異世界書物、それはテトラ達の住む世界とはまた別の世界、異世界で起こった物語を記した書物のことである。
価値観や魔法の概念などなど、様々に世界観が違う世界での物語は、時折として誰かの心を打つものだ。世界観が違うことから生まれる感動や憧れ、また異世界にも限らず何か自分と通ずるものがあった時に生まれる共感、それらは時間が経つにつれて「|好《・》|き《・》」へと昇華されていく。
これは、この世界の誰かが好きな異世界書物、毒の王子様と呼ばれる書物に記された物語、その一部始終である。
今日は毒日和、そんな言葉が似合うのは、この世界で私だけだろう。
寝起きに晴れだと分かった時、それが一番の憂鬱の瞬間だ。皆が今日は良い天気だと言う中で、私一人だけが、この体を蝕んでいく毒に怯える一日を過ごさなければならない。
なぜなら私は今、日光に照らされると身体の末端から中心に向かって致死の毒が進行する病に侵されているからだ。
既に毒は肘や膝の関節部分まで進行しており、まだ動かせてはいるものの、力がうまく入らず動かしにくい。やがて麻痺したように全く動かなくなるのは目に見えていることだ。
だから現在私は、窓のカーテンは全て閉め切って外には出ない、一切の日光を浴びることのない生活を送っている。それは曇りでも雨でも変わらない。晴れに比べればマシだが、それでも大なり小なり毒の進行は早まる。
「はぁ……」
つまらない生活だ。
私は朝の日課になりつつある溜め息を零した。
「お嬢様、お食事の時間でございます」
使用人がドアをノックしてそう言ってきた。朝食か……最近、食に対する興味も失せてきたように思える。
毒の治癒法は無いと医者に言われ、ただ死ぬのを遅らせようとする悪あがきの日々を送るのみ。どうせ近い将来死ぬと分かっているのに、何かに興味を持てるはずもない。何かに熱中できるはずもない。途中で悟って虚しくなるだけだ。
だから当然、恋人も居ない。出会いもなければ、相手に捧ぐ命も無い。こんな状況で恋人をつくろうと思う意思は無かった。恋人がいた方が、辛いに決まっている。
「すぐに向かうわ」
そう言葉を発すると、私は重い足取りで食卓へと向かった。
朝食を終えて、また自室へと戻る。
今この邸宅に居るのは私と幾人かの使用人のみで、家族はここに居ない。長期の仕事で家を留守にしているのだ。だから私の世話は基本、使用人達に任せっきりとなっている。
鏡を見た。私の顔は親譲りで美形だと言われているが、どうにも今の私は美形に見えない。精気を無くした顔に、やつれた身体、明かりが無いせいか肌にハリが無いようにも思える。
少し手首の袖をまくりあげ、肘が見える程にした。一切の光を持たない黒色の、薔薇の棘のように見えるものが指先から肘部分まで張っている。その棘の先、つまり肘部分には、棘だけでなく薔薇の花が真っ黒に咲き誇っていた。
恐らく、この花が心臓部分に到達すれば終わりの合図なのだろう。
……やめよう、こんなことを確認しても、虚しくなるだけだ。
私は袖を元に戻し、辺りの廊下を歩き回ることにした。
「何も、変わらないわね」
外に出ないとはいえ歩かないと身体が弱ってしまう。だから時々、この広い邸宅を探索がてら歩くことにしているのだが、やはり何度も同じ光景が続くばかりで新鮮味に欠けていた。
ふと、窓の横で立ち止まる。
「……」
外の景色が見たかった。ここ何年と眺めていない陽の光だ。さぞ、気持ちの良いことだろう。
けれど、それは許されない。自分自身がそれを一番に理解していた。
また歩き出そうと前方を見ると、一人のメイドがこちらへ走ってきていた。何か急ぎの用だろうか。その腕の中には一本の|箒《ほうき》が抱き抱えられていた。
その様子で、あのメイドが誰かすぐに分かった。最近入ってきた新人のメイドだ。おっちょこちょいで焦りやすいと聞いているが、本当にその通りのようだ。
「あ、お嬢様! おはようございます、すみません今急いでいるので走ることを許可させてくだどぅあ!」
瞬間、メイドが私の横で盛大に転んだ。何も無いところだが、走っている拍子に自分の持っていた|箒《ほうき》の先を踏んでしまい、上手く前に進めず転んでしまったようだ。
なぜか抱えていた|箒《ほうき》は意地でも離そうとしない。
いやしかし、重要なのはそこではなかった。手のひらが空いていたため、脳が咄嗟の反応で何かを掴もうとしたのだろう。メイドは転んだ際に、ちょうど近くにあったあるものを掴んでしまったのだ。
「ぅぐっ」
それはカーテンだった。
陽の光が差し込み、私の上半身をその強い光で照らしてきた。
私は目を細め、その眩しさから目を保護するように右腕を盾にした。
まずい、早く閉じなくては。
そう心の中で思うものの、私はその場でじっとしていた。何年ぶりかに見る太陽の光、それはずっと室内に留まっていた私にとってあまりにも眩しすぎて、一種の目眩しのように私の行動を制限したのだ。
……。
…………。
……本当に?
