麗しのリーランド邸
ー/ー
そんなこんなで旅支度に奔走してどたばたの内に、早、五日間が過ぎ去り、とうとう私たちがリーフリヘリオスへと旅立つ日がやってきました。
心配性な従兄たちの計らいで、私たち4人はロイシュライゼの民間の空港からでなく、軍のエアポートから専用機で発つことになりました。
仕事をこっそり抜け出してきた従兄たちに立ち会われ、旅立ちの瞬間です。
「気をつけていっておいで。――リーランド伯爵夫妻にくれぐれも…」
よろしく伝えてくれるように、と、続くのかと思ったら、
「よろしくお世話をして下さるように、と、連絡はしておいたから」
どこまでも過保護なエトガルなのでした。そんな双子の兄の隣で苦笑しつつ、
「リーランド伯爵夫妻には後日丁重にお礼をしないとね。楽しんでおいで」
マティアスが大いなる海の如き慈愛を湛えた深い青い瞳で私を覗き込みながら言いました。
いざ出発となると、本来の目的である薔薇のことなど口の端にも上らず、私を気遣う言葉ばかりなのが、私を溺愛する従兄たちらしいといえばらしいのでした。
「それでは行って参ります。エトガル、マティアス」
ここ数日の内にすっかり覚悟の決まった私が微笑んでそう告げると、あべこべに、従兄たちの方が如何にも心配そうな、切なそうな表情で、代わる代わる私を思い切り腕の中に抱きしめるものですから、中々出発に至らず、傍に控えているカタリナとロサルヴァ、フィリップの3人は限りなく微妙な面持ち――を、かみ殺して神妙な表情を装い、この美しい別れのシーンを生ぬるく見守っているのでありました。
後ろ髪引かれる様子の従兄たちをどうにか振り切ってやっと専用機に搭乗し、離陸してしまえば、フライトそのものは、ほんの2時間弱。
楽しくお喋りしてる内にもう着陸態勢に入っているーーといった感覚で、本当にあっという間でした。
初めての長旅に浮き立つ心を抑えきれぬまま、止めどなくお喋りした中で、フィリップが、
「…お従兄さま方、リリヤナ様がちょっとおつかいに出るだけであの調子じゃ、いつかご結婚なさるときは、さぞかしの見物――…いや、その、心配事ですね」
口を滑らせてそう呟いたのだけは、やたら印象深く覚えていますーー。
さて、到着したのは、リーフリヘリオスの首都リノン近くの空港でした。
リノンは、この大きな島国リーフリヘリオスの南東辺りに位置しますが、目的地のリーランド邸は島の南西ほどにあるのだそうです。
「ここからは車で2時間程度かな」
とは、この地出身のフィリップの弁です。
空港を出ると、この島国名物の雲がちな白っぽい空が出迎えてくれました。
「まぁ、空気が違いますね。しとっとしているといいますかーー…」
カタリナが驚いたように薄青い目を瞠りました。確かに、肌に触れる空気がふわっと湿り気を帯びて優しいのです。
「…ロイシュライゼに来たときも、空が青くないのに驚きましたが」
ロサルヴァも空をしげしげと見上げて呟きました。
リーフリヘリオスの本日の空の色は、彼女たちの目のような薄い水色。ロイシュライゼのそれよりも、もう少し明度と彩度を落とした、煙るような薄い青です。
「これでも今日は青い方ですよ?」
並び立ったフィリップも空を見上げながら応じます。カタリナとロサルヴァは空を見上げて動きません。南国のマルレキア出身の彼女たちには、この白っぽい空の色すら感慨深く感じられるようです。
「ーーいつか、マルレキアの青い空というのを見てみたいわ」
私も3人の傍らに並んで同じように空を見上げ、リーフリヘリオスよりもロイシュライゼよりも濃いという、マルレキアの空の青を見てみたいと願うのでした。
私たちがそれぞれの感慨に耽りながらミーアキャットの集団のごとく空を見上げているところへ、
「…あの、お取り込み中失礼致します」
控えめな声が上がりました。一応、公用語でしたが、少し訛りを感じます。見ると、この国の空のように灰色っぽいお仕着せに身を包んだ男性が立っていて、彼は申し訳なさそうにこう続けたのでした。
「ファルツフェルド伯爵令嬢のご一行でいらっしゃるようにお見受けします。リーランドからお迎えに上がりましたーー」
