カレシじゃないのに
ー/ー 本日急用により閉店させていただきます、と。
既にマジックでそう書かれたA4の紙を、先程のサルバドール・ダリ展で見かけた格好のままの「玲くん」がぴらぴらと振ってみせた。
「先生、それ……」
「これでいいよね?」
盟子は慌ててそれを受け取ると外のスタンドに貼り付け、入口扉のドアノブにひっかけられた「OPEN」のプレートを「CLOSE」に裏返す。
ホールに戻ると、何故だか守谷は風雅堂カフェの制服である白いワイシャツを羽織っているところだった。下のブラックデニムはそのまま、長いギャルソンエプロンをぐるっと巻き付けるとなかなか様になっている。
「どう? カッコいいじゃない? ちょっとここの制服着てみたかったの」
ふふ、と無邪気な笑みを零すと、涼しい顔でカウンターに立つ。
「あの先生、何してるんですか……?」
「店番に決まってんじゃん。これ着て遊びに行くとでも?」
「え、何でですか……?」
「はぁ? だって夜に女子高生がワンオペとか、そういうの教師として看過できないじゃん」
その解りづらい申し出は、おそらく守谷なりの気遣いなのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
一体全体、優しい人なのか怖い人なのか。教師としての責任感か、朋さんのために仕方なくやっているのか。それともただの気まぐれか。
——判断に迷います、先生。
学校ではないこの場所で、先生としてではない守谷玲峰と二人きりでいる不思議な時間が刻々と流れていく。
普段は2人体勢でこなす仕事だから、手伝ってもらえるのは素直にありがたかった。
「さてと、これでおしまいかな。そんであたしは戸締りして朋さんに鍵を返しとけばいいんだよね」
全ての仕事が終わり、止め忘れていたBGMのスイッチを最後にぷつんと切った時。
「先生あの……」
そうする理由も気持ちもまだ自分の中で煮詰めていないままに、何故だか盟子は口を開いてしまっていた。
あん?とリップスティックを塗り直しながら、油断しきった返事が返ってくる。
「今日は手伝ってもらってありがとうございました。あの……」
「いいのいいの、どうせ上にいるんだから。それより社長、大丈夫かしらねー」
「私のラボルトのデッサン、何がそんなにダメでしたか」
思い切ってそう言ってしまうと、リップを塗る手が止まった。
「あの時先生がすごく不機嫌と言うか怒っているように感じて……私、なにかまずいことしたんでしょうか」
くるくると無言でリップを収納する。そうしてふっとひとつ、守谷はため息をついた。
「ああ、解っちゃった? ごめんね。あたし解りやすいよね」
自分から尋ねてしまった癖に、本当はその答えを聞くのが怖かった。有無を言わさぬ何かをを突き付けられそうで。
「……あの絵ね」
空白の間が重たい。
「やる気ないように見えたの。何となく誤魔化して表面取り繕っているだけで中身がないって言うか。噛りついてでも描きたい!っていう熱意を感じないなぁって」
見抜かれた、と思った。
「こう見えて一応プロですから? そういうの見えちゃうの」
少し気まずそうに、守谷は視線を床に落とした。
「だから上手いとか下手以前の問題だって言ったわけ。どうしてもっていうならともかく、中途半端に美大目指すなら絶対やめた方がいい。あ、これは決して悪意で言ってるんじゃないの。就職とか考えると、美術方面に進むのって楽じゃないから」
下手以前の問題。
そう言われた時の守谷の口調も声のトーンもよく覚えている。今ようやくその真意を知ったけれど、返す言葉がない。
「でもね、あたしが勝手にそう感じただけだから、気を悪くしたらごめんなさい。下手ってことはないよ。予備校に行ってちゃんと訓練すればそれなりのレベルに達すると思う」
さあもう帰らないと遅くなっちゃう、と会話を打ち切ろうとする守谷に、気付けば盟子は食い下がっていた。