体が悲鳴をあげ、その身に宿る毒が進行していくのが分かった。何秒だろう。数秒ほどに思えたが、もしかしたら十数秒にも及んだかもしれない。私がその場でじっとしていると、メイドが起き上がってきた。
「あいたたた、すみません転んでっでぅうああ!!」
メイドは私の状況を見るなり、即座に立ち上がり目の前のカーテンを引きちぎれるくらいの勢いで閉めた。それを見て、私が上げていた腕を下ろすよりも早く、メイドは私に向かって頭を下げた。
「す、すすすみませんすみません申し訳ございませんでした!」
何度も何度も、ものすごい勢いで頭を下げ続ける。だが、私はそれをじっと見るのではなく、視界の端に捉えるだけで面と向かってきちんと見ようとはしなかった。代わりに、私はただじっと、先ほどまで開いていた窓の方を見る。
別に、怒っている訳ではない。ただ……。
「いや、いい。大丈夫よ」
私はメイドの方を見ることなく、どこか遠くを見つめたまま力の無い声色でそう言った。そのまま、おぼつかない足取りでその場を去っていく。
「え?」
後ろの方でメイドは不思議そうな声をあげていたが、特に私は気にしなかった。
自室に戻ると、すぐさまベッドに腰をかけ、カーテンの閉まった窓の方を眺めた。そして、溜め息を吐く。
「よかった……」
久しぶりに浴びた日光、窓の外に広がっていた光景、そのどちらもが……よかった。
秋の今にほんのりと温かく私を照らしてくれる日光は、暗く淀んだこの室内よりも遥かに心地良かった。緑豊かで風になびいていた大地は、飽き飽きとしていた狭く息苦しい、閉ざされた中の世界よりも広大で、締め付けられていた心臓が一気に解放され飛び跳ねるほどに私の目に色を持たせてくれた。
眩しいなんてただの言い訳にすぎなかった。私は、何年ぶりにも見るあの光景と日差しに、|見蕩《みと》れていたのだ。
見間違いかもしれないが、あの日差しに照らされていた大地を、一人の男性が歩いているのが見えた。いつの日か私も、あの男の人のように、ただ当たり前に日差しを浴びることができれば.....そう考えてしまうほどに見惚れていた。
「もう一回、見てみたいな」
そう言葉を零すと、私はベッドの上に寝転がり、うずくまった。日光が私を包んでくれたように、自分自身で私を包み込んだ。
そうして、余韻に浸る。一秒、二秒、三秒、だがしかし、その余韻も次第に現実味を取り戻していき、やがて私は自分の口角が下がっていっているのを自覚した。
そう、夢物語だった。
あの空の下に出てみたい。そう思いはするものの、それは叶わない。だって私は、病に侵されているのだから。
先程の日光を浴びた影響で身体が少し痛くなってきた。毒が進行しているのだ。
痛い、早く寝てこの痛みから逃れよう。そう思い私は、もう一度眠りにつくことにした。
翌日の早朝、私が目覚めると家の中が騒がしくなっていた。何かと思って客間の方へ向かうと、一人の見知らぬ男性が使用人と話をしていたのだ。
……いや、正確には見知らぬではない。昨日この人を見た。窓から外の景色を眺めた時に居た、あの男性だ。
男性と目が合う。ベージュ色のコートと丸眼鏡が似合う人だ。ただ、少し体調が悪そうに見える。
座りながらも、向こうが微笑みながらお辞儀をしてくれたので、私もそれに応える。男性のその動きを見てか、男性と話してた使用人が私に気がついた。
「ああお嬢様、ちょうどよいところに。実は道端でこの男性が倒れているところを見かけまして……」
「ああ、それで……」
「すみません、突然押し入ったみたいになって」
「いえ、お気になさらず」
男性は少し申し訳なさそうだった。