リーランド邸までは、フィリップの言うとおり、2時間程度の道のりでした。
私たちは、道中、車の窓を開け放し、緑豊かなこの島国の柔らかな空気を享受しました。
「リーフリヘリオスの空気はいつ来ても気持ちがいいわね」
わずかに湿り気を含んだそよ風を頬に受けながら私がそう呟くと、
「? 以前にいらしたことがあるんですか?」
カタリナが小首を傾げてそう聞きました。
「ええ」
私が頷いたのを引き受けて、
「リーフリヘリオスには、ファルケンブルク一族の所縁の方々が多くお住まいですもんね」
フィリップが訳知り顔で言いました。
事実、このリーフリヘリオスには、私に近しい方々の所領や住まいが多くありました。
私の祖父の弟、先日亡くなられたパウル大叔父様のブランレクス伯爵領はこの島の西方に、その孫のオークハイムのライノールトが継承したダンウィック伯爵領はこの島の北方、祖父の妹、まだまだ健在でいらっしゃるヘレナ大叔母様はロラント侯爵に嫁がれて、このリーフリヘリオスの中程にお住まいだし、私の義姉、次兄フォルカーの妻バーバラも、ペキーシュランといってこの島国の北の果てに所領のある男爵家の出身です。
そんなことを話している内に、私たちを乗せた車は幾つかの町を走り抜け、大きな街道を逸れた先、木漏れ日が注ぐお伽話のように可愛らしい森の中を通り抜けて、白っぽい石畳に覆われた私道と思しき場所に差し掛かりーー…その石畳の遙か先、そろそろリーランド邸が見えてきた気配でした。
優雅で複雑な文様を描く大きな古びた青銅製の門扉の前に、男性と女性が佇んでいました。
どこか見覚えのあるようなお顔立ちの、灰がかった金髪をした細身の紳士は物静かな眼差しでこちらを見据え、見るからに柔和な雰囲気を纏った蜜色の髪の女性の方は陽だまりのごとく穏やかな笑みを刷いて、どうやら揃って私たちを出迎えてくれている雰囲気。
(もしかしてーー)
私の心臓が高鳴りました。もしかすると、この方々はーー
予想が正しければ想定外のあまりに丁寧な歓待に、私が慌てて車から降りると、
「リリヤナ様ーーようこそ、いらっしゃいました」
紳士は混乱のあまり挨拶の言葉に詰まる私の手を優雅に取り上げると、重々しい声でこう告げたのです。
「私はジェイムス・オブ・リーランド。このリーランド伯爵家の当主です」
(やっぱりーー…!)
「まぁ…ロード・リーランド。その、ご丁寧に。それから、この度は、急な申し出をご承諾頂きまして、どうもありがとう存じます……」
とても不器用に挨拶の言葉を述べる私に、
「リリヤナ様、お目にかかれて光栄に存じます。ーー妻のルシンダと申します」
助け船を出すように、リーランド伯爵の隣で可愛らしい花束を抱えて佇んでいた女性が声を掛けてくれました。
「レディ・リーランド、こちらこそ、お目にかかれて嬉しいです。エリックからお話はかねがね…」
「まぁ、あの子ったら私のどんな噂をしているのでしょう」
ルシンダと名乗った伯爵夫人は茶目っ気たっぷりに目を瞬かせて、こう続けました。
「私も、あの子からリリヤナ様について伺う機会がございました。花がお好きだと伺いまして」
言いながらにこやかに差し出された可憐な花束に、思わず私の頬が緩みました。
「お屋敷のお庭のお花ですか」
薄青のネモフィラ、背の低い原種の桃色のチューリップ、泡のようにふわふわと白いかすみ草、ポンポン咲きのクリーム色の小さな薔薇ーーまるで、春を詰め込んだような可愛らしい小さなブーケでした。
「ええ、そうです。すべて庭の花でーーどうぞ、後で庭をご覧になってください。ご案内致します。ですが、今はとりあえずお部屋へ。遠路をお越し頂いたのですもの、お疲れでしょう」
促されて、私は小さな花束を抱えて車に戻りました。
貴族の屋敷というのは、どこでも同じだと思いますが、門扉から屋敷の正面玄関までが恐ろしく遠いのです。
車が正面玄関を指して走る間、手に抱えた花束の中のミニバラの仄かな香りが、突然の当主夫妻との対面に動揺しきった私の心をゆるゆると解いてくれたのでした。