「そうやってみんな好き勝手言って。私の気持なんか知らないくせに!」
口から飛び出てきた言葉は予想以上に喧嘩腰で、自分でもぎょっとした。
母にも南緒にも雄眞に対しても抑えてきた感情。
それをなぜ守谷なんかにぶつけてしまったのか。内心パニックだった。
——でも、玲峰先生だけが正確に見抜いていたから。
盟子の心が美大受験に全く向かっていないことを。
「あ、あの、私に絵をやらせたいのは親なんです。美大に行けなかった母の夢で……」
さっきの勢いはあっという間にしぼんで、盟子は言い訳がましくおどおどと続けた。
「私自身は美大に行きたいとは思ってません。っていうかまだ決まってません。絵を見るのは確かに好きだけど……でももう少し待ってほしいし、考えさせてほしいのに」
お母さんも、南緒も、小林も。
自分勝手に人を急かして。
「先生の言う通りです。自分で決心したならもっと気合が入ると思います。ラボルトは確かに全然やる気がなかったです。だって、あの時は頼んでもいないのに南緒が……」
眦をぬぐって、零れそうになった涙をせき止める。
訳のわからないことを言われて泣かれたりしたら、迷惑以外の何物でもないだろう。今後の守谷との関係が最悪になることだけは避けたい。学校でもアルバイトでも接点があるのだから。
すみません気にしないで下さいと苦し紛れに結んだ言葉が、着地点を失ってふわふわとそこらを舞っている。重たい沈黙が何秒過ぎただろう。
「ごめん」
突然、謝罪された。
「え?」
一瞬きょとんとして恐る恐る守谷の目を伺うと、その瞳はハーブガーデンを照らし出す中庭のランタンに向けられていた。そういえばランタンのスイッチを切っていなかった。
「自分のことなの。あたし美大行かせてもらうのに苦労したから、やっかんでたのかも」
ひどく険しい目をしていた。
「こんな話聞かせてごめんだけど、うちの実家ってちょっと特殊でね、あたしはほぼ家業を継がされるはずだったんだけど、それを放り出して美大に行っちゃったのね。だから家族仲は今でも険悪だし、自責の念もやっぱりあるし」
そういえば、このあいだの展示作品入れ替えの時、ちらっとそんな話を聞いたっけ。
「それで守谷って呼ばれるのが嫌なんだよね。捨てるに捨てられない苗字だから……」
その瞳に浮かんでいるのは、望郷のような遠い色だった。
「だから、この子やる気もないくせにって勝手に妬んでたのね。でも梅崎さんなりの苦労があったんだよね。本当にごめんなさい。申し訳なかった」
「いえ、先生、そんな。私もはっきり言えないのが悪いので……」
それにしたって、山育ちだの実家が特殊だの家業だの。情報が増えていくごとに益々解らなくなってくるこの人は一体何者なのか。
「ところでさー」
リップで潤った唇が、にぃっと弧を描く。
「今日見ちゃった! カ・レ・シくんとっ」
突然話題が変わったのは、彼がこれ以上自分のことを話したくなかったからかもしれない。
あまりに急転換すぎて一瞬何のことか理解できなかった。
カレシ。
今日、美術展で雄眞といたところを見られていたのだと悟った瞬間、盟子はさっき以上にパニックになった。
「違う違う、あれは違うんですってば!」
ちょうどそこへ、場違いのような軽やかな着信音が響いた。守谷のスマホにかけて来たのは、たぶん朋さんだ。
「はいはーい。終わりましたぁ。大丈夫大丈夫。梅ちゃん今から帰るとこでーす。それはそうと社長どうでした?」
そういいながら守谷は目配せして手を振る。帰っていいよ、の合図だ。
色々言いたいことがありすぎて悶々とするけれど、盟子は仕方なく風雅堂カフェを後にする。
そして帰り道で、あのことを思い出して一人憤慨した。
そうだ、言い返してやればよかったんだ。
先生だって彼女といたじゃないですか!と。
既にマジックでそう書かれたA4の紙を、先程のサルバドール・ダリ展で見かけた格好のままの「玲くん」がぴらぴらと振ってみせた。
「先生、それ……」
