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俺と別れてくれ

ー/ー



 それから10日後。
 「サクラ。話がある」
 ユージは緊張の中にも決意を秘めた面持ちで、妻に声を掛けた。
 「なあに?」
 サクラは、努めていつもどおりに振舞った。
 心の中はユージがやっと話す気になってくれたことへの安堵の気持ちと、一体何を話すつもりなのだろうという不安な気持ちがごちゃまぜになっていたけれども。
 
 「珈琲淹れるから、リビングで待ってて」
 「うん」
 
 ややあって、キッチンからゴリゴリと珈琲豆を挽く音と、お湯を沸かす音が聞こえてきた。
 (……真面目に珈琲淹れてる)
 サクラは緊張した。
 
 「おまたせ」
 ユージはマグカップを手にリビングに現れると、一方をサクラに差し出した。
 「ありがと」
 サクラは笑顔で受け取り、自分を落ち着かせるためにゆっくりと一口飲んだ。
 「サクラ。今まで心配かけて済まなかった。謝るよ」
 ユージはサクラに向けて謝罪した。ただ、その声音は冷たく重たかった。
 「ユージ……一体何があったの?」
 不安な気持ちを隠し切れぬまま問いかけたサクラを、ユージは左手で制した。
 そして、自分のタブレット端末を操作し、その画面を見せた。
 
 「!何よ、これ!」
 サクラは思わず声を上げた。
 ユージがタブレット端末に写したもの。それは、ユージのサインが入った離婚届だったのだ。
 
 「サクラ、済まない。俺と別れてくれ」
 ユージは淡々と頭を下げた。
 「嫌よ……どうして?どうしてなの?」
 サクラはカタカタと身体を震わせた。
 もっと訊きたいことはたくさんある筈だが、上手く言葉に出来なかった。
 「俺は、ジムルグに行くことにした」
 サクラの動揺をよそに、ユージは静かに回答した。
 「前々から薄々感じてはいたけど、魔界に居たままでは俺の研究は一歩も先に進められない。研究場所として最適なのは中道界だ。それがこの前のジムルグ旅行でよくわかったんだ」
 ユージは珈琲を飲むと、ひとつ息をついた。
 「ジムルグへの長期滞在申請は、昨日了承された。仕事の方はあと1週間かけて引継ぎをしたらおしまいだ。それが終わったらジムルグに行く。恐らく、事実上の移住になるから、ここに戻ることはないだろう。
 ――そんなわけで、サクラ。これから先、君との結婚生活を続けるのは無理だ。だから、君とは離婚することにした。夫婦の共同財産は全部君に譲るし、他に何か要求があれば全部呑む。
 それから、勝手を言って申し訳ないが、余計な金を使いたくないから出発までここで生活させて欲しい。自分のことは自分で済ませるから」
 あくまでも事務的に淡々と語るユージに、サクラはカチンときた。
 「な、なによ。黙って聞いていれば勝手なことばかり言って――もうすぐ生まれるあたし達の子供はどうするのよ。それも関係ないって言うの?」
 「そうだ。俺には関係ない。サクラの好きにしてくれ」
 「!」
 ユージにあっさりと肯定され、サクラは言葉を失くした。
 「ちょっと調べたんだが、『コウノトリ』には両親から受入を拒否された子供を育てる施設があるそうだ。つまりは、そういうことも出来るということだ」
 「ユージ!自分が何言ってるのかわかってるの!」
 サクラは悲鳴に似た声を上げた。
 「わかってるよ」
 ユージは目を上げて、冷たい眼差しでサクラを真直ぐに見た。
 「この離婚届は後でサクラに転送する。都合のいい時に提出しておいてくれ」
 (嘘よ、こんなのって……)
 サクラの顔から血の気が引いた。あまりのことに、涙さえ出なかった。
 
