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大人なんだから

ー/ー



 期末テストの最後の科目が終わって、固まっていた背中を思い切り伸ばした。

 と。
 教室のドアのから顔をのぞかせた、女帝こと数学教師の磯部とバッチリ目が合った。
 あ、いたいた、と言って妙に優しげな笑顔で盟子に手招きする。

「梅崎ー! 聞きたいことがあるのよ。テスト後に悪いんだけど、ちょっと来てくれる?」
「あ、はい」
 盟子は慌てて立ち上がった。
 
 聞きたいこと?
 何だろう、全く心当たりがない。
 生徒指導という立場上いつも何かと叫んでいる磯部だけれど、指導の必要がない真面目で地味な盟子のような生徒とは、授業以外の接点がない。

……ってことはもしやテストのこと!?

 数学、そんなにできてなかっただろうか。
 いや、でも個別で呼び出される程とは思えない。

 肉厚な背中の数歩後ろをついて行きながら、可能性をあれこれ考える。

 3階の理科室Ⅰに人がいないのを確認して、磯部はそこに盟子を通した。
 なんだか雰囲気が変。
 一連の仕草に妙なキナ臭さを感じ取って、きゅっと身を引き締める。

「ごめんね、そりゃ私だって梅崎はすっごく真面目ないい子だって解ってるの。二倍角はよくできてたわよ」

 磯部はやけに明るく優しげな、しかし一切口を挟む隙を与えない調子で話し始めた。
「しまった、言っちゃった。テストの結果はまだ内緒」
「ありがとうございます。結構頑張ったので……」
 何かの前振りだったらしい話題に正直に応じると、そうよねそうよねと磯部は大げさに頷いた。

「真面目にやってるかどうかっていうのはね、ちゃあんと解るものなのよ。でもね、やっぱり見たって言う人がいるから確認しなきゃいけないのよね、生徒指導としては」
「はぁ?」
「間違いがあってからでは遅いからさ。だからちょっと教えてほしいの」
 本題はここかららしい。

 言うほど無茶苦茶な人ではない。
 真面目な生徒への対応は細やかで誠実だし、数学教師らしく理論的で冷静な一面がある。女帝とは言っても決して暴君ではない。
 その磯部芳江が、まるで試すようにまっすぐ盟子の瞳を見つめている。
 口紅を塗りこめた分厚い唇が開いた。

「こないださ、外で守谷先生と二人でいたって?」

 どきん。
 心臓が飛び出そうに跳ね、そこから動悸がし始めた。

「ほら、数学のテストの前の日よ。守谷先生と二人で初田神社にいたんですって?」

 「いたんですって?」というのは、磯部自身が直接見たのではないことを示す言い回しだ。
 だとすると、あの時誰かが――それも、自分たちを秋羽台高校の守谷玲峰と梅崎盟子だと知っている誰かが――どこかから疑いの目で見ていたのだろうか。
 そうしてそれを、学校に通報した、と。

「えと、その、あの、あれは……」
 盟子はすっかりパニックに陥った。
 隠すようなことでもないのに、耳が熱くて、握りしめた両手の拳に汗がにじむ。
 うまく説明する、というのが昔から苦手だった。言葉を重ねるほどに言い訳がましくなってしまうし。後で辻褄が合わなくなって疑われたりしたらものすごく困る。

……いや、盟子は困らないのだ。叱られるだけで済むだろう。
 でも玲峰先生はきっと、それじゃ済まない。

「あれはたまたま、その、私が……」
「落ち着いて梅崎。はい深呼吸。吸ってー、吐いてー。そうそう」
 磯部は落ち着かせるように両手を盟子の肩に置く。
「私も教職ついて30年、人間を育成するプロですから。嘘つく人間かどうかってことくらい解るよ。大丈夫、梅崎は嘘ついてないよね」
 口ぶりは穏やかだった。コクコク、と盟子は頷く。

「……あの日、初田神社の例大祭だったんです」
「うんうん」
「帰りにたまたま先生とバスが一緒になって。それで先生が初田神社に行きたいって言うから、案内して……」
「うんうん」
「で、先生が神楽を見たいって言うから、私も興味が湧いて一緒に……」
「うんうん、神楽、ね」
 磯部はそう言ってにこりと微笑んだ。

「ただね、やっぱり2人っていうのはよくないよね。どういう事情があろうと、どこかで誰かに見られた時に誤解を生むような行動は慎まないと。今後は気を付けるのよ」
「……はい、でも」

