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リミット

ー/ー



 夏期講習一日目が終わり、アカデミーから出ていく生徒の流れに混じって外へ出た。
 思い切り伸びをすると体がぎしぎし軋む。勉強よりマシかと思ってたけれど、一日絵を描き続けるというのも楽じゃない。
 不自然に冷たい空調から解放され、ぬるい夕暮れの風を全身で受け止めて目を閉じる。生きてるなと感じる。

 楽しいか楽しくないかで言ったら、それどころじゃないというのが今日の感想だった。
 ただ、集中する頭の隅っこで考えたりしていた。玲峰先生もこの教室で木炭を握りしめて画用紙と向き合っていたのかな……なんて。
 予備校生だった先生は、その時に何を考え、どんな未来を夢見ていたんだろう。

「おいっ、おいってば!」

 そんな考えに耽っていると、アカデミーの門のところで誰かに呼びかけられたのを思いきり聞き流してしまった。
 肩を強くつかまれてようやく気付く。誰かが自分に何か言っていると。

「おい!」
 やたらと上からな態度のその人は。
「忙しくて会えないって言うから来てやったぞ」
「小林……!?」
 ここにいるはずのないその存在に気付いて、盟子は心底ぎょっとした。
 小林雄眞。

「ど、どうしてここにいるの……!?」
「どうしてって、おばさんに聞いたけど」
「な、何しに……!?」
 手首をつかまれ、引っ張られるように歩き出す。盟子の質問には答えないまま雄眞は一方的に喋りだした。

「来週花火大会だろ。これ買ってきといてやった」
 雄眞が差し出した紙袋からは、四角く畳まれたピンク色のものがのぞいてる。受け取るのを躊躇っていると、その腕は威圧的にいつまでも突き出されている。仕方なく紙袋を受け取った。

「見てみろよ」
 中身は浴衣だった。
 バラに蝶柄のピンク色の浴衣と、黄色い帯。
 派手……というか、浴衣にバラってどうなの?
「これ着て、髪は上げて来いよ、花火」
「花火?」
「武蔵野川の」

 そうだった。
 地元を流れる一級河川を舞台とした大きな花火大会が、来週の8月10日に開催されるのだった。京桜線沿いでは名の知れた一大イベントだ。
 それを見に行こうと雄眞がしきりに誘ってきたのは夏休みに入る前からだった。まだまだ先だと思って曖昧にしているうちに忘れていて、いつの間にか来週に迫っている。

 その花火大会に、このピンク色の浴衣を着て来いと。
 好みでない色柄でただでさえ反応に困っていたのに、リアクション薄くね?と嫌味っぽく指摘され、もはや笑顔が作れなくなってしまった。

——買ってきといてやった?
——髪は上げてこい?

「おい、お礼は?」
「……あ、りが、とう」

 買ってきて、なんて頼んでいない。それに花火に行くとはっきり約束したわけじゃない。
 何より、雄眞は盟子の好きな色をよく知っているはずだ。中学生の頃、盟子が色んなメーカーの青色ペンを揃えていたことを知らないわけがないのに。ピンクよりもブルー系が好きだってことを。

「それからさ、夏期講習の間は毎日送り迎えしてやるよ。俺が一緒にいてやらないとお前危なっかしいだろ。今だってぼけっとしてたし」
「え、何それ!?」

 何となく、そうかもしれないという気はしていた。

 雄眞の中では、ピンクの浴衣を着て髪をアップにした女の子を連れて花火を見るのが「デート」なのだ。盟子を使って理想のカップルを演出することが、彼にとっての「付き合う」なのだ。盟子はそのための道具でしかない。

「でさ、夏期講習の最終日が花火大会と被ってるんだよな。4時に終わったらそのまま俺んちに行ってうちの親に着付けしてもらおうな」
「え!? どうしてそんな話になってるの!?」
「親にはもう話してあるから。ほら、うち兄貴と俺だけだろ。女の子の着付けするのすごく楽しみにしてるんだ」
 子供でも諭すように、雄眞は優し気な笑顔を向けてくる。ゆるっとした害のない笑顔に騙されそうになる。おばさんが楽しみにしていると聞けばなんだか申し訳ない気もする。

——玲峰先生。

 思わず心の中で呼びかけた。その名前に縋っていないと今、自分が自分でいられなくなりそうで。
 ああ、こうして私はまた逃げるのかな。
 怖がりで、言いたいことも言えなくて、子供のまんまで。