リーランドのお屋敷は、石造りの由緒ありげな古い城館でした。
それ自体は、この帝国の貴族の館としては珍しくもないものですが、目を引いたのは、屋敷の壁面の色でした。建材として使われていたのは、錆色というのでしょうか、ところどころ灰の混じった赤茶色の石で、それは私の暮らすロイシュライゼでは見慣れないものでした。そこへ樹齢100年にはなろうかという緑の葉を茂らせた藤が、淡い色の葡萄が滴るかのごとく房を垂らして屋敷の壁一面に絡みついているものですから、それはもう見事な眺めで、車の中の面々は揃って感嘆の溜息を漏らしたのでした。
絵画のような藤と城館の光景にすっかり心を奪われている間に車は正面玄関に到着しました。
そこには、先ほどお会いしたリーランド伯爵をそのまま若返らせたような長身痩躯の青年が、生真面目な顔をして、両手を背後に組んで佇んでいました。隣には、私とさほど年の変わらぬと見える、キラキラした金髪の綺麗な女性が大きなお腹に手を添えてにこにこと立っていて、その二人の間には、小さな女の子が二人、ちょこんと手を繋いで立っています。3歳くらいでしょうか、少し年嵩の子の方は薄水色の小花柄のワンピース、まだ赤ちゃんといえるほど小さな子の方は薄桃色の小花柄のワンピースで、色違いのお揃いを着せられているところを見ると、きっと姉妹なのでしょう。
私が内心の緊張を押し隠しながらフィリップに伴われて車を降りていくと、
「ようこそ、リーランドへいらっしゃいました。ヴィンセント・オブ・リーランドです」
生真面目な顔をした青年はそう自己紹介しました。なるほど、どうやら彼はこのリーランド伯爵家の法定相続人ーーご長男でいらっしゃるようです。言われてみれば、ファルケンブルク邸内にある軍の支局に勤めるルイス・オブ・リーランドに、面差しや骨格がよく似ています。ルイスの方がロード・ヴィンセントより少し女性的な印象のする柔和な美貌ですが。
そんなことを考えていると、ロード・ヴィンセントは隣の女性を指し示し、
「妻のシャーロットです」
「お目にかかれて光栄に存じます、リリヤナ様」
シャーロットと呼ばれたプラチナブロンドの若夫人は、にこにこと人懐こい笑みを浮かべて小腰を屈めました。そして優しい視線を下方を向け、
「娘たちです。オリヴィアとモニカといいます」
釣られて目を向けると、小さな女の子たちの真っ直ぐな水色の視線が私を射貫きました。
「まぁ、こんにちは。オリヴィア、モニカ」
私はちょっと慌てて身を屈め、小さなレディたちに目線に合わせて挨拶をすると、リーランドの次期相続人夫妻に向き直りました。
「お目にかかれて嬉しいです、ロード・ヴィンセント、レディ・シャーロット。この度は、急な申し出をご承諾頂いて、どうもありがとう存じます。今日は従兄たちの代理で参りました」
「エトガル殿とマティアス殿はご壮健ですか」
「ええ、とても」
にこやかな笑みを刷いてそつなく応対しているように見せかけて、私は内心何を話したらよいものか、大混乱です。
「…城館の壁を這う藤が美事ですね」
「ありがとうございます。毎年見事に花を咲かせますが、今年は常にも勝って盛りの様子です」
「まぁ、それでは私は良いときに伺うことができましたのね」
微笑みながら、私は気になっていたことを訊いてみました。
「あの、こちらの石壁は、あまりロイシュライゼでは見かけない不思議な色ですけど…」
「これですか」
ロード・ヴィンセントは正面玄関の壁面を振り仰いで、
「これはこの地方で産出する石で、カンニッシュストーンといいます」
「素敵な風合いの石ですね」
儀礼的な微笑みを交わしてしまうと、いよいよ話題がなくなりました。
「どうぞ中へ、お部屋にご案内致しましょう。遠路をお越しでお疲れになられたでしょう?」
レディ・シャーロットが親しみ深い笑みを崩さぬまま促して下さったのを機に、私たちはどうにか玄関先での挨拶合戦を終えることができたのでした。
案内された部屋は、くすんだサーモンピンクの壁紙を基調とした、居心地の良い部屋でした。見渡す限り、家具はすべて飴色の木材で統一されていて、ふと視線を上げると、漆喰で塗装された天井には、なんでしょう、何かレリーフが彫られています。