「これでいいよね?」
盟子は慌ててそれを受け取ると外のスタンドに貼り付け、入口扉のドアノブにひっかけられた「OPEN」のプレートを「CLOSE」に裏返す。
ホールに戻ると、何故だか守谷は風雅堂カフェの制服である白いワイシャツを羽織っているところだった。下のブラックデニムはそのまま、長いギャルソンエプロンをぐるっと巻き付けるとなかなか様になっている。
「どう? カッコいいじゃない? ちょっとここの制服着てみたかったの」
ふふ、と無邪気な笑みを零すと、涼しい顔でカウンターに立つ。
「あの先生、何してるんですか……?」
「店番に決まってんじゃん。これ着て遊びに行くとでも?」
「え、何でですか……?」
「はぁ? だって夜に女子高生がワンオペとか、そういうの教師として看過できないじゃん」
その解りづらい申し出は、おそらく守谷なりの気遣いなのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
一体全体、優しい人なのか怖い人なのか。教師としての責任感か、朋さんのために仕方なくやっているのか。それともただの気まぐれか。
——判断に迷います、先生。
学校ではないこの場所で、先生としてではない守谷玲峰と二人きりでいる不思議な時間が刻々と流れていく。
普段は2人体勢でこなす仕事だから、手伝ってもらえるのは素直にありがたかった。
「さてと、これでおしまいかな。そんであたしは戸締りして朋さんに鍵を返しとけばいいんだよね」
全ての仕事が終わり、止め忘れていたBGMのスイッチを最後にぷつんと切った時。
「先生あの……」
そうする理由も気持ちもまだ自分の中で煮詰めていないままに、何故だか盟子は口を開いてしまっていた。
あん?とリップスティックを塗り直しながら、油断しきった返事が返ってくる。
「今日は手伝ってもらってありがとうございました。あの……」
「いいのいいの、どうせ上にいるんだから。それより社長、大丈夫かしらねー」
「私のラボルトのデッサン、何がそんなにダメでしたか」
思い切ってそう言ってしまうと、リップを塗る手が止まった。
「あの時先生がすごく不機嫌と言うか怒っているように感じて……私、なにかまずいことしたんでしょうか」
くるくると無言でリップを収納する。そうしてふっとひとつ、守谷はため息をついた。
「ああ、解っちゃった? ごめんね。あたし解りやすいよね」
自分から尋ねてしまった癖に、本当はその答えを聞くのが怖かった。有無を言わさぬ何かをを突き付けられそうで。
「……あの絵ね」
空白の間が重たい。
「やる気ないように見えたの。何となく誤魔化して表面取り繕っているだけで中身がないって言うか。噛りついてでも描きたい!っていう熱意を感じないなぁって」
見抜かれた、と思った。
「こう見えて一応プロですから? そういうの見えちゃうの」
少し気まずそうに、守谷は視線を床に落とした。
「だから上手いとか下手以前の問題だって言ったわけ。どうしてもっていうならともかく、中途半端に美大目指すなら絶対やめた方がいい。あ、これは決して悪意で言ってるんじゃないの。就職とか考えると、美術方面に進むのって楽じゃないから」
下手以前の問題。
そう言われた時の守谷の口調も声のトーンもよく覚えている。今ようやくその真意を知ったけれど、返す言葉がない。
「でもね、あたしが勝手にそう感じただけだから、気を悪くしたらごめんなさい。下手ってことはないよ。予備校に行ってちゃんと訓練すればそれなりのレベルに達すると思う」
さあもう帰らないと遅くなっちゃう、と会話を打ち切ろうとする守谷に、気付けば盟子は食い下がっていた。
「そうやってみんな好き勝手言って。私の気持なんか知らないくせに!」
口から飛び出てきた言葉は予想以上に喧嘩腰で、自分でもぎょっとした。
母にも南緒にも雄眞に対しても抑えてきた感情。
それをなぜ守谷なんかにぶつけてしまったのか。内心パニックだった。