 登下校の時に守谷にくっついている女子なんて結構見る。南緒だってそうだし。
 ということは、つまり彼の通勤ルートである駅を超えたところで2人でいたのがまずかった、のだろうか。
 それにしたって、日曜日に2人で渋谷を歩いていたわけでもないのに、学校に通報なんて悪意を感じる。
 考えられる通報者は守谷のファンか。でも、その守谷だって叱責を受けるのに。

「……玲峰先生も叱られたんですか」
「そりゃね」
「でも、でも先生は、帰りなさいって私に言いました!」
「知ってるわよ。あんななりだけどあの子根は真面目だし、やましいことがないのは解ってるのよ。私は彼のご実家のことも知ってますからね。神楽って言われればピンとくるわ」
 訳知り顔で磯部が言う。
「玲峰先生は悪くないんです、私が帰らなかったから……!!!」

 全部盟子が悪いのだ。
 あの時、案内だけしてさっさと帰ればよかった。勝手に居残って、神楽も見に来てしまって。そのせいでこんな大迷惑をかけることになるなんて。

「違うの梅崎」
 女帝が静かに首を振る。
「本来は彼の方が気をつけなきゃいけない立場なの。大人なんだから。彼は叱られて当然です」

 悔しかった。
 悪くない守谷が注意をうけて、自分だけ許される。子供は守られて優しくされてばかりだ。
 情けなくて不甲斐なくて涙が出て、泣いてばかりな自分がまた情けない。

「あの子もまだ若いからね。脇が甘いところもあるでしょうよ。でも取り返しのつかない間違いをおかす前に叱ってやれるのは私も嬉しいの」
 磯部が微笑む。まるで生徒の一人みたいな言い方。でもその様子から、決して守谷を悪くは思っていないことが解って安心する。

「磯部先生、あの、それって誰が通報したんですか?」
 せめて名前を知りたい。その人のところにいって、丁寧に説明して誤解を解こう。盟子にできることはそれくらいだ。
「ごめんね、それは言えないの」