「素敵なお部屋ですね。ーーこれもお庭のお花かしら」
飴色のサイドテーブルを飾る青灰色の陶器の花瓶には、クリーム色の大輪の薔薇と垂れた藤が豪奢に活けられていました。
「ありがとうございます。ーーええ、庭のものです」
レディ・シャーロットはにこやかに頷いて、
「もしそれほどお疲れじゃありませんでしたら、後に、サルーンでのお茶にお招きしてもよろしゅうございますか?」
小首を傾げてそんなことを仰るので、
「まぁ、ありがとうございます。喜んで」
私はそう答えるしかなくなってしまったのでした。
「よかった。ーースールバランのお嬢様たちや、スィンフォードの若君も、是非ご一緒にいらしてくださいね」
そう告げてレディ・シャーロットは退室し、扉がパタンと閉まると同時、私が盛大に溜息を吐いたのは言うまでもありません。
やれやれ、と、腕を伸ばして凝りを解しながら窓辺へ近づくと、そこには夢のような情景が広がっていました。
「うわぁーー…!」
柔らかく注ぐ春の陽差しの下、薄青い空を背景に、緑の木々が天に届けとばかり枝を大きく広げています。その下では、様々な色と種類の草花が、まるで丹念に刺繍を施した絨毯のように小道の両脇を彩っていて、道を横切って流れる小川はチラチラと煌めい周囲に小さな光を投げかけています。小川に渡した木橋の傍らには柳が植えられ、細長い枝が微風にゆらゆらと揺れる様が優雅でした。奥に見える大きな茂みはどうやら薔薇のようで、ファルケンブルクの屋敷ではあまり見かけなかった優しく仄かな桃色の薔薇がポツポツと咲いていて、本当に、水彩画にしてずっと見ていたいくらいの、それはそれは美しい風景でありました。
どのくらいの時間、この夢のような情景を眺めていたのでしょう、すっかり魅入られて窓の前を動けずにいると、背後でノックの音がしました。
「どうぞ」
我に返り、慌てて振り返ると、そこにはフィリップを先頭に、カタリナとロサルヴァが立っていたのでした――…。
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心配性な従兄たちの計らいで、私たち4人はロイシュライゼの民間の空港からでなく、軍のエアポートから専用機で発つことになりました。
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マティアスが大いなる海の如き慈愛を湛えた深い青い瞳で私を覗き込みながら言いました。
いざ出発となると、本来の目的である薔薇のことなど口の端にも上らず、私を気遣う言葉ばかりなのが、私を溺愛する従兄たちらしいといえばらしいのでした。
「それでは行って参ります。エトガル、マティアス」
ここ数日の内にすっかり覚悟の決まった私が微笑んでそう告げると、あべこべに、従兄たちの方が如何にも心配そうな、切なそうな表情で、代わる代わる私を思い切り腕の中に抱きしめるものですから、中々出発に至らず、傍に控えているカタリナとロサルヴァ、フィリップの3人は限りなく微妙な面持ち――を、かみ殺して神妙な表情を装い、この美しい別れのシーンを生ぬるく見守っているのでありました。
後ろ髪引かれる様子の従兄たちをどうにか振り切ってやっと専用機に搭乗し、離陸してしまえば、フライトそのものは、ほんの2時間弱。
楽しくお喋りしてる内にもう着陸態勢に入っているーーといった感覚で、本当にあっという間でした。
初めての長旅に浮き立つ心を抑えきれぬまま、止めどなくお喋りした中で、フィリップが、
「…お従兄さま方、リリヤナ様がちょっとおつかいに出るだけであの調子じゃ、いつかご結婚なさるときは、さぞかしの見物――…いや、その、心配事ですね」
口を滑らせてそう呟いたのだけは、やたら印象深く覚えていますーー。
さて、到着したのは、リーフリヘリオスの首都リノン近くの空港でした。
リノンは、この大きな島国リーフリヘリオスの南東辺りに位置しますが、目的地のリーランド邸は島の南西ほどにあるのだそうです。