——でも、玲峰先生だけが正確に見抜いていたから。
盟子の心が美大受験に全く向かっていないことを。
「あ、あの、私に絵をやらせたいのは親なんです。美大に行けなかった母の夢で……」
さっきの勢いはあっという間にしぼんで、盟子は言い訳がましくおどおどと続けた。
「私自身は美大に行きたいとは思ってません。っていうかまだ決まってません。絵を見るのは確かに好きだけど……でももう少し待ってほしいし、考えさせてほしいのに」
お母さんも、南緒も、小林も。
自分勝手に人を急かして。
「先生の言う通りです。自分で決心したならもっと気合が入ると思います。ラボルトは確かに全然やる気がなかったです。だって、あの時は頼んでもいないのに南緒が……」
眦をぬぐって、零れそうになった涙をせき止める。
訳のわからないことを言われて泣かれたりしたら、迷惑以外の何物でもないだろう。今後の守谷との関係が最悪になることだけは避けたい。学校でもアルバイトでも接点があるのだから。
すみません気にしないで下さいと苦し紛れに結んだ言葉が、着地点を失ってふわふわとそこらを舞っている。重たい沈黙が何秒過ぎただろう。
「ごめん」
突然、謝罪された。
「え?」
一瞬きょとんとして恐る恐る守谷の目を伺うと、その瞳はハーブガーデンを照らし出す中庭のランタンに向けられていた。そういえばランタンのスイッチを切っていなかった。
「自分のことなの。あたし美大行かせてもらうのに苦労したから、やっかんでたのかも」
ひどく険しい目をしていた。
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そういえば、このあいだの展示作品入れ替えの時、ちらっとそんな話を聞いたっけ。
「それで守谷って呼ばれるのが嫌なんだよね。捨てるに捨てられない苗字だから……」
その瞳に浮かんでいるのは、望郷のような遠い色だった。
「だから、この子やる気もないくせにって勝手に妬んでたのね。でも梅崎さんなりの苦労があったんだよね。本当にごめんなさい。申し訳なかった」
「いえ、先生、そんな。私もはっきり言えないのが悪いので……」
それにしたって、山育ちだの実家が特殊だの家業だの。情報が増えていくごとに益々解らなくなってくるこの人は一体何者なのか。
「ところでさー」
リップで潤った唇が、にぃっと弧を描く。
「今日見ちゃった! カ・レ・シくんとっ」
突然話題が変わったのは、彼がこれ以上自分のことを話したくなかったからかもしれない。
あまりに急転換すぎて一瞬何のことか理解できなかった。
カレシ。
今日、美術展で雄眞といたところを見られていたのだと悟った瞬間、盟子はさっき以上にパニックになった。
「違う違う、あれは違うんですってば!」
ちょうどそこへ、場違いのような軽やかな着信音が響いた。守谷のスマホにかけて来たのは、たぶん朋さんだ。
「はいはーい。終わりましたぁ。大丈夫大丈夫。梅ちゃん今から帰るとこでーす。それはそうと社長どうでした?」
そういいながら守谷は目配せして手を振る。帰っていいよ、の合図だ。
色々言いたいことがありすぎて悶々とするけれど、盟子は仕方なく風雅堂カフェを後にする。
そして帰り道で、あのことを思い出して一人憤慨した。
そうだ、言い返してやればよかったんだ。
先生だって彼女といたじゃないですか!と。
みんなのリアクション
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
本日急用により閉店させていただきます、と。
既にマジックでそう書かれたA4の紙を、先程のサルバドール・ダリ展で見かけた格好のままの「玲くん」がぴらぴらと振ってみせた。
「先生、それ……」
「これでいいよね?」
盟子は慌ててそれを受け取ると外のスタンドに貼り付け、入口扉のドアノブにひっかけられた「OPEN」のプレートを「CLOSE」に裏返す。