話が進むにつれ、とりあえず今日一日は男性をこの家に泊まらせ、安静にしてもらうことになる。どうやら人に比べて少々身体が弱いらしい。特に問題もなく、男性も揃って朝食を食べ終えると、私は自室へと戻った。
そして、ふと思う。家の外から来る人に出会うのは久しぶりだなと。
あの男性は、あの空の下を歩いていた。私の知らないことを、それはもう沢山知っているはずだ。
……少し、話がしてみたい。そう思うと私はすぐに、そしてこっそりと、父様の部屋へと向かった。ちょうど両親が居ないため、元々父様の部屋として使っていた場所で男性を休ませているのだ。
部屋に入った時、男性は少し驚いていたが、率直に「話がしてみたい」と言うとすぐに受け入れてくれた。
「あなた、外にはよく出るの?」
「いえ、あまり。というか、ここ最近まで外には出ていなかったんですよ。ただ、ここ一ヶ月程はほぼ毎日外に出ていますね」
「へぇ、そうだったのね。……実はね」
打ち明けるか否か迷いはしたが、打ち明けた方が話しやすいだろうと思い、私は自分の体の毒のことを男性に話した。
すると男性は初め、想像していたよりも遥かに驚いた表情をしていた。それほど驚くことだろうか。確かに珍しい病気かもしれないし、薔薇の模様が見える箇所は手袋なり服なりで隠していたからその有様も含めて驚いたのかもしれないが、それでも驚きすぎな気がする。
けれど、病気のことはすぐに受け入れてもらえた。そして、その病気のこともあるから外での話に興味があるということも、私が言うより先に理解してくれた。
「外の世界ですか、ええ、確かに素晴らしいものですよ。小鳥が鳴く可愛らしげな姿をこの目で観察することができますし、毎日見る光景が変化して飽きないですからね」
彼は思い出話でも語るかのように、外の世界の様子を話してくれた。太陽が昇る瞬間の良さ、太陽が沈む瞬間の良さ、そして太陽が輝いている時の良さ、それぞれの良さを隈なく私に伝えてくれた。
その話を聞いて、私は子供のようにはしゃぎ倒す。時にマヌケな強盗の話とか彼の友人の笑える話とかも混じえて、ただ純粋に会話を楽しむようになっていた。
人の話に自然の話、色んな話を聞いていると、外の世界の様子がぼんやりとだが浮かんでくる。聞いているだけでも分かるほどに、暖かい景色だ。
こうして話していくうちに段々と、外に出たい思いが強くなってくるのは必然だった。それが原因なのかは分からないが、小一時間程続いた会話の波が落ち着いてきた頃、私の口から言葉が漏れた。
「はぁーあ、この病気が治ったらなぁ」
無意識だった。余韻に浸るような言い方だった。
言い終えてから自分が言ったことに気がつき、もしかしたら空気を悪くするんじゃないかと思い、口に手を当てる。けれど、私がその次の言葉を出そうとする前に彼は言った。
「きっと治りますよ。治って欲しいです」
冷静な一言だった。言い換えれば、他人事のような言い方だった。いや、実際他人事だ。
私は少しの間、彼の方を見て固まったが、それがただ無難に慰めの一言を放っただけだと気がついた時、沈黙を破るようにしてくすっと笑ってしまった。
「どうしたんですか?」
「いえ、ただ、無難な一言だと思って」
「そうですか」
私と彼は口元を緩ませながらそう言った。
ああ、楽しかった。
ちょうど良い時間だろうと思い、私は時計を確認して、腰かけていたベッドから立ち上がった。
「それじゃ、大分話し込んだみたいだし、もう部屋に戻ることにするわ。楽しい時間をどうもありがとう」
「いえいえ、こちらこそありがとうございます」
「それじゃあ、また会える機会があれば」
