天孫降臨
ー/ー 余裕をもって、上演開始15分前には初田神社に着いた。
普段だったらこんな時間に参拝するのは怖いくらいなのに、今はまるで別世界だ。
若いお父さんが見守る中で、神妙な顔で射的の的を狙う男の子。チョコバナナやあんず飴を手におしゃべりに熱中する中学生女子たち。いつも何色を買うか迷っていた、宝石みたいなどんぐり飴。やけにおいしそうに見える焼きそば。お面、綿菓子。煌々と明るいお祭りの夜。
お祭りというのは遊びに来るものだ、と思っていた。
だから神楽が上演される意味なんて、正直言って今まで考えたこともなかった。
神楽殿の前には小さな人だかりができていて、にぎやかなおしゃべりが交わされていた。ほとんどは地元のお年寄のようだ。篝火に照らし出される笑顔が明るい。
観賞用にしつらえられた仮設ベンチには腰かけず、盟子は少し離れた石灯籠の陰を立ち位置に定めた。決して「呪詛」が気にかかっているわけじゃない。守谷が見られたくないものを覗いてしまうのが後ろめたかったから。自分はいないものと思って演じてくれたら。
――私、遠峰神社の倅なんです。
そう言った時の、すごくバツの悪そうな顔を思い出す。
言いたくなかったんだろう。
申し訳ないと思いながらも帰って真っ先に検索をかけたところ、遠峰神社とは、十峯岳という山の中腹にある由緒ある神社だった。ギリギリ都内から外れた県境にあり、ここからは電車を乗り継いで諸々2時間程かかる。アクセスがものすごく悪い。
山育ちというのはつまりそういうことで、玲峰の「峰」も神社に由来したものだろう、と盟子は結論づけた。
その出自はもはや隠しようがない。
美大進学を反対されて家族と険悪ということは、要するに本来はそこを継ぐべき人だった……に違いない。
……と、いうことは。
——私がお母さんとぶつかっているより更に重たいものを背負って、先生は美大に進んだんだろうか。
今そのことを考えるには頭の容量が足りなくて、そうこうするうちに力強い太鼓の音が盟子の意識を現実に引き戻した。
演目は天 孫 降 臨。
それは天 照 大 神の孫(天孫)の邇 邇 芸 命が、天の国である高 天 原から地上に降臨したことを寿ぐ物語。
天孫降臨に先立って遣わされた天 鈿 女 命と、それを喜び迎える猿 田 彦 命とで演じられる、太古の神々の舞。
……と、いうものらしい。もちろんさっき調べた内容だ。
空気ががらりと変わった。
じっと舞台を凝視していると、緩やかな雅楽の音色に合わせて、あでやかな朱の打掛の女形がしずしずと登場してきた。天鈿女命だ。
白い面に浮かぶ薄い笑みは清らかだけれど、淫靡にも見える瞬間がある。とても不思議な表情。面と重々しい衣装のおかげで中の舞手の姿は影も形もない。
でも、わかる。
宙を滑るようなあの足運びは間違いない。
しゃらん、と涼しい音を振りまく。
天鈿女命が手に持った神楽鈴だ。
肘から先を小気味よく捻ると、房なりの実のような鈴が一斉にしゃらしゃらと笑う。持ち手についた緒が、宙に五色の線を描く。
小首の傾げ方から腕の振るい方、たおやかな身のこなし、どれ一つをとっても女神に見える。注連縄と紙垂で囲われた小さな空間が、高 天 原の神話世界へと通じていく。
やがて赤い天狗のような面をつけたざんばら髪の猿田彦命が登場した。
力強く大仰な仕草で、動くたびに衣装の金糸が篝火にきらきらと煌めいた。
その雄々しい動作は完全に女神と対になっている。この二柱の神は後に夫婦となるのだ。
セリフというものは一切なかった。雅楽に合わせた舞が全て。
盟子は気づけば石灯篭の影からすっかり身を乗り出してしまっていた。見つかってしまうことなんか忘れて。
頭の中が色んな思いで溢れすぎて、わけも解らないまま涙がこぼれそうだった。
一朝一夕で身につけられるようなものじゃないはずだ。
ここまで来るのにどれくらいかかったんだろう。どんな道を歩いてきたんだろう。
何を捨てて、何を選び取ってきたんだろう。
