ことの始まりは、朝食の席での何気ない会話でした。
「おはよう、リリ。今日も良い天気だね。外を見てごらん、見事な青空だ――!」
朝食室の扉に姿を現した私に朗らかな朝の挨拶を寄越したのは、従兄でファルケンブルク一門の当主であるエトガルでした。私より16歳年長のこの従兄は、現在34歳の男盛り。長身を窓から乗り出すようにして空を眺めています。朝の陽光を反射してエトガルの綺麗なブロンドがキラキラと瞬いていました。
「おはようございます、エトガル。本当に、素敵な天気ですね」
私は挨拶を返すと、窓辺に立つエトガルの隣に並んで朝の庭を見遣りました。
一面の青を背景に白い雲が微かに棚引いて面白い模様を作り出している空の下、朝露に濡れた庭の緑が生き生きと輝いていました。花々は春の柔らかい太陽の光を享受しようとしっかり頭をもたげています。――生命の息吹に満ちた、気持ちの良い朝でした。
「そろそろ薔薇も咲きそうな気配だ」
「楽しみですね」
上機嫌のエトガルに微笑んで頷く私の背後から、
「おはよう、リリ。お茶が入ったよ。今朝のは矢車菊入りだ」
良い香りを漂わせるティーポットを抱えて覗き込んだのはマティアス。エトガルの双子の弟で、こちらも私の従兄です。片割れよりもかなり大柄で、マティアスの手に掛かるとティーポットは玩具のように小さく見えました。
「おはようございます、マティアス。とても良い香り――」
「ベルガモットの香りかな。矢車菊そのものには殆ど香りはないからね。色はとても綺麗なんだが――さ、2人とも席に着いて。冷めない内に食べよう」
甲斐甲斐しくティーカップにお茶を注ぐマティアスに促されて、私たちは席に着きました。
「――庭の薔薇なんだが。今年も新しい品種をいくつか増やしたいと思っている」
優雅にオムレツを切り分けながらエトガルがそう切り出しました。
「いいんじゃないかな。――でもまた紅薔薇かい?」
マティアスがちょっぴり微笑して聞きます。
趣味嗜好が「華麗」に尽きるこの双子の片割れが、昨年の春、凝りに凝って紅い薔薇を何百種と集めたことを揶揄しているのです。
双子の父親、先代のアーダルベルト伯父も薔薇を殊の外お好みだったとかで、ファルケンブルクのこの屋敷は薔薇の園として有名なのですが、それに輪をかけてエトガルが紅い薔薇ばかり植えさせたもので、正直なところ、「紅」は、視覚的にもう飽和状態でした。
自覚があるのか、エトガルも咳払い一つして答えます。
「もちろん、紅もいいが――。今年はもっと変化が欲しい。色の希望はあるか?」
マティアスと私は顔を見合わせました。
「そうだな…。淡いピンクなんか綺麗だと思うけど、でも淡いピンクの薔薇も既にたくさん植えられているしね」
こちらの従兄の方は、その片割れとは違って、実に可憐な趣味嗜好の持ち主でありました。
「では濃いピンクか」
「どうかな…――白、とか」
「白といっても色々あるが。何か目新しい色を植えたいところだな」
「目新しいとか言い出したら、青い薔薇しかなくなってしまうよ…」
いまいち好みが噛み合わない双子は困ったように私に視線を移して、
「リリは何色がいいと思う?」
「何か目新しい色の薔薇を知らないか?」
揃っててんでばらばらのことを尋ねるもので、私もちょっと困ってしまいました。
「そうですね――…一口に何色と申しましても、ピンクにしても色味も様々ですし、咲き方の好みなどもありますし」
言葉を濁しながら、私はふと、先日聞いたばかりの話を思い出しました。
「そういえば…ルイス・オブ・リーランドの弟をご存じですか?」
ルイス・オブ・リーランドとは、このファルケンブルク邸内に設置された軍の支局に勤務している軍人さんの一人です。
「ルイスの弟かい? 確かヘンリーとかいう…」
「あ、いえ。そちらではなく、末のエリックという人です。『中央』の基地の研究所にお勤めで、植物の交配などもするそうで…」
「ほう!」
エトガルの青い瞳がきらりと輝きました。
「先日ルイスから聞いたのですけれど、エリックが新しい薔薇を作り出したのだとか…」
「それはどんな薔薇なんだい?」
マティアスも興味津々といった様子で身を乗り出しました。
「ええと…確か『光』をイメージした薔薇と聞いています」
「光か。――黄色かな」
「短絡的だな。白かもしれないよ」
「私も実際に見たわけではないので色まではちょっと分からないのですけれど」
私は慌てて付け加えました。
「ふむ。その薔薇、『中央』の研究所に行けば苗があるのか?」
エトガルの質問に私は首を横に振りました。
「いいえ、それが…その薔薇は研究所で作ったのではなくて、リーフリヘリオスのリーランド家の温室で、エリックが個人的に作ったのものなのだそうです」
「ふむ…」
エトガルは顎に手を添えて、何事か思案気な様子でした。
数十秒の沈黙の後、
「その薔薇が欲しい」
エトガルは決然とした面持ちでそう宣いました。マティアスはまた始まった…とばかりに隣で頭を抱えています。
「えっと…エリックに頼んでみましょうか?」
「是非そうしてくれ。ただし――」
エトガルは徐に私の瞳を覗き込みました。
「もし分けてくれるという返事の場合、いいかい、リリ、きみがリーフリヘリオスのリーランド家まで、その薔薇を受け取りに行くんだ」
「えっ…」
唐突におつかいを申し渡されて、私は言葉を失いました。
いくら私がリーランド家の三男のルイスや五男のエリックと親しいとはいっても、それは彼らがここロイシュライゼで働いているからで、二人のご実家の人々を存じているわけではありません。
加えて、リーフリヘリオスは海を越えた先の島国。
私は帝国内はおろか、ここロイシュライゼの内ですら、あまり一人で出歩いた経験はありませんでした。
そもそもが人見知りの気質で、知り合いも少ないので、訪問するような家や場所もないのです。
(どうしましょう…)
今や完全に藪蛇となった申し出を後悔していると、
「リーランド家の温室にあるものをこちらに送って寄越せというのは、あまりに横柄だから、そうするしかないね」
常識人のマティアスが同情を滲ませた声ながら、諭すような調子で言いました。
私は返す言葉もありません。
「まぁエリックの返事が先だ」
言葉ばかりはマティアスに同調して私を宥めるような調子でしたが、全くもって〈目新しい〉薔薇への期待を隠せていないエトガルは、うきうきとナイフとフォークを翻してオムレツを平らげました。
(返事が先とは言いますけど…)
まず間違いなくエリックは――いえ、リーランド家は、ファルケンブルク家の頼み事を断らないでしょう。
私は諦念混じりに小さく嘆息しました。
覚悟を決めるしかなさそうです。
ただ一つ、この唐突な「おつかい」に喜ばしい点があるとしたら――実のところ、私もかなり気になっている〈光〉の薔薇とやらを、実際にこの目で見られるかもしれない、ということでした。