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玲くん

ー/ー



「おはようございまーす」
 3時半頃に風雅堂カフェに滑り込んでコーヒーの香りに包まれると、悪夢から覚めてようやく現実に戻った気がした。

「あ、梅ちゃんごめんねぇ、子供が熱出してて。今は薬で寝てるんだけど、やっぱり一人にしておくの心配で……」
 早退することになった中島さんが酷く申し訳なさそうに謝りながらいそいそと帰って行った。
 その背中に、いえむしろありがとうございますとこっそり頭を下げる。実際ありがたいタイミングだった。朋さんからの連絡がなかったら、それっぽい嘘も思いつけなかっただろうから。

「それでねぇ梅ちゃん、今日本当は小野寺さんもいるはずだったんだけど」
 朋さんが困ったように頭をかく。
 そういえば、シフトに名前が書いてあるフリーターの子が見えない。ここのアルバイトは通常2人体勢なはずなのに。
「それが、急用が入ったとかで休みますって昨夜連絡を昨夜もらってて」
「えっと、つまり今から私一人ってことですね?」
「そうなの。僕も出るようにするからどうにか頑張ってもらえる? 早めにクローズしちゃって、掃除とかはできる範囲でいいから」
「わかりました」

 一人になると、コポコポとお湯を供給するコーヒーメーカーの音がやけに耳についた。
 ホールには腕組みして考え事をしているらしいお客さんが一人。いつもアメリカンを注文する常連さんだ。
 時計の秒針が無表情に時を刻み続ける。目を瞑りたくなるような静かな時間。控えめなピアノ演奏のBGMが店内を程よく攪拌している。

 その後はお客さんが途切れなかったものの、ランチもティータイムも過ぎていたので手が回らないほど忙しいということはなかった。
 この後もなんとか一人で大丈夫そうだ。

 しかし19時前。
 茶渋のついたコーヒーカップをまとめて漂白しているところ、朋さんが酷く慌てた様子でキッチンに飛び込んで来た。

「梅ちゃんごめん!」
「は、はいっ!?」
「社長が倒れたみたいで、僕ちょっと病院へ行ってくる!」
「えーっ!?」
 社長とはこのカフェを開店した先代で、朋さんの父親のこと。

「呂律が回らなくて、もしかしたら脳梗塞かもしれないって……もうクローズの看板出していいから、今いるお客さんで閉めちゃって。それと急用で閉店しますって張り紙出してもらえる?」
 あとは梅ちゃんはいつも通りでいいから、戸締りは玲くんに頼んだから。ごめんね、行くね、と言い残して朋さんは慌ただしくキッチンを出て行った。

「ええと……」

 忘れないように言われたことを反芻する。すぐにクローズの看板を出して、閉店の張り紙を書いて、あとはいつも通りで。
 で、最後のところ。
 戸締りは「玲くん」に頼んだ?
 その戸締りを頼まれた玲くんってもしかして……。
 いや、それよりも社長は大丈夫だろうか。中島さんの子供といい、色々と重なるものだ。

 こうなってくると、「大丈夫ですかねぇ」と言葉を交わす相手のいない一人きりのキッチンは妙に落ち着かない。いつも通りいつも通りと念じながら、盟子はやりかけの漂白をまずは済ませた。
 そうだ、張り紙をしてクローズにしないとお客さんが入ってきちゃう。

 貼り紙、張り紙。ええと、紙は……?
 ありそうで見当たらない。考えてみたらホールやキッチン業務では紙は使わないのだ。あるのは伝票くらいで。

 そうだ、いつも朋さんが作業をしている奥の事務室。
 ここならと思ってドアノブを回してみたけれど、鍵がかかっていた。金庫もあって出納管理をする部屋だからまあ当然だ。どうしよう。

