。衣食住に事欠くこともない。でもそれだけだ。
心にはいつも満たされないものがあって、空虚さを抱えてる。
俳優の道に進みたいという夢があるのに、父さんはそれを許さない。
敷かれたレールを進むしかないのか。家督を継ぐために?
俺の人生って、いったい誰のものなんだ。
「何をもってして幸せと呼ぶか……難しいけどね。私はね、幸せだよ。兄さんを心地良くさせる存在でないことは承知しているけど、私は私以外にはなれないしね。それに、何だかんだ言いつつも、兄さんはアシュリーや私のことを愛してくれている」
「愛してる? バカバカしい。父さんが愛してるのは世間の評価だ。自分が敷いたレールから俺が脱線しないように、いつだって目を光らせてる。友人たちも選定されて、成績はオールSが当たり前、全てにエクセレントを求められる俺の立場になってみろよ」
「それはそうだろ。あんな父親の息子で幸せになれるわけがない」
「いま、アシュリーは不幸かい?」
「幸せとは言い難いね」
ブライアンは瞳に悲しそうな色をにじませた。
恵まれているとは思う。衣食住に事欠くこともない。でもそれだけだ。
心にはいつも満たされないものがあって、空虚さを抱えてる。
俳優の道に進みたいという夢があるのに、父さんはそれを許さない。
敷かれたレールを進むしかないのか。家督を継ぐために?
俺の人生って、いったい誰のものなんだ。
「何をもってして幸せと呼ぶか……難しいけどね。私はね、幸せだよ。兄さんを心地良くさせる存在でないことは承知しているけど、私は私以外にはなれないしね。それに、何だかんだ言いつつも、兄さんはアシュリーや私のことを愛してくれている」
「愛してる? バカバカしい。父さんが愛してるのは世間の評価だ。自分が敷いたレールから俺が脱線しないように、いつだって目を光らせてる。友人たちも選定されて、成績はオールSが当たり前、全てにエクセレントを求められる俺の立場になってみろよ」
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陽が落ちる頃、俺たちはタキシードに着替え一等船客専用レストランへ向かった。
「どうぞごゆっくりお過ごしくださいませ」
ドアボーイがガラス張りの扉を開いた。歓談のざわめきや無数の男女の笑い声、食器やグラスが鳴り響く音、温かな料理の匂いに包まれる。
室内を埋めるディナー客は七割ほど。モノトーンのタキシードとは対照的に、イブニングドレス姿の女性たちがテーブルに花を添える。
「アシュリー、|五月祭《メイデイ》のセリフは覚えたかい?」
案内された窓側の席に腰かけると、間もなくコースの|前菜《オードブル》が運ばれてきた。
「ほぼ完ぺきだよ。暗唱してみせようか」
「とても聞きたい……けど、当日の感動が半減しないよう我慢しておくよ」
「そんなに楽しみ?」
「とても聞きたい……けど、当日の感動が半減しないよう我慢しておくよ」
「そんなに楽しみ?」
「もちろん。私は俳優アシュリー・フレイザーのファンだからね、最前列で観ると決めているんだ」
「逆に観にくいだろ」
「オペラグラスなしで堪能するためだよ」
「ロンドンの劇場じゃないんだから」
「逆に観にくいだろ」
「オペラグラスなしで堪能するためだよ」
「ロンドンの劇場じゃないんだから」
親ばかならぬ、叔父ばかだ。ブライアンとは取りとめのない話ができて気が楽だ。反対に、父さんとは会話らしい会話は久しく交わしてない。
「それよりブライアン、フランス語教室の彼女とはどうなったんだよ」
仔牛のローストを頬張りながら訊ねると、ブライアンが飲んでいた赤ワインでむせた。
「急に切り込んでくるね。その……ずいぶん前に別れたよ」
「どうして、お似合いだったのに」
「堅い職業の男性と結婚したいらしくてね」
「どうして、お似合いだったのに」
「堅い職業の男性と結婚したいらしくてね」
いくら人柄が良くて優秀でも記者は堅実じゃないとハネられるのか。それとも本物の愛じゃなかったのか。
何だか腹立たしいな。ぼやくと、ブライアンが苦笑した。
何だか腹立たしいな。ぼやくと、ブライアンが苦笑した。
「私は優秀じゃないよ。それなりに頑張っているつもりだけどね。フレイザー家ではアウトローだ」
「それは父さんの評価だろ」
「それは父さんの評価だろ」
もしフレイザー家に生まれてなかったら? ブライアンは父さんに責められることなく、俺は窮屈に縮こまることなく生きられたはずだ。
「アシュリーはフレイザー家に生まれたくなかった?」
「それはそうだろ。あんな父親の息子で幸せになれるわけがない」
「いま、アシュリーは不幸かい?」
「幸せとは言い難いね」
「それはそうだろ。あんな父親の息子で幸せになれるわけがない」
「いま、アシュリーは不幸かい?」
「幸せとは言い難いね」
ブライアンは瞳に悲しそうな色をにじませた。
恵まれているとは思う。衣食住に事欠くこともない。でもそれだけだ。
恵まれているとは思う。衣食住に事欠くこともない。でもそれだけだ。
心にはいつも満たされないものがあって、空虚さを抱えてる。
俳優の道に進みたいという夢があるのに、父さんはそれを許さない。
俳優の道に進みたいという夢があるのに、父さんはそれを許さない。
敷かれたレールを進むしかないのか。家督を継ぐために?
俺の人生って、いったい誰のものなんだ。
俺の人生って、いったい誰のものなんだ。
「何をもってして幸せと呼ぶか……難しいけどね。私はね、幸せだよ。兄さんを心地良くさせる存在でないことは承知しているけど、私は私以外にはなれないしね。それに、何だかんだ言いつつも、兄さんはアシュリーや私のことを愛してくれている」
「愛してる? バカバカしい。父さんが愛してるのは世間の評価だ。自分が敷いたレールから俺が脱線しないように、いつだって目を光らせてる。友人たちも選定されて、成績はオールSが当たり前、全てにエクセレントを求められる俺の立場になってみろよ」