 ユージは珈琲を飲み干すと、タブレット端末を手に立ち上がった。
 「――話は終わりだ。今まで俺と共にいてくれて、ありがとう」
 そう言い捨てると、リビングにサクラを残し、書斎へと消えて行った。


 (……とうとう、言っちゃった)
 ユージは書斎の扉に額を押し当て、深く長い溜息をついた。
 (サクラ、ごめん。本当にごめん……でも、これしかないんだ)
 視界が涙で霞んできたが、ぶんぶんと頭を振ってどうにか我慢した。
 (ユージ。泣くのは、お前じゃないだろ)
 両手で己の頬をぱんぱんと叩いて気合を入れ直す。
 
 ユージは先日の兄弟子たちとの邂逅の後、苦しみ抜き、考え抜いた末に、家族水入らずで魔界で暮らすよりもジムルグに単身渡って研究を進めることを選択した。
 そして、その道を選ぶからには、サクラになるべく負担を掛けずに済む方法を考えた。何といっても、二人にはもうすぐ子供が産まれるのだ。
 色々と調べてみるうちに、『コウノトリ』には両親に受入れを拒否された子供を育てる施設があること、そして、離婚してひとり親になれば魔界政府が提供する手厚い支援が受けられることを知った。
 (サクラには、これを最大限利用してもらおう)
 と、ユージは考えた。それを受けての、先ほどの態度である。
 更に言及すれば、離婚届に自分のサインを入れてサクラに押し付けたのには、別の意味合いもあるのだけれども。
 
 (賽は投げられた。後は突き進むしかない)
 魔界での残された日々で、やることはまだたくさんある。仕事の引継ぎ、旅立ちの準備、部屋の整理と私物の処分、各種手続き、ジムルグでの当座の滞在先の手配、それから、空いた時間でジムルグ語の日常会話の勉強。
 (後は、現地の語学研修の手配と……あ、仕事も探さないと)
 ユージは思いつくままにTODOリストを埋めていく。
 そんな風に何かに没頭していないと、心の奥底から沸き上がる感情に押し潰されそうだったのだ。



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次のエピソードへ進む サクラの逆襲(1)