「何探してんの?」

 困り果てていたところ、後ろから急に声をかけられた。
 紙を、と反射的に答えながら慌てて振り返る。

「これのこと?」

 盟子が散々探していた「紙」を持ってそこに立っていたのは、予想通りの「玲くん」だった。



次のエピソードへ進む カレシじゃないのに


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「おはようございまーす」
 3時半頃に風雅堂カフェに滑り込んでコーヒーの香りに包まれると、悪夢から覚めてようやく現実に戻った気がした。
「あ、梅ちゃんごめんねぇ、子供が熱出してて。今は薬で寝てるんだけど、やっぱり一人にしておくの心配で……」
 早退することになった中島さんが酷く申し訳なさそうに謝りながらいそいそと帰って行った。
 その背中に、いえむしろありがとうございますとこっそり頭を下げる。実際ありがたいタイミングだった。朋さんからの連絡がなかったら、それっぽい嘘も思いつけなかっただろうから。
「それでねぇ梅ちゃん、今日本当は小野寺さんもいるはずだったんだけど」
 朋さんが困ったように頭をかく。
 そういえば、シフトに名前が書いてあるフリーターの子が見えない。ここのアルバイトは通常2人体勢なはずなのに。
「それが、急用が入ったとかで休みますって昨夜連絡を昨夜もらってて」
「えっと、つまり今から私一人ってことですね?」
「そうなの。僕も出るようにするからどうにか頑張ってもらえる? 早めにクローズしちゃって、掃除とかはできる範囲でいいから」
「わかりました」
 一人になると、コポコポとお湯を供給するコーヒーメーカーの音がやけに耳についた。
 ホールには腕組みして考え事をしているらしいお客さんが一人。いつもアメリカンを注文する常連さんだ。
 時計の秒針が無表情に時を刻み続ける。目を瞑りたくなるような静かな時間。控えめなピアノ演奏のBGMが店内を程よく攪拌している。
 その後はお客さんが途切れなかったものの、ランチもティータイムも過ぎていたので手が回らないほど忙しいということはなかった。
 この後もなんとか一人で大丈夫そうだ。
 しかし19時前。
 茶渋のついたコーヒーカップをまとめて漂白しているところ、朋さんが酷く慌てた様子でキッチンに飛び込んで来た。
「梅ちゃんごめん!」
「は、はいっ!?」
「社長が倒れたみたいで、僕ちょっと病院へ行ってくる!」
「えーっ!?」
 社長とはこのカフェを開店した先代で、朋さんの父親のこと。
「呂律が回らなくて、もしかしたら脳梗塞かもしれないって……もうクローズの看板出していいから、今いるお客さんで閉めちゃって。それと急用で閉店しますって張り紙出してもらえる?」
 あとは梅ちゃんはいつも通りでいいから、戸締りは玲くんに頼んだから。ごめんね、行くね、と言い残して朋さんは慌ただしくキッチンを出て行った。
「ええと……」
 忘れないように言われたことを反芻する。すぐにクローズの看板を出して、閉店の張り紙を書いて、あとはいつも通りで。
 で、最後のところ。
 戸締りは「玲くん」に頼んだ?
 その戸締りを頼まれた玲くんってもしかして……。
 いや、それよりも社長は大丈夫だろうか。中島さんの子供といい、色々と重なるものだ。
 こうなってくると、「大丈夫ですかねぇ」と言葉を交わす相手のいない一人きりのキッチンは妙に落ち着かない。いつも通りいつも通りと念じながら、盟子はやりかけの漂白をまずは済ませた。
 そうだ、張り紙をしてクローズにしないとお客さんが入ってきちゃう。
 貼り紙、張り紙。ええと、紙は……?
 ありそうで見当たらない。考えてみたらホールやキッチン業務では紙は使わないのだ。あるのは伝票くらいで。
 そうだ、いつも朋さんが作業をしている奥の事務室。
 ここならと思ってドアノブを回してみたけれど、鍵がかかっていた。金庫もあって出納管理をする部屋だからまあ当然だ。どうしよう。
「何探してんの?」
 困り果てていたところ、後ろから急に声をかけられた。
 紙を、と反射的に答えながら慌てて振り返る。
「これのこと?」
 盟子が散々探していた「紙」を持ってそこに立っていたのは、予想通りの「玲くん」だった。