始業式で目が離せなかった端正な一礼と目の前の舞が。
どこか女っぽいなよっとした仕草と女神の役が。
美しい姿勢と足運びが。
普段だったらこんな時間に参拝するのは怖いくらいなのに、今はまるで別世界だ。
若いお父さんが見守る中で、神妙な顔で射的の的を狙う男の子。チョコバナナやあんず飴を手におしゃべりに熱中する中学生女子たち。いつも何色を買うか迷っていた、宝石みたいなどんぐり飴。やけにおいしそうに見える焼きそば。お面、綿菓子。煌々と明るいお祭りの夜。
お祭りというのは遊びに来るものだ、と思っていた。
だから神楽が上演される意味なんて、正直言って今まで考えたこともなかった。
神楽殿の前には小さな人だかりができていて、にぎやかなおしゃべりが交わされていた。ほとんどは地元のお年寄のようだ。篝火に照らし出される笑顔が明るい。
観賞用にしつらえられた仮設ベンチには腰かけず、盟子は少し離れた石灯籠の陰を立ち位置に定めた。決して「呪詛」が気にかかっているわけじゃない。守谷が見られたくないものを覗いてしまうのが後ろめたかったから。自分はいないものと思って演じてくれたら。
――私、遠峰神社の倅なんです。
そう言った時の、すごくバツの悪そうな顔を思い出す。
言いたくなかったんだろう。
申し訳ないと思いながらも帰って真っ先に検索をかけたところ、遠峰神社とは、十峯岳という山の中腹にある由緒ある神社だった。ギリギリ都内から外れた県境にあり、ここからは電車を乗り継いで諸々2時間程かかる。アクセスがものすごく悪い。
山育ちというのはつまりそういうことで、玲峰の「峰」も神社に由来したものだろう、と盟子は結論づけた。
その出自はもはや隠しようがない。
美大進学を反対されて家族と険悪ということは、要するに本来はそこを継ぐべき人だった……に違いない。
……と、いうことは。
——私がお母さんとぶつかっているより更に重たいものを背負って、先生は美大に進んだんだろうか。
今そのことを考えるには頭の容量が足りなくて、そうこうするうちに力強い太鼓の音が盟子の意識を現実に引き戻した。
演目は天 孫 降 臨。
それは天 照 大 神の孫(天孫)の邇 邇 芸 命が、天の国である高 天 原から地上に降臨したことを寿ぐ物語。
天孫降臨に先立って遣わされた天 鈿 女 命と、それを喜び迎える猿 田 彦 命とで演じられる、太古の神々の舞。
……と、いうものらしい。もちろんさっき調べた内容だ。
空気ががらりと変わった。
じっと舞台を凝視していると、緩やかな雅楽の音色に合わせて、あでやかな朱の打掛の女形がしずしずと登場してきた。天鈿女命だ。
白い面に浮かぶ薄い笑みは清らかだけれど、淫靡にも見える瞬間がある。とても不思議な表情。面と重々しい衣装のおかげで中の舞手の姿は影も形もない。
でも、わかる。
宙を滑るようなあの足運びは間違いない。
しゃらん、と涼しい音を振りまく。
天鈿女命が手に持った神楽鈴だ。
肘から先を小気味よく捻ると、房なりの実のような鈴が一斉にしゃらしゃらと笑う。持ち手についた緒が、宙に五色の線を描く。
小首の傾げ方から腕の振るい方、たおやかな身のこなし、どれ一つをとっても女神に見える。注連縄と紙垂で囲われた小さな空間が、高 天 原の神話世界へと通じていく。
やがて赤い天狗のような面をつけたざんばら髪の猿田彦命が登場した。
力強く大仰な仕草で、動くたびに衣装の金糸が篝火にきらきらと煌めいた。
その雄々しい動作は完全に女神と対になっている。この二柱の神は後に夫婦となるのだ。
セリフというものは一切なかった。雅楽に合わせた舞が全て。
盟子は気づけば石灯篭の影からすっかり身を乗り出してしまっていた。見つかってしまうことなんか忘れて。
頭の中が色んな思いで溢れすぎて、わけも解らないまま涙がこぼれそうだった。
一朝一夕で身につけられるようなものじゃないはずだ。
ここまで来るのにどれくらいかかったんだろう。どんな道を歩いてきたんだろう。
何を捨てて、何を選び取ってきたんだろう。