「ここからは車で2時間程度かな」
とは、この地出身のフィリップの弁です。
空港を出ると、この島国名物の雲がちな白っぽい空が出迎えてくれました。
「まぁ、空気が違いますね。しとっとしているといいますかーー…」
カタリナが驚いたように薄青い目を瞠りました。確かに、肌に触れる空気がふわっと湿り気を帯びて優しいのです。
「…ロイシュライゼに来たときも、空が青くないのに驚きましたが」
ロサルヴァも空をしげしげと見上げて呟きました。
リーフリヘリオスの本日の空の色は、彼女たちの目のような薄い水色。ロイシュライゼのそれよりも、もう少し明度と彩度を落とした、煙るような薄い青です。
「これでも今日は青い方ですよ?」
並び立ったフィリップも空を見上げながら応じます。カタリナとロサルヴァは空を見上げて動きません。南国のマルレキア出身の彼女たちには、この白っぽい空の色すら感慨深く感じられるようです。
「ーーいつか、マルレキアの青い空というのを見てみたいわ」
私も3人の傍らに並んで同じように空を見上げ、リーフリヘリオスよりもロイシュライゼよりも濃いという、マルレキアの空の青を見てみたいと願うのでした。
私たちがそれぞれの感慨に耽りながらミーアキャットの集団のごとく空を見上げているところへ、
「…あの、お取り込み中失礼致します」
控えめな声が上がりました。一応、公用語でしたが、少し訛りを感じます。見ると、この国の空のように灰色っぽいお仕着せに身を包んだ男性が立っていて、彼は申し訳なさそうにこう続けたのでした。
「ファルツフェルド伯爵令嬢のご一行でいらっしゃるようにお見受けします。リーランドからお迎えに上がりましたーー」
リーランド邸までは、フィリップの言うとおり、2時間程度の道のりでした。
私たちは、道中、車の窓を開け放し、緑豊かなこの島国の柔らかな空気を享受しました。
「リーフリヘリオスの空気はいつ来ても気持ちがいいわね」
わずかに湿り気を含んだそよ風を頬に受けながら私がそう呟くと、
「? 以前にいらしたことがあるんですか?」
カタリナが小首を傾げてそう聞きました。
「ええ」
私が頷いたのを引き受けて、
「リーフリヘリオスには、ファルケンブルク一族の所縁の方々が多くお住まいですもんね」
フィリップが訳知り顔で言いました。
事実、このリーフリヘリオスには、私に近しい方々の所領や住まいが多くありました。
私の祖父の弟、先日亡くなられたパウル大叔父様のブランレクス伯爵領はこの島の西方に、その孫のオークハイムのライノールトが継承したダンウィック伯爵領はこの島の北方、祖父の妹、まだまだ健在でいらっしゃるヘレナ大叔母様はロラント侯爵に嫁がれて、このリーフリヘリオスの中程にお住まいだし、私の義姉、次兄フォルカーの妻バーバラも、ペキーシュランといってこの島国の北の果てに所領のある男爵家の出身です。
そんなことを話している内に、私たちを乗せた車は幾つかの町を走り抜け、大きな街道を逸れた先、木漏れ日が注ぐお伽話のように可愛らしい森の中を通り抜けて、白っぽい石畳に覆われた私道と思しき場所に差し掛かりーー…その石畳の遙か先、そろそろリーランド邸が見えてきた気配でした。
優雅で複雑な文様を描く大きな古びた青銅製の門扉の前に、男性と女性が佇んでいました。
どこか見覚えのあるようなお顔立ちの、灰がかった金髪をした細身の紳士は物静かな眼差しでこちらを見据え、見るからに柔和な雰囲気を纏った蜜色の髪の女性の方は陽だまりのごとく穏やかな笑みを刷いて、どうやら揃って私たちを出迎えてくれている雰囲気。
(もしかしてーー)
私の心臓が高鳴りました。もしかすると、この方々はーー
予想が正しければ想定外のあまりに丁寧な歓待に、私が慌てて車から降りると、
「リリヤナ様ーーようこそ、いらっしゃいました」
紳士は混乱のあまり挨拶の言葉に詰まる私の手を優雅に取り上げると、重々しい声でこう告げたのです。
「私はジェイムス・オブ・リーランド。このリーランド伯爵家の当主です」
(やっぱりーー…!)