既にマジックでそう書かれたA4の紙を、先程のサルバドール・ダリ展で見かけた格好のままの「玲くん」がぴらぴらと振ってみせた。
「先生、それ……」
「これでいいよね?」
盟子は慌ててそれを受け取ると外のスタンドに貼り付け、入口扉のドアノブにひっかけられた「OPEN」のプレートを「CLOSE」に裏返す。
ホールに戻ると、何故だか守谷は風雅堂カフェの制服である白いワイシャツを羽織っているところだった。下のブラックデニムはそのまま、長いギャルソンエプロンをぐるっと巻き付けるとなかなか様になっている。
「どう? カッコいいじゃない? ちょっとここの制服着てみたかったの」
ふふ、と無邪気な笑みを零すと、涼しい顔でカウンターに立つ。
「あの先生、何してるんですか……?」
「店番に決まってんじゃん。これ着て遊びに行くとでも?」
「え、何でですか……?」
「はぁ? だって夜に女子高生がワンオペとか、そういうの教師として看過できないじゃん」
ふふ、と無邪気な笑みを零すと、涼しい顔でカウンターに立つ。
「あの先生、何してるんですか……?」
「店番に決まってんじゃん。これ着て遊びに行くとでも?」
「え、何でですか……?」
「はぁ? だって夜に女子高生がワンオペとか、そういうの教師として看過できないじゃん」
その解りづらい申し出は、おそらく守谷なりの気遣いなのだと気づくのにそう時間はかからなかった。
一体全体、優しい人なのか怖い人なのか。教師としての責任感か、朋さんのために仕方なくやっているのか。それともただの気まぐれか。
一体全体、優しい人なのか怖い人なのか。教師としての責任感か、朋さんのために仕方なくやっているのか。それともただの気まぐれか。
——判断に迷います、先生。
学校ではないこの場所で、先生としてではない守谷玲峰と二人きりでいる不思議な時間が刻々と流れていく。
普段は2人体勢でこなす仕事だから、手伝ってもらえるのは素直にありがたかった。
普段は2人体勢でこなす仕事だから、手伝ってもらえるのは素直にありがたかった。
「さてと、これでおしまいかな。そんであたしは戸締りして朋さんに鍵を返しとけばいいんだよね」
全ての仕事が終わり、止め忘れていたBGMのスイッチを最後にぷつんと切った時。
「先生あの……」
そうする理由も気持ちもまだ自分の中で煮詰めていないままに、何故だか盟子は口を開いてしまっていた。
あん?とリップスティックを塗り直しながら、油断しきった返事が返ってくる。
「先生あの……」
そうする理由も気持ちもまだ自分の中で煮詰めていないままに、何故だか盟子は口を開いてしまっていた。
あん?とリップスティックを塗り直しながら、油断しきった返事が返ってくる。
「今日は手伝ってもらってありがとうございました。あの……」
「いいのいいの、どうせ上にいるんだから。それより社長、大丈夫かしらねー」
「私のラボルトのデッサン、何がそんなにダメでしたか」
思い切ってそう言ってしまうと、リップを塗る手が止まった。
「あの時先生がすごく不機嫌と言うか怒っているように感じて……私、なにかまずいことしたんでしょうか」
「いいのいいの、どうせ上にいるんだから。それより社長、大丈夫かしらねー」
「私のラボルトのデッサン、何がそんなにダメでしたか」
思い切ってそう言ってしまうと、リップを塗る手が止まった。
「あの時先生がすごく不機嫌と言うか怒っているように感じて……私、なにかまずいことしたんでしょうか」
くるくると無言でリップを収納する。そうしてふっとひとつ、守谷はため息をついた。
「ああ、解っちゃった? ごめんね。あたし解りやすいよね」
自分から尋ねてしまった癖に、本当はその答えを聞くのが怖かった。有無を言わさぬ何かをを突き付けられそうで。
「ああ、解っちゃった? ごめんね。あたし解りやすいよね」
自分から尋ねてしまった癖に、本当はその答えを聞くのが怖かった。有無を言わさぬ何かをを突き付けられそうで。