始業式で目が離せなかった端正な一礼と目の前の舞が。
どこか女っぽいなよっとした仕草と女神の役が。
美しい姿勢と足運びが。
とんでもない俊足も、ラボルトから盟子の気持ちを読み取ったことも。
脳のシナプス形成のように、今この瞬間に繋がって色んな事を理解した。
脳のシナプス形成のように、今この瞬間に繋がって色んな事を理解した。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
余裕をもって、上演開始15分前には初田神社に着いた。
普段だったらこんな時間に参拝するのは怖いくらいなのに、今はまるで別世界だ。
若いお父さんが見守る中で、神妙な顔で射的の的を狙う男の子。チョコバナナやあんず飴を手におしゃべりに熱中する中学生女子たち。いつも何色を買うか迷っていた、宝石みたいなどんぐり飴。やけにおいしそうに見える焼きそば。お面、綿菓子。煌々と明るいお祭りの夜。
若いお父さんが見守る中で、神妙な顔で射的の的を狙う男の子。チョコバナナやあんず飴を手におしゃべりに熱中する中学生女子たち。いつも何色を買うか迷っていた、宝石みたいなどんぐり飴。やけにおいしそうに見える焼きそば。お面、綿菓子。煌々と明るいお祭りの夜。
お祭りというのは遊びに来るものだ、と思っていた。
だから神楽が上演される意味なんて、正直言って今まで考えたこともなかった。
神楽殿の前には小さな人だかりができていて、にぎやかなおしゃべりが交わされていた。ほとんどは地元のお年寄のようだ。篝火に照らし出される笑顔が明るい。
だから神楽が上演される意味なんて、正直言って今まで考えたこともなかった。
神楽殿の前には小さな人だかりができていて、にぎやかなおしゃべりが交わされていた。ほとんどは地元のお年寄のようだ。篝火に照らし出される笑顔が明るい。
観賞用にしつらえられた仮設ベンチには腰かけず、盟子は少し離れた石灯籠の陰を立ち位置に定めた。決して「呪詛」が気にかかっているわけじゃない。守谷が見られたくないものを覗いてしまうのが後ろめたかったから。自分はいないものと思って演じてくれたら。
――私、遠峰神社の倅なんです。
そう言った時の、すごくバツの悪そうな顔を思い出す。
言いたくなかったんだろう。
申し訳ないと思いながらも帰って真っ先に検索をかけたところ、|遠峰《とおみね》神社とは、|十峯岳《とおみねだけ》という山の中腹にある由緒ある神社だった。ギリギリ都内から外れた県境にあり、ここからは電車を乗り継いで諸々2時間程かかる。アクセスがものすごく悪い。
山育ちというのはつまりそういうことで、玲峰の「峰」も神社に由来したものだろう、と盟子は結論づけた。
その出自はもはや隠しようがない。
美大進学を反対されて家族と険悪ということは、要するに本来はそこを継ぐべき人だった……に違いない。
……と、いうことは。
言いたくなかったんだろう。
申し訳ないと思いながらも帰って真っ先に検索をかけたところ、|遠峰《とおみね》神社とは、|十峯岳《とおみねだけ》という山の中腹にある由緒ある神社だった。ギリギリ都内から外れた県境にあり、ここからは電車を乗り継いで諸々2時間程かかる。アクセスがものすごく悪い。
山育ちというのはつまりそういうことで、玲峰の「峰」も神社に由来したものだろう、と盟子は結論づけた。
その出自はもはや隠しようがない。
美大進学を反対されて家族と険悪ということは、要するに本来はそこを継ぐべき人だった……に違いない。
……と、いうことは。
——私がお母さんとぶつかっているより更に重たいものを背負って、先生は美大に進んだんだろうか。
今そのことを考えるには頭の容量が足りなくて、そうこうするうちに力強い太鼓の音が盟子の意識を現実に引き戻した。
演目は|天 孫 降 臨《てんそんこうりん》。
それは|天 照 大 神 《あまてらすおおみかみ》の孫(天孫)の|邇 邇 芸 命《ににぎのみこと》が、天の国である|高 天 原《たかまがはら》から地上に降臨したことを寿ぐ物語。