「ええ、楽しみにしています」
私はお礼を言うと扉の前まで歩き、ドアノブに手をかける。そして扉を開けようとしたその瞬間、後ろの方から彼に声をかけられた。
「あの」
「どうかしたの?」
「あなたから毒のことを打ち明けられましたよね? せっかくの縁ですし、私からも一つ、お嬢様に打ち明けてもよろしいでしょうか?」
彼の方を振り返り、その目を見る。優しそうな瞳の奥に、どこか真剣さが宿っていた。
それほど重要なことなのだろうか。
「いいですけれど、そんなに重要なことなの?」
「ええ、少なくとも私にとっては」
その姿勢の熱意から、どうするか少しだけ迷いはしたものの、止める理由も権利も無いし、特に深くは考えず承諾することにした。
それに、彼の言うとおりせっかくの縁ですもの。
「いいわよ。何かしら」
私が言うと、彼は一呼吸置いてから落ち着いて答えた。
「実は私、お嬢様に一目惚れいたしました」
「……え、えっえっ!?」
流石の私もこれには取り乱さざるを得なかった。何を思ったのか扉の鍵を三回ほど閉め、「どどどどどういうことかしら」と、あの新人メイドのような口調で聞いてしまったのだ。
彼はそれを見て笑っていたが、私にとっては笑いごとではない。
ただ、その後彼から話を聞いている内に落ち着くことはできた。まさか、そんなことを言われるとは思いもしなかったが。
どうやら一目惚れしたのは今日のことではなく、以前かららしい。彼が外出を始め出した一ヶ月程前の時、彼は私の家の横を通ったらしく、その際偶然にも窓から私の姿が見えたようだった。一目惚れしたのは、その時。
それ以来、もう一度私の姿を見たいと、外出した際には私の家の横を通うようになったらしい。とはいえ私は基本カーテンを閉め切っているし、彼はそれまで外出をして来なかった身、一ヶ月程外出を続け、その習慣を繰り返していく内に体力不足のボロが出て倒れたと。
それにしても驚いた。一目惚れされたこともそうだが、毒のことを打ち明けても「一目惚れした」と言ってくるとは……。
「そうだったのね」
「ええ。ああ返事は無理にしなくても大丈夫なので。ただ、こうして会えたんですから、せっかくなら伝えておこうと思って」
「……ええ、気持ちはありがたく受け取っておくわ」
振った……つもりはないのだが、そう捉えられてしまったかもしれない。じゃあ承諾したのかというと、そうでもない。答えが出せなかったのだ。
毒のことがあるから、私もどうしていいか分からなかった。私の病のせいでこの人を縛るわけにもいかないし、私に彼と共に歩めるだけの時間は残されていないだろうから。
ただ、私がどうしたらいいか迷っていることは彼の方も理解している様子に見えた。きっと誤解はされていないだろう。ただ、これは叶わぬ恋路だったというだけで。
「……それじゃあ行くわね」
「ええ、お体、お大事になさってくださいね」
そうしてまた、私は腰かけていたベッドから立ち上がろうとした。だが……。
「あら」
上手く立てなかった。右足に上手く力が入らない。一回、二回、三回と力を入れると、ようやく右足にも力が伝わり、立ち上がることに成功した。
しかし、無理に力を入れようとしたせいか、右足がバネのような挙動をして勢い良く跳ね上がり、その勢いに負けて私は体のバランスを崩してしまった。
「おっと」
だが、倒れそうになったところを、彼に助けられた。肩と背中を支えられる。
「あ、ありがとう」
「当然のことです」
少しドキリとした。恋として、というか、初めて父様や使用人以外の男性に体を触れられた気がする。