「……あの絵ね」
空白の間が重たい。
「やる気ないように見えたの。何となく誤魔化して表面取り繕っているだけで中身がないって言うか。噛りついてでも描きたい!っていう熱意を感じないなぁって」
空白の間が重たい。
「やる気ないように見えたの。何となく誤魔化して表面取り繕っているだけで中身がないって言うか。噛りついてでも描きたい!っていう熱意を感じないなぁって」
見抜かれた、と思った。
「こう見えて一応プロですから? そういうの見えちゃうの」
少し気まずそうに、守谷は視線を床に落とした。
「だから上手いとか下手以前の問題だって言ったわけ。どうしてもっていうならともかく、中途半端に美大目指すなら絶対やめた方がいい。あ、これは決して悪意で言ってるんじゃないの。就職とか考えると、美術方面に進むのって楽じゃないから」
下手以前の問題。
そう言われた時の守谷の口調も声のトーンもよく覚えている。今ようやくその真意を知ったけれど、返す言葉がない。
少し気まずそうに、守谷は視線を床に落とした。
「だから上手いとか下手以前の問題だって言ったわけ。どうしてもっていうならともかく、中途半端に美大目指すなら絶対やめた方がいい。あ、これは決して悪意で言ってるんじゃないの。就職とか考えると、美術方面に進むのって楽じゃないから」
下手以前の問題。
そう言われた時の守谷の口調も声のトーンもよく覚えている。今ようやくその真意を知ったけれど、返す言葉がない。
「でもね、あたしが勝手にそう感じただけだから、気を悪くしたらごめんなさい。下手ってことはないよ。予備校に行ってちゃんと訓練すればそれなりのレベルに達すると思う」
さあもう帰らないと遅くなっちゃう、と会話を打ち切ろうとする守谷に、気付けば盟子は食い下がっていた。
さあもう帰らないと遅くなっちゃう、と会話を打ち切ろうとする守谷に、気付けば盟子は食い下がっていた。
「そうやってみんな好き勝手言って。私の気持なんか知らないくせに!」
口から飛び出てきた言葉は予想以上に喧嘩腰で、自分でもぎょっとした。
母にも南緒にも雄眞に対しても抑えてきた感情。
それをなぜ守谷なんかにぶつけてしまったのか。内心パニックだった。
母にも南緒にも雄眞に対しても抑えてきた感情。
それをなぜ守谷なんかにぶつけてしまったのか。内心パニックだった。
——でも、玲峰先生だけが正確に見抜いていたから。
盟子の心が美大受験に全く向かっていないことを。
「あ、あの、私に絵をやらせたいのは親なんです。美大に行けなかった母の夢で……」
さっきの勢いはあっという間にしぼんで、盟子は言い訳がましくおどおどと続けた。
「私自身は美大に行きたいとは思ってません。っていうかまだ決まってません。絵を見るのは確かに好きだけど……でももう少し待ってほしいし、考えさせてほしいのに」
お母さんも、南緒も、小林も。
自分勝手に人を急かして。
さっきの勢いはあっという間にしぼんで、盟子は言い訳がましくおどおどと続けた。
「私自身は美大に行きたいとは思ってません。っていうかまだ決まってません。絵を見るのは確かに好きだけど……でももう少し待ってほしいし、考えさせてほしいのに」
お母さんも、南緒も、小林も。
自分勝手に人を急かして。
「先生の言う通りです。自分で決心したならもっと気合が入ると思います。ラボルトは確かに全然やる気がなかったです。だって、あの時は頼んでもいないのに南緒が……」
眦をぬぐって、零れそうになった涙をせき止める。
訳のわからないことを言われて泣かれたりしたら、迷惑以外の何物でもないだろう。今後の守谷との関係が最悪になることだけは避けたい。学校でもアルバイトでも接点があるのだから。
すみません気にしないで下さいと苦し紛れに結んだ言葉が、着地点を失ってふわふわとそこらを舞っている。重たい沈黙が何秒過ぎただろう。