天孫降臨に先立って遣わされた| 天 鈿 女 命 《あめのうずめのみこと》と、それを喜び迎える|猿 田 彦 命《さるたひこのみこと》とで演じられる、太古の神々の舞。
それは|天 照 大 神 《あまてらすおおみかみ》の孫(天孫)の|邇 邇 芸 命《ににぎのみこと》が、天の国である|高 天 原《たかまがはら》から地上に降臨したことを寿ぐ物語。
天孫降臨に先立って遣わされた| 天 鈿 女 命 《あめのうずめのみこと》と、それを喜び迎える|猿 田 彦 命《さるたひこのみこと》とで演じられる、太古の神々の舞。
……と、いうものらしい。もちろんさっき調べた内容だ。
空気ががらりと変わった。
じっと舞台を凝視していると、緩やかな雅楽の音色に合わせて、あでやかな朱の打掛の女形がしずしずと登場してきた。天鈿女命だ。
白い面に浮かぶ薄い笑みは清らかだけれど、淫靡にも見える瞬間がある。とても不思議な表情。面と重々しい衣装のおかげで中の舞手の姿は影も形もない。
でも、わかる。
宙を滑るようなあの足運びは間違いない。
白い面に浮かぶ薄い笑みは清らかだけれど、淫靡にも見える瞬間がある。とても不思議な表情。面と重々しい衣装のおかげで中の舞手の姿は影も形もない。
でも、わかる。
宙を滑るようなあの足運びは間違いない。
しゃらん、と涼しい音を振りまく。
天鈿女命が手に持った神楽鈴だ。
肘から先を小気味よく捻ると、房なりの実のような鈴が一斉にしゃらしゃらと笑う。持ち手についた緒が、宙に|五色《ごしき》の線を描く。
小首の傾げ方から腕の振るい方、たおやかな身のこなし、どれ一つをとっても女神に見える。|注連縄《しめなわ》と|紙垂《しで》で囲われた小さな空間が、|高 天 原《たかまがはら》の神話世界へと通じていく。
天鈿女命が手に持った神楽鈴だ。
肘から先を小気味よく捻ると、房なりの実のような鈴が一斉にしゃらしゃらと笑う。持ち手についた緒が、宙に|五色《ごしき》の線を描く。
小首の傾げ方から腕の振るい方、たおやかな身のこなし、どれ一つをとっても女神に見える。|注連縄《しめなわ》と|紙垂《しで》で囲われた小さな空間が、|高 天 原《たかまがはら》の神話世界へと通じていく。
やがて赤い天狗のような面をつけたざんばら髪の猿田彦命が登場した。
力強く大仰な仕草で、動くたびに衣装の金糸が篝火にきらきらと煌めいた。
その雄々しい動作は完全に女神と対になっている。この二柱の神は後に夫婦となるのだ。
力強く大仰な仕草で、動くたびに衣装の金糸が篝火にきらきらと煌めいた。
その雄々しい動作は完全に女神と対になっている。この二柱の神は後に夫婦となるのだ。
セリフというものは一切なかった。雅楽に合わせた舞が全て。
盟子は気づけば石灯篭の影からすっかり身を乗り出してしまっていた。見つかってしまうことなんか忘れて。
頭の中が色んな思いで溢れすぎて、わけも解らないまま涙がこぼれそうだった。
一朝一夕で身につけられるようなものじゃないはずだ。
ここまで来るのにどれくらいかかったんだろう。どんな道を歩いてきたんだろう。
何を捨てて、何を選び取ってきたんだろう。
頭の中が色んな思いで溢れすぎて、わけも解らないまま涙がこぼれそうだった。
一朝一夕で身につけられるようなものじゃないはずだ。
ここまで来るのにどれくらいかかったんだろう。どんな道を歩いてきたんだろう。
何を捨てて、何を選び取ってきたんだろう。
始業式で目が離せなかった端正な一礼と目の前の舞が。
どこか女っぽいなよっとした仕草と女神の役が。
美しい姿勢と足運びが。 とんでもない俊足も、ラボルトから盟子の気持ちを読み取ったことも。
どこか女っぽいなよっとした仕草と女神の役が。
美しい姿勢と足運びが。 とんでもない俊足も、ラボルトから盟子の気持ちを読み取ったことも。
脳のシナプス形成のように、今この瞬間に繋がって色んな事を理解した。