頭の中で、彼の言った「一目惚れ」の言葉が反復した。そうか、彼にとって私は、好きな人なんだ。
もし、叶うなら。……少し、少しだけワガママを言ってもいいだろうか。
「ねぇ、少しだけお願いを聞いてくれないかしら」
私は後ろを振り向き、彼の顔を見上げながら言った。少女が少しだけ、おねだりをする時のように。
「私にできることなら何でも」
丁寧に真摯に応えようとしてくれる彼に少しだけ罪悪感のようなものが湧いてきたが、これは単なるワガママだ、そういうものだ。
「私を、太陽の照らす外へ連れ出してくれない?」
「……正気ですか?」
彼は、初めて苦笑いを私に見せた。
時刻は昼前、私と彼は、家の裏側へと通じる窓から身を乗り出そうとしていた。私の家は、いわゆる富裕層の固まる高い地形部分に位置していて、その裏には一般層へと続く家々が連なっているのだ。
私は足に力が上手く入らないのを理由に、彼にお姫様抱っこをしてもらっていて、さらに可能な限り日差しを避けられるよう大きな白いシーツを羽織っている。
つまり、私のワガママが通ったのだ。
「本当に、いいんですね?」
彼の顔は少しばかり緊張で強ばっているようだった。
「もちろん、あなたが私を|日差し《毒》から守ってくれるんでしょう?」
「はは、随分とワガママなお嬢様なことで」
「ダメかしら」
今日の私は、少し調子に乗っているのかもしれない。でも、それを止める気にはなれなかった。だって目の前には、待ち望んだ光景が広がっているのだもの。
「いえ、この身に変えてもお守りいたします」
瞬間、風が吹いた。というより、勢い良く飛び出した。体に伝わってくる振動で分かる、窓から飛び降り、家の屋根を伝って上から下へ全速力で駆け抜けている。
飛び降りた瞬間、私は目をつぶってしまった。急に動いた反射でシーツを力強く握り、視界から入る情報を遮断したのだ。
だが、少しして体の動きに慣れると、徐々に目を開けることができた。そして最後、目を全開まで開けた時、前方に広がるその光景に私は心を射抜かれた。
風に揺られながら、煌びやかに街を彩る自然、花はもちろんだが枯れ木でさえも私の目には輝いているように見えた。その自然の全ては一度、幼い頃に見たことがあるはずだが、子供が知らないものを見つけた時のように私の心ははしゃいでいた。
知らないもので言えば、建造物だ。私の記憶には無い建物が沢山建っているし、反対に見知った建物が廃墟になっていたりする。
全てが、新鮮だった。
木々の間をくぐり抜けていく風音も、商店街の賑やかな声も、幼い頃に親に隠れて通っていたお菓子屋が潰れていたことに対する落胆でさえも、私にとっては新鮮だった。
生きる希望を見失っていた私の心を、それぞれが個性溢れる色で飾ってくれる。それが黒色でもよく分からない濁色であっても、私には暖かい色に思えた。
何より。
何よりも、青空が素敵だった。ゆったりと流れる雲に澄み渡った優しい青色の空、みんなとって当たり前に思えたその光景は、私にとっての希望だった。
「……」
余韻に浸り、そして、私は感嘆の声を零した。
彼が駆け抜けていく音と共に景色は映り変わり、私に常に刺激を与えてくれる。ただその中で唯一、青空だけは私の上に居て、それでも常に私に最高の感激を与えてくれた。
素敵。その一言に尽きた。
こんな光景を私に見せてくれた彼には感謝しかない。私のワガママを聞いて、私を守りながら外に連れ出してくれた彼には、感謝の意を込めて言葉を交わしたかった。
私は、彼の方に顔を向けて、彼の目を見るよりも早くに言葉を発した。
「ねぇ! 私今、とっても―」
あれ、とっても、なんだっけ?