訳のわからないことを言われて泣かれたりしたら、迷惑以外の何物でもないだろう。今後の守谷との関係が最悪になることだけは避けたい。学校でもアルバイトでも接点があるのだから。
すみません気にしないで下さいと苦し紛れに結んだ言葉が、着地点を失ってふわふわとそこらを舞っている。重たい沈黙が何秒過ぎただろう。
「ごめん」
突然、謝罪された。
「え?」
一瞬きょとんとして恐る恐る守谷の目を伺うと、その瞳はハーブガーデンを照らし出す中庭のランタンに向けられていた。そういえばランタンのスイッチを切っていなかった。
「え?」
一瞬きょとんとして恐る恐る守谷の目を伺うと、その瞳はハーブガーデンを照らし出す中庭のランタンに向けられていた。そういえばランタンのスイッチを切っていなかった。
「自分のことなの。あたし美大行かせてもらうのに苦労したから、やっかんでたのかも」
ひどく険しい目をしていた。
「こんな話聞かせてごめんだけど、うちの実家ってちょっと特殊でね、あたしはほぼ家業を継がされるはずだったんだけど、それを放り出して美大に行っちゃったのね。だから家族仲は今でも険悪だし、自責の念もやっぱりあるし」
ひどく険しい目をしていた。
「こんな話聞かせてごめんだけど、うちの実家ってちょっと特殊でね、あたしはほぼ家業を継がされるはずだったんだけど、それを放り出して美大に行っちゃったのね。だから家族仲は今でも険悪だし、自責の念もやっぱりあるし」
そういえば、このあいだの展示作品入れ替えの時、ちらっとそんな話を聞いたっけ。
「それで守谷って呼ばれるのが嫌なんだよね。捨てるに捨てられない苗字だから……」
その瞳に浮かんでいるのは、望郷のような遠い色だった。
「だから、この子やる気もないくせにって勝手に妬んでたのね。でも梅崎さんなりの苦労があったんだよね。本当にごめんなさい。申し訳なかった」
「いえ、先生、そんな。私もはっきり言えないのが悪いので……」
それにしたって、山育ちだの実家が特殊だの家業だの。情報が増えていくごとに益々解らなくなってくるこの人は一体何者なのか。
その瞳に浮かんでいるのは、望郷のような遠い色だった。
「だから、この子やる気もないくせにって勝手に妬んでたのね。でも梅崎さんなりの苦労があったんだよね。本当にごめんなさい。申し訳なかった」
「いえ、先生、そんな。私もはっきり言えないのが悪いので……」
それにしたって、山育ちだの実家が特殊だの家業だの。情報が増えていくごとに益々解らなくなってくるこの人は一体何者なのか。
「ところでさー」
リップで潤った唇が、にぃっと弧を描く。
「今日見ちゃった! カ・レ・シくんとっ」
リップで潤った唇が、にぃっと弧を描く。
「今日見ちゃった! カ・レ・シくんとっ」
突然話題が変わったのは、彼がこれ以上自分のことを話したくなかったからかもしれない。
あまりに急転換すぎて一瞬何のことか理解できなかった。
あまりに急転換すぎて一瞬何のことか理解できなかった。
カレシ。
今日、美術展で雄眞といたところを見られていたのだと悟った瞬間、盟子はさっき以上にパニックになった。
「違う違う、あれは違うんですってば!」
「違う違う、あれは違うんですってば!」
ちょうどそこへ、場違いのような軽やかな着信音が響いた。守谷のスマホにかけて来たのは、たぶん朋さんだ。
「はいはーい。終わりましたぁ。大丈夫大丈夫。梅ちゃん今から帰るとこでーす。それはそうと社長どうでした?」
そういいながら守谷は目配せして手を振る。帰っていいよ、の合図だ。
そういいながら守谷は目配せして手を振る。帰っていいよ、の合図だ。
色々言いたいことがありすぎて悶々とするけれど、盟子は仕方なく風雅堂カフェを後にする。
そして帰り道で、|あのこと《・・・・》を思い出して一人憤慨した。
そうだ、言い返してやればよかったんだ。
先生だって彼女といたじゃないですか!と。
そうだ、言い返してやればよかったんだ。
先生だって彼女といたじゃないですか!と。