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 それから10日後。
 「サクラ。話がある」
 ユージは緊張の中にも決意を秘めた面持ちで、妻に声を掛けた。
 「なあに?」
 サクラは、努めていつもどおりに振舞った。
 心の中はユージがやっと話す気になってくれたことへの安堵の気持ちと、一体何を話すつもりなのだろうという不安な気持ちがごちゃまぜになっていたけれども。
 「珈琲淹れるから、リビングで待ってて」
 「うん」
 ややあって、キッチンからゴリゴリと珈琲豆を挽く音と、お湯を沸かす音が聞こえてきた。
 (……真面目に珈琲淹れてる)
 サクラは緊張した。
 「おまたせ」
 ユージはマグカップを手にリビングに現れると、一方をサクラに差し出した。
 「ありがと」
 サクラは笑顔で受け取り、自分を落ち着かせるためにゆっくりと一口飲んだ。
 「サクラ。今まで心配かけて済まなかった。謝るよ」
 ユージはサクラに向けて謝罪した。ただ、その声音は冷たく重たかった。
 「ユージ……一体何があったの?」
 不安な気持ちを隠し切れぬまま問いかけたサクラを、ユージは左手で制した。
 そして、自分のタブレット端末を操作し、その画面を見せた。
 「!何よ、これ!」
 サクラは思わず声を上げた。
 ユージがタブレット端末に写したもの。それは、ユージのサインが入った離婚届だったのだ。
 「サクラ、済まない。俺と別れてくれ」
 ユージは淡々と頭を下げた。
 「嫌よ……どうして?どうしてなの?」
 サクラはカタカタと身体を震わせた。
 もっと訊きたいことはたくさんある筈だが、上手く言葉に出来なかった。
 「俺は、ジムルグに行くことにした」
 サクラの動揺をよそに、ユージは静かに回答した。
 「前々から薄々感じてはいたけど、魔界に居たままでは俺の研究は一歩も先に進められない。研究場所として最適なのは中道界だ。それがこの前のジムルグ旅行でよくわかったんだ」
 ユージは珈琲を飲むと、ひとつ息をついた。
 「ジムルグへの長期滞在申請は、昨日了承された。仕事の方はあと1週間かけて引継ぎをしたらおしまいだ。それが終わったらジムルグに行く。恐らく、事実上の移住になるから、ここに戻ることはないだろう。
 ――そんなわけで、サクラ。これから先、君との結婚生活を続けるのは無理だ。だから、君とは離婚することにした。夫婦の共同財産は全部君に譲るし、他に何か要求があれば全部呑む。
 それから、勝手を言って申し訳ないが、余計な金を使いたくないから出発までここで生活させて欲しい。自分のことは自分で済ませるから」
 あくまでも事務的に淡々と語るユージに、サクラはカチンときた。
 「な、なによ。黙って聞いていれば勝手なことばかり言って――もうすぐ生まれるあたし達の子供はどうするのよ。それも関係ないって言うの?」
 「そうだ。俺には関係ない。サクラの好きにしてくれ」
 「!」
 ユージにあっさりと肯定され、サクラは言葉を失くした。
 「ちょっと調べたんだが、『コウノトリ』には両親から受入を拒否された子供を育てる施設があるそうだ。つまりは、そういうことも出来るということだ」
 「ユージ!自分が何言ってるのかわかってるの!」
 サクラは悲鳴に似た声を上げた。
 「わかってるよ」
 ユージは目を上げて、冷たい眼差しでサクラを真直ぐに見た。
 「この離婚届は後でサクラに転送する。都合のいい時に提出しておいてくれ」
 (嘘よ、こんなのって……)
 サクラの顔から血の気が引いた。あまりのことに、涙さえ出なかった。
 ユージは珈琲を飲み干すと、タブレット端末を手に立ち上がった。
 「――話は終わりだ。今まで俺と共にいてくれて、ありがとう」
 そう言い捨てると、リビングにサクラを残し、書斎へと消えて行った。
 (……とうとう、言っちゃった)
 ユージは書斎の扉に額を押し当て、深く長い溜息をついた。
 (サクラ、ごめん。本当にごめん……でも、これしかないんだ)
 視界が涙で霞んできたが、ぶんぶんと頭を振ってどうにか我慢した。
 (ユージ。泣くのは、お前じゃないだろ)
 両手で己の頬をぱんぱんと叩いて気合を入れ直す。
 ユージは先日の兄弟子たちとの邂逅の後、苦しみ抜き、考え抜いた末に、家族水入らずで魔界で暮らすよりもジムルグに単身渡って研究を進めることを選択した。
 そして、その道を選ぶからには、サクラになるべく負担を掛けずに済む方法を考えた。何といっても、二人にはもうすぐ子供が産まれるのだ。
 色々と調べてみるうちに、『コウノトリ』には両親に受入れを拒否された子供を育てる施設があること、そして、離婚してひとり親になれば魔界政府が提供する手厚い支援が受けられることを知った。
 (サクラには、これを最大限利用してもらおう)
 と、ユージは考えた。それを受けての、先ほどの態度である。
 更に言及すれば、離婚届に自分のサインを入れてサクラに押し付けたのには、別の意味合いもあるのだけれども。
 (賽は投げられた。後は突き進むしかない)
 魔界での残された日々で、やることはまだたくさんある。仕事の引継ぎ、旅立ちの準備、部屋の整理と私物の処分、各種手続き、ジムルグでの当座の滞在先の手配、それから、空いた時間でジムルグ語の日常会話の勉強。
 (後は、現地の語学研修の手配と……あ、仕事も探さないと)
 ユージは思いつくままにTODOリストを埋めていく。
 そんな風に何かに没頭していないと、心の奥底から沸き上がる感情に押し潰されそうだったのだ。