私の頭の中には次に発するべき言葉がもう浮かんでいる。とっても感激している、そう伝えたかった。
けれど、なぜだろうか。彼の目を見ると言葉に詰まってしまった。何か、他に言うべき言葉があるような気がして。
「? とっても、なんですか?」
彼は私に問うてきた。しかし、私は既に周囲の光景の方に目を向けており、彼の顔を見ていなかった。いや、なんだか見れなかった。
「いえ、とっても……感激したの」
「そうですか。よかったです」
……真剣な顔をしていた。
邸宅の中で眺めていた彼の印象は、落ち着いていて、けれど少し抜けていて、スポーツマンのようなガッチリとした雰囲気とは反対の、ふんわりとした雰囲気を帯びているように思えた。実際そうだった。
だが、今私が目撃した彼の瞳には、何か意志を感じたのだ。それこそ、使命でも背負った騎士のような、どこか一点を見つめている感じだった。
落ち着いているという表現にも近いのかもしれないが、どちらかというと、集中していたと言った方が正しいような気がする。見ているこちらが引き込まれてしまう程に。
彼は、私のワガママの為に、私の為にこうして駆けてくれている。身体が弱いと言っていたのに、それを無視してでも私を抱えて街を見せてくれている。
そうか、彼は私に命を捧げてくれているのだ。
本当に命を捧げてくれている訳ではない。ただ、私のために自分を犠牲にしてくれているのは事実だ。
やはり、目を見て彼に感謝の言葉を伝えなくてはならない。ただ、それは「感激している」ではない別の言葉だ。
なら、「ありがとう」と言うのが一番いい気がする。
……。
……本当に?
いや、薄々気がついていた。彼に応えるべき言葉は本当にあると。けれど、私にそれは言えなかった。
いや、言う勇気が無かった。
毒のことがあるから? いや違う、そういう大人な事情ではなくて、もっとこう、少女的な事情で。
薄々、気がついていた。いや、外の景色に感激して彼の顔を眺めたその瞬間、私に感動をプレゼントしてくれた彼の顔を眺めたその瞬間に、本当は私は確信していた。
……そうか、私はこの人のことが……。はぁ、これから辛くなるだろうな。
心の中でそう呟くと、心做しかほんのりとだけ外の景色が暗く見えた。
「どうしたんですかお嬢様、あなたの待ち望んだ外に景色ですよ。ほら、もっと―」
私のことをよく見ている彼は、私の様子にすぐ気がついた。優しくて落ち着くその声が、私の耳に響いてくる。
悟ったように落ち込んだように、遠くの方を見つめていると、自然と全身の力が少しだけ抜けた。……そして、シーツを握る手の力も抜けた。
瞬間、まるでその時を待っていたかのように強い風が吹いてきた。
「きゃっ」
「くっ」
まずい。
見るよりも早く、手の感覚で分かった。シーツが私の手を離れたのだ。
風のせいか彼も動きを止める。そして、一瞬反応が遅れながらも後方へと飛んで行ったシーツをその手で掴もうとしたのが分かった。
私の脚を抱えるその腕に力が入り、そして私を抱えたままのこの腕ではどうしようもないと分かったその時、また力が緩んだ。
流石に他のことなんて考える余裕はなかった。このままでは日差しに照らされ毒が進行していく。やはり私がワガママ言ったのは間違いだったのだろうか。
とにかく私は彼に抱えられながらうずくまった。私の身を守るように、毒から少しでも逃れられるように。
「申し訳ございませんお嬢様! すぐに家の方へと戻りましょう。下から上への道ですから、少々時間はかかりますが……」
彼は今日一番に取り乱して早口にそう言った。すぐに家へ戻る。それが一番賢明な判断だろう。
ただ、彼がそれを言い終える前に私は、自身の体の違和感に気がついた。それを確認するべく、右手を開いて閉じて、また開いて閉じていく。
……力が入る。
何があったのかと思い、右手を覆っていた白い手袋を外した。見ると、私の身体を蝕んでいた毒薔薇の棘が徐々に、枯れるようにして消えていっていた。
……そういえば。私はまた新たに生まれた疑問を確認するべく、自身の体を抱きしめるように強く触れていく。間違いない。
「待って。待って欲しいの」
「どうしたんですか?」
彼は見るからに不思議そうな|表情《かお》をしていた。
「体が……体が痛くないの」
そう、毒が進行すれば痛んでいたはずの体、それが今、この太陽に照らされても全くと言っていいほど痛まないのだ。むしろ、この光が心地いい。