……リミットは、あと6日だ。



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みんなのリアクション

 夏期講習一日目が終わり、アカデミーから出ていく生徒の流れに混じって外へ出た。
 思い切り伸びをすると体がぎしぎし軋む。勉強よりマシかと思ってたけれど、一日絵を描き続けるというのも楽じゃない。
 不自然に冷たい空調から解放され、ぬるい夕暮れの風を全身で受け止めて目を閉じる。生きてるなと感じる。
 楽しいか楽しくないかで言ったら、それどころじゃないというのが今日の感想だった。
 ただ、集中する頭の隅っこで考えたりしていた。玲峰先生もこの教室で木炭を握りしめて画用紙と向き合っていたのかな……なんて。
 予備校生だった先生は、その時に何を考え、どんな未来を夢見ていたんだろう。
「おいっ、おいってば!」
 そんな考えに耽っていると、アカデミーの門のところで誰かに呼びかけられたのを思いきり聞き流してしまった。
 肩を強くつかまれてようやく気付く。誰かが自分に何か言っていると。
「おい!」
 やたらと上からな態度のその人は。
「忙しくて会えないって言うから来てやったぞ」
「小林……!?」
 ここにいるはずのないその存在に気付いて、盟子は心底ぎょっとした。 小林雄眞。
「ど、どうしてここにいるの……!?」
「どうしてって、おばさんに聞いたけど」
「な、何しに……!?」
 手首をつかまれ、引っ張られるように歩き出す。盟子の質問には答えないまま雄眞は一方的に喋りだした。
「来週花火大会だろ。これ買ってきといてやった」
 雄眞が差し出した紙袋からは、四角く畳まれたピンク色のものがのぞいてる。受け取るのを躊躇っていると、その腕は威圧的にいつまでも突き出されている。仕方なく紙袋を受け取った。
「見てみろよ」
 中身は浴衣だった。
 バラに蝶柄のピンク色の浴衣と、黄色い帯。
 派手……というか、浴衣にバラってどうなの?
「これ着て、髪は上げて来いよ、花火」
「花火?」
「武蔵野川の」
 そうだった。
 地元を流れる一級河川を舞台とした大きな花火大会が、来週の8月10日に開催されるのだった。京桜線沿いでは名の知れた一大イベントだ。
 それを見に行こうと雄眞がしきりに誘ってきたのは夏休みに入る前からだった。まだまだ先だと思って曖昧にしているうちに忘れていて、いつの間にか来週に迫っている。
 その花火大会に、このピンク色の浴衣を着て来いと。
 好みでない色柄でただでさえ反応に困っていたのに、リアクション薄くね?と嫌味っぽく指摘され、もはや笑顔が作れなくなってしまった。
——買ってきといてやった?
——髪は上げてこい?
「おい、お礼は?」
「……あ、りが、とう」
 買ってきて、なんて頼んでいない。それに花火に行くとはっきり約束したわけじゃない。
 何より、雄眞は盟子の好きな色をよく知っているはずだ。中学生の頃、盟子が色んなメーカーの青色ペンを揃えていたことを知らないわけがないのに。ピンクよりもブルー系が好きだってことを。
「それからさ、夏期講習の間は毎日送り迎えしてやるよ。俺が一緒にいてやらないとお前危なっかしいだろ。今だってぼけっとしてたし」
「え、何それ!?」
 何となく、そうかもしれないという気はしていた。
 雄眞の中では、ピンクの浴衣を着て髪をアップにした女の子を連れて花火を見るのが「デート」なのだ。盟子を使って理想のカップルを演出することが、彼にとっての「付き合う」なのだ。盟子はそのための道具でしかない。
「でさ、夏期講習の最終日が花火大会と被ってるんだよな。4時に終わったらそのまま俺んちに行ってうちの親に着付けしてもらおうな」
「え!? どうしてそんな話になってるの!?」
「親にはもう話してあるから。ほら、うち兄貴と俺だけだろ。女の子の着付けするのすごく楽しみにしてるんだ」
 子供でも諭すように、雄眞は優し気な笑顔を向けてくる。ゆるっとした害のない笑顔に騙されそうになる。おばさんが楽しみにしていると聞けばなんだか申し訳ない気もする。
——玲峰先生。
 思わず心の中で呼びかけた。その名前に縋っていないと今、自分が自分でいられなくなりそうで。
 ああ、こうして私はまた逃げるのかな。
 怖がりで、言いたいことも言えなくて、子供のまんまで。
……リミットは、あと6日だ。