「まぁ…ロード・リーランド。その、ご丁寧に。それから、この度は、急な申し出をご承諾頂きまして、どうもありがとう存じます……」
とても不器用に挨拶の言葉を述べる私に、
「リリヤナ様、お目にかかれて光栄に存じます。ーー妻のルシンダと申します」
助け船を出すように、リーランド伯爵の隣で可愛らしい花束を抱えて佇んでいた女性が声を掛けてくれました。
「レディ・リーランド、こちらこそ、お目にかかれて嬉しいです。エリックからお話はかねがね…」
「まぁ、あの子ったら私のどんな噂をしているのでしょう」
ルシンダと名乗った伯爵夫人は茶目っ気たっぷりに目を瞬かせて、こう続けました。
「私も、あの子からリリヤナ様について伺う機会がございました。花がお好きだと伺いまして」
言いながらにこやかに差し出された可憐な花束に、思わず私の頬が緩みました。
「お屋敷のお庭のお花ですか」
薄青のネモフィラ、背の低い原種の桃色のチューリップ、泡のようにふわふわと白いかすみ草、ポンポン咲きのクリーム色の小さな薔薇ーーまるで、春を詰め込んだような可愛らしい小さなブーケでした。
「ええ、そうです。すべて庭の花でーーどうぞ、後で庭をご覧になってください。ご案内致します。ですが、今はとりあえずお部屋へ。遠路をお越し頂いたのですもの、お疲れでしょう」
促されて、私は小さな花束を抱えて車に戻りました。
貴族の屋敷というのは、どこでも同じだと思いますが、門扉から屋敷の正面玄関までが恐ろしく遠いのです。
車が正面玄関を指して走る間、手に抱えた花束の中のミニバラの仄かな香りが、突然の当主夫妻との対面に動揺しきった私の心をゆるゆると解いてくれたのでした。
リーランドのお屋敷は、石造りの由緒ありげな古い城館でした。
それ自体は、この帝国の貴族の館としては珍しくもないものですが、目を引いたのは、屋敷の壁面の色でした。建材として使われていたのは、錆色というのでしょうか、ところどころ灰の混じった赤茶色の石で、それは私の暮らすロイシュライゼでは見慣れないものでした。そこへ樹齢100年にはなろうかという緑の葉を茂らせた藤が、淡い色の葡萄が滴るかのごとく房を垂らして屋敷の壁一面に絡みついているものですから、それはもう見事な眺めで、車の中の面々は揃って感嘆の溜息を漏らしたのでした。
絵画のような藤と城館の光景にすっかり心を奪われている間に車は正面玄関に到着しました。
そこには、先ほどお会いしたリーランド伯爵をそのまま若返らせたような長身痩躯の青年が、生真面目な顔をして、両手を背後に組んで佇んでいました。隣には、私とさほど年の変わらぬと見える、キラキラした金髪の綺麗な女性が大きなお腹に手を添えてにこにこと立っていて、その二人の間には、小さな女の子が二人、ちょこんと手を繋いで立っています。3歳くらいでしょうか、少し年嵩の子の方は薄水色の小花柄のワンピース、まだ赤ちゃんといえるほど小さな子の方は薄桃色の小花柄のワンピースで、色違いのお揃いを着せられているところを見ると、きっと姉妹なのでしょう。
私が内心の緊張を押し隠しながらフィリップに伴われて車を降りていくと、
「ようこそ、リーランドへいらっしゃいました。ヴィンセント・オブ・リーランドです」
生真面目な顔をした青年はそう自己紹介しました。なるほど、どうやら彼はこのリーランド伯爵家の法定相続人ーーご長男でいらっしゃるようです。言われてみれば、ファルケンブルク邸内にある軍の支局に勤めるルイス・オブ・リーランドに、面差しや骨格がよく似ています。ルイスの方がロード・ヴィンセントより少し女性的な印象のする柔和な美貌ですが。
そんなことを考えていると、ロード・ヴィンセントは隣の女性を指し示し、
「妻のシャーロットです」
「お目にかかれて光栄に存じます、リリヤナ様」
シャーロットと呼ばれたプラチナブロンドの若夫人は、にこにこと人懐こい笑みを浮かべて小腰を屈めました。そして優しい視線を下方を向け、