この体の変化と、指先の薔薇の茎が消えていくそれからして、私の身に何が起こったのかは明白だった。
「本当ですか?」
「ええ、私……私、治ったの」
私のその言葉を聞いた途端、今度は彼が顔をそむけた。泣いているのか喜んでいるのかは分からないが、彼のその頬は、少々赤くなっているように見える。
だから今度は私が、彼に質問してみた。
「どうしたの?」
「お嬢様、実はですね。お嬢様の患っているその毒について、一つだけ知っていることがあるんですが、言ってもよろしいでしょうか」
「ええ、いいわよ?」
「その毒、好きな人ができると治るんです」
今度は、私が彼から顔をそむけた。
好きな人ができたら治る、か。はは、やっぱりそうだんだ。だとしたら、私は今相当恥ずかしいんじゃないだろうか。間接的に告白したようになって、そのまま彼にお姫様抱っこまでされていて……。
ああ……。ああ……。
私の頬が彼の頬同様に赤くなっていっているのが自分でも分かった。秋なのに、今日はなんだか暑い日だなー。
それにしても、彼がどうしてそんなことを? そう思い、その理由を彼に聞こうと私は何とか顔を彼の方に向けた。いや、視界の端に捉えられるくらいまでは振り向き直した。
そして、声をかけようとする前に気がついた。
彼の胸元、というか鎖骨の少し下の部分、服のズレ具合でギリギリ見えるか見えないかのところに、私の毒と同じ黒い薔薇の花が咲いていたのだ。しかも、枯れかけている。
……ああ、そういうことか。
瞬間、私の中で全ての合点がいった。
あの後、私達はその場で少し話し込んだ。教会の屋根の上、狙った訳では無いが、今の私達には最適な場所と呼べるのかもしれない。
やはり、彼は昔私と同じ毒に侵されていたらしく、それが理由で一ヶ月前まで外出していなかったようだ。けど、その生活に嫌気が差して、自分への最期の土産として外の景色を眺めることにした。
初めは私と同じような反応をしていたものの、毒の痛みが相当にしんどくなってきた時、もうダメかと思ったらしい。でも、そこで偶然にも私を見た。
そこで彼は思ったようだった。「もっと生きて、もっと彼女のことを見ていたい」と。そして気がついた時には、その身の毒が治っていた。そう、そこで私に一目惚れしたのだ。
そしてここから先は、先程聞いた通り。
流石にあの後お姫様抱っこをされたままは恥ずかしかったので、今は降ろしてもらっている。教会の屋根の上、そこで私達は、ほんの少しだけ距離を空けて座っていた。
会話は何かを避けるようにぎこちなく進み、途切れ途切れに続いていく。顔も、お互いにしっかりと見つめ合うようなことはしなかった。
普通は気まづい空気、けれど、私にとって今のこの空気は、やはり心地が良かった。上手く表現はできないが、日光が外から私を包んで温めてくれるとするなら、今の状態はなんだか、心の内から私を優しく温めてくれている気がしてならなかった。
徐々に会話の波が途切れ途切れではなく平坦になろうとし始めた頃、私はそこに大きな波を起こすように、互いに避けていた核心的なものに話題をもっていくことにした。
やさしく、言葉を呟く。
「ねぇ、私たち、恋人になれないかしら」
「恋人に、ですか?」
身を前に出し、彼の方へと近づく。彼は、私の手が近づくと、それに触れないよう自身の手をやんわりと握りしめた。
「ええ、私、毒のことが気がかりだったの。毒のせいであなたのことを縛ってしまうんじゃないかって。でも、その|枷《かせ》ももう無くなったわ」
「……私に、あなたの恋人が努まりますかね」
彼は謙虚にそう言った。不安に暮れたように、私の顔ではなく私と自分の手元を見る。
そんなに謙遜しなくてもいいのに。ただ現実的に、確かに私と彼では少々身分的な問題があった。貴族と一般市民、そこにはどうしても生まれてしまう壁がある。それを彼は気にしているのだろう。
だか、彼が私を日差しから守ってくれた。なら今度は、私が彼を勇気づける番だろう。
だから私は自身ありげに芯太く、けれどどこか優しさが残る声色で彼に言った。
「大丈夫よ。だってあなたは」
強引にも彼の手に私の手を重ね、驚いて顔を上げた彼の目をしっかりと見て言葉を伝える。
「私の|好きな人《王子様》ですもの」
すると、彼は彼らしい穏やかな微笑みを私に魅せてくれた。
時刻はちょうど昼。時計塔から響いてくる十二時を告げる合図は、私達のことを祝う福音にも聞こえた。