 申し訳なさそうに言われて、盟子は肩を落とすしかなかった。

……こうして結局また、私は何もできないんだな。


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 期末テストの最後の科目が終わって、固まっていた背中を思い切り伸ばした。
 と。
 教室のドアのから顔をのぞかせた、女帝こと数学教師の磯部とバッチリ目が合った。
 あ、いたいた、と言って妙に優しげな笑顔で盟子に手招きする。
「梅崎ー! 聞きたいことがあるのよ。テスト後に悪いんだけど、ちょっと来てくれる?」
「あ、はい」
 盟子は慌てて立ち上がった。
 聞きたいこと?
 何だろう、全く心当たりがない。
 生徒指導という立場上いつも何かと叫んでいる磯部だけれど、指導の必要がない真面目で地味な盟子のような生徒とは、授業以外の接点がない。
……ってことはもしやテストのこと!?
 数学、そんなにできてなかっただろうか。
 いや、でも個別で呼び出される程とは思えない。
 肉厚な背中の数歩後ろをついて行きながら、可能性をあれこれ考える。
 3階の理科室Ⅰに人がいないのを確認して、磯部はそこに盟子を通した。
 なんだか雰囲気が変。
 一連の仕草に妙なキナ臭さを感じ取って、きゅっと身を引き締める。
「ごめんね、そりゃ私だって梅崎はすっごく真面目ないい子だって解ってるの。二倍角はよくできてたわよ」
 磯部はやけに明るく優しげな、しかし一切口を挟む隙を与えない調子で話し始めた。
「しまった、言っちゃった。テストの結果はまだ内緒」
「ありがとうございます。結構頑張ったので……」
 何かの前振りだったらしい話題に正直に応じると、そうよねそうよねと磯部は大げさに頷いた。
「真面目にやってるかどうかっていうのはね、ちゃあんと解るものなのよ。でもね、やっぱり見たって言う人がいるから確認しなきゃいけないのよね、生徒指導としては」
「はぁ?」
「間違いがあってからでは遅いからさ。だからちょっと教えてほしいの」
 本題はここかららしい。
 言うほど無茶苦茶な人ではない。
 真面目な生徒への対応は細やかで誠実だし、数学教師らしく理論的で冷静な一面がある。女帝とは言っても決して暴君ではない。
 その磯部芳江が、まるで試すようにまっすぐ盟子の瞳を見つめている。
 口紅を塗りこめた分厚い唇が開いた。
「こないださ、外で守谷先生と二人でいたって?」
 どきん。
 心臓が飛び出そうに跳ね、そこから動悸がし始めた。
「ほら、数学のテストの前の日よ。守谷先生と二人で初田神社にいたんですって?」
 「いたんですって?」というのは、磯部自身が直接見たのではないことを示す言い回しだ。
 だとすると、あの時誰かが――それも、自分たちを秋羽台高校の守谷玲峰と梅崎盟子だと知っている誰かが――どこかから疑いの目で見ていたのだろうか。
 そうしてそれを、学校に通報した、と。
「えと、その、あの、あれは……」
 盟子はすっかりパニックに陥った。
 隠すようなことでもないのに、耳が熱くて、握りしめた両手の拳に汗がにじむ。
 うまく説明する、というのが昔から苦手だった。言葉を重ねるほどに言い訳がましくなってしまうし。後で辻褄が合わなくなって疑われたりしたらものすごく困る。
……いや、盟子は困らないのだ。叱られるだけで済むだろう。
 でも玲峰先生はきっと、それじゃ済まない。
「あれはたまたま、その、私が……」
「落ち着いて梅崎。はい深呼吸。吸ってー、吐いてー。そうそう」
 磯部は落ち着かせるように両手を盟子の肩に置く。
「私も教職ついて30年、人間を育成するプロですから。嘘つく人間かどうかってことくらい解るよ。大丈夫、梅崎は嘘ついてないよね」
 口ぶりは穏やかだった。コクコク、と盟子は頷く。
「……あの日、初田神社の例大祭だったんです」
「うんうん」
「帰りにたまたま先生とバスが一緒になって。それで先生が初田神社に行きたいって言うから、案内して……」
「うんうん」
「で、先生が神楽を見たいって言うから、私も興味が湧いて一緒に……」
「うんうん、神楽、ね」
 磯部はそう言ってにこりと微笑んだ。
「ただね、やっぱり2人っていうのはよくないよね。どういう事情があろうと、どこかで誰かに見られた時に誤解を生むような行動は慎まないと。今後は気を付けるのよ」
「……はい、でも」
 登下校の時に守谷にくっついている女子なんて結構見る。南緒だってそうだし。
 ということは、つまり彼の通勤ルートである駅を超えたところで2人でいたのがまずかった、のだろうか。
 それにしたって、日曜日に2人で渋谷を歩いていたわけでもないのに、学校に通報なんて悪意を感じる。
 考えられる通報者は守谷のファンか。でも、その守谷だって叱責を受けるのに。
「……玲峰先生も叱られたんですか」
「そりゃね」
「でも、でも先生は、帰りなさいって私に言いました!」
「知ってるわよ。あんななりだけどあの子根は真面目だし、やましいことがないのは解ってるのよ。私は彼のご実家のことも知ってますからね。神楽って言われればピンとくるわ」
 訳知り顔で磯部が言う。
「玲峰先生は悪くないんです、私が帰らなかったから……!!!」
 全部盟子が悪いのだ。
 あの時、案内だけしてさっさと帰ればよかった。勝手に居残って、神楽も見に来てしまって。そのせいでこんな大迷惑をかけることになるなんて。
「違うの梅崎」
 女帝が静かに首を振る。
「本来は彼の方が気をつけなきゃいけない立場なの。大人なんだから。彼は叱られて当然です」
 悔しかった。
 悪くない守谷が注意をうけて、自分だけ許される。子供は守られて優しくされてばかりだ。
 情けなくて不甲斐なくて涙が出て、泣いてばかりな自分がまた情けない。
「あの子もまだ若いからね。脇が甘いところもあるでしょうよ。でも取り返しのつかない間違いをおかす前に叱ってやれるのは私も嬉しいの」
 磯部が微笑む。まるで生徒の一人みたいな言い方。でもその様子から、決して守谷を悪くは思っていないことが解って安心する。
「磯部先生、あの、それって誰が通報したんですか?」
 せめて名前を知りたい。その人のところにいって、丁寧に説明して誤解を解こう。盟子にできることはそれくらいだ。
「ごめんね、それは言えないの」
 申し訳なさそうに言われて、盟子は肩を落とすしかなかった。
……こうして結局また、私は何もできないんだな。