「娘たちです。オリヴィアとモニカといいます」
釣られて目を向けると、小さな女の子たちの真っ直ぐな水色の視線が私を射貫きました。
「まぁ、こんにちは。オリヴィア、モニカ」
私はちょっと慌てて身を屈め、小さなレディたちに目線に合わせて挨拶をすると、リーランドの次期相続人夫妻に向き直りました。
「お目にかかれて嬉しいです、ロード・ヴィンセント、レディ・シャーロット。この度は、急な申し出をご承諾頂いて、どうもありがとう存じます。今日は従兄たちの代理で参りました」
「エトガル殿とマティアス殿はご壮健ですか」
「ええ、とても」
にこやかな笑みを刷いてそつなく応対しているように見せかけて、私は内心何を話したらよいものか、大混乱です。
「…城館の壁を這う藤が美事ですね」
「ありがとうございます。毎年見事に花を咲かせますが、今年は常にも勝って盛りの様子です」
「まぁ、それでは私は良いときに伺うことができましたのね」
微笑みながら、私は気になっていたことを訊いてみました。
「あの、こちらの石壁は、あまりロイシュライゼでは見かけない不思議な色ですけど…」
「これですか」
ロード・ヴィンセントは正面玄関の壁面を振り仰いで、
「これはこの地方で産出する石で、カンニッシュストーンといいます」
「素敵な風合いの石ですね」
儀礼的な微笑みを交わしてしまうと、いよいよ話題がなくなりました。
「どうぞ中へ、お部屋にご案内致しましょう。遠路をお越しでお疲れになられたでしょう?」
レディ・シャーロットが親しみ深い笑みを崩さぬまま促して下さったのを機に、私たちはどうにか玄関先での挨拶合戦を終えることができたのでした。
案内された部屋は、くすんだサーモンピンクの壁紙を基調とした、居心地の良い部屋でした。見渡す限り、家具はすべて飴色の木材で統一されていて、ふと視線を上げると、漆喰で塗装された天井には、なんでしょう、何かレリーフが彫られています。
「素敵なお部屋ですね。ーーこれもお庭のお花かしら」
飴色のサイドテーブルを飾る青灰色の陶器の花瓶には、クリーム色の大輪の薔薇と垂れた藤が豪奢に活けられていました。
「ありがとうございます。ーーええ、庭のものです」
レディ・シャーロットはにこやかに頷いて、
「もしそれほどお疲れじゃありませんでしたら、後に、サルーンでのお茶にお招きしてもよろしゅうございますか?」
小首を傾げてそんなことを仰るので、
「まぁ、ありがとうございます。喜んで」
私はそう答えるしかなくなってしまったのでした。
「よかった。ーースールバランのお嬢様たちや、スィンフォードの若君も、是非ご一緒にいらしてくださいね」
そう告げてレディ・シャーロットは退室し、扉がパタンと閉まると同時、私が盛大に溜息を吐いたのは言うまでもありません。
やれやれ、と、腕を伸ばして凝りを解しながら窓辺へ近づくと、そこには夢のような情景が広がっていました。
「うわぁーー…!」
柔らかく注ぐ春の陽差しの下、薄青い空を背景に、緑の木々が天に届けとばかり枝を大きく広げています。その下では、様々な色と種類の草花が、まるで丹念に刺繍を施した絨毯のように小道の両脇を彩っていて、道を横切って流れる小川はチラチラと煌めい周囲に小さな光を投げかけています。小川に渡した木橋の傍らには柳が植えられ、細長い枝が微風にゆらゆらと揺れる様が優雅でした。奥に見える大きな茂みはどうやら薔薇のようで、ファルケンブルクの屋敷ではあまり見かけなかった優しく仄かな桃色の薔薇がポツポツと咲いていて、本当に、水彩画にしてずっと見ていたいくらいの、それはそれは美しい風景でありました。
どのくらいの時間、この夢のような情景を眺めていたのでしょう、すっかり魅入られて窓の前を動けずにいると、背後でノックの音がしました。
「どうぞ」
我に返り、慌てて振り返ると、そこにはフィリップを先頭に、カタリナとロサルヴァが立っていたのでした――…。