浮かれていた愚かな沙英の目を覚まさせてくれたのは、オフィスに掛かって来た一本の電話だった。
外線を示す着信音に、最も近くにいた沙英が広美を制して出る。
「はい、お待たせいたしま──」
『あの、野村さんはご在席でしょうか?』
「野村は
私ですが……」
聞き覚えのない女性の声。
そもそも、まだまだ新人の部類の沙英を名指しする業務連絡などほぼ存在しないのだ。
『野村、沙英さん?』
「はい、そうです。……あの、失礼ですが」
『仁科
美和子。──仁科 宗史の妻です』
つ、ま。妻……?
単語の意味を理解した途端、衝撃のあまり受話器を取り落としそうになった。
『あなたの携帯に直接掛けてもよかったんだけど、知らない番号からじゃ出てくれないかと思って。職場に掛けちゃってごめんなさいね』
「い、いえ、……あ」
『何も言わなくていいわ。そこでは聞かれたくないでしょ? 会って話したいから折り返してもらえる?』
番号言うから控えて、とどこまでも落ち着いた彼女の声に、どうにかメモを取る。
『それじゃ。すぐじゃなくていいから掛けて来てください』
用件だけ告げて、沙英の返事も待たずに美和子は一方的に通話を終えた。
「野村さん、どうかした? 顔色良くないよ?」
広美の心遣いにどう返したかも記憶にない。
終業までの時間、どうにか座った姿勢を維持するのが精一杯だった。
エントランスを出て人気のない場所で立ち止まる。
私用のスマートフォンから彼女に訊いた番号に掛けて、待ち合わせた喫茶店。
「机の上に赤いカバーの本を置いておくから」
それを目印に美和子を見つけ、彼女に断って二人掛けのテーブルの前の席に腰を下ろす。
「わ、私、……仁科さんがご結婚されてるなんて知らなかったんです! 本当に、あの」
何よりもまずこれだけは伝えなければ、と『恋人』の妻に切り出した沙英に、美和子は薄らと笑みを浮かべて頷いた。
「大丈夫。メッセージ見たからわかってます」
「メッセージ、……ご覧になったんですか?」
「ええ。あいつ、指紋ロック掛けてるから、寝てる間に指当てて解除してやったの」
恋人同士の甘く他愛無い会話。他人に見られることなど想定もしていなかった。露骨な表現などはなかったはずだが、何ともいたたまれない。
「野村さんは宗史がフリーだって前提で話してたし、あいつははっきり『独身だ』って言ってる。疑う余地ないわね。あなたは『騙された』被害者よ」
「あの、わかっていただけて、あ、ありがとうございます」
こういう場で口にすべきことなど沙英にはわからない。
とりあえず、信じてもらえたことに安堵して礼を述べた。
職場では、宗史とのことは一切口にしても、匂わせてすらいない。
先輩の広美が彼にいい感情を持っていないのは明白だったのも大きかった。
彼女には担当の仕事でも、職場に馴染む上でも言葉に尽くせないほど世話になっている。
不快な思いをさせる可能性は、できる限り排したかった。
それ以前に、もともと沙英は個人的なことを周りに話したがる性格ではないのだ。
だから選ばれた、……狙われたのかもしれない。あの卑劣で姑息な、確かに恋人だと信じていた男に。
「あの男とは別れるつもりなの。だからあなたに協力してほしいのよ」
「協力、ですか? 私にできることなら何でもします。本当に申し訳──」
「謝ることないわ。……まあ、ここで開き直られたらそりゃイラつくけど、それはそれとして」
美和子のさばさばした口調。
もともとそういう性格なのかもしれないが、おそらくは沙英などには窺い知れない何かが夫婦の間に積み重なっていたのではないか。
「もし怖がってたら気の毒だから言っとくけど、あなたに何かするつもりなんかないから。『独身だって偽った』あいつが100%悪いんだし、慰謝料とか全然気にする必要ないのよ。むしろあなたがあいつに請求すれば?」
逆に沙英を心配してくれるかのような彼女の言葉に、目が合わせられない気になる。
「いえ、私はそんな。そんな資格ないです」
既婚者だと知って確かに傷ついた。許せないと思った。
しかし、目の前の彼女にとっては、自分はやはり単なる被害者ではないと感じてしまう。
「『独身だって嘘ついて騙された。知らないうちに不倫の片棒担がされてショックを受けた』って証言して。あなたのことは私が守る。……って言っても信用できないだろうから、これあげるわ」
美和子がテーブルの上を滑らせて寄越した、掌に握り込めるほどの黒く細長い機器。先端の赤いランプが点灯している。
「何ですか?」
「ICレコーダー。今のやり取りが入ってる」
「レコーダー、……これが」
存在自体は知っていたが、これほど小さなものなのだ、と驚きが隠せなかった。
「それでも不安なら一筆書いてもいいわよ。私、これから弁護士事務所行くんだけど一緒に来る?」
彼女が重ねた言葉を、思わず両手を振って否定する。
「いえ! そこまでは。奥様のこと信じます。もし、……もし『何か』あっても私が甘かったんですから」
「今私が言うのも変だけど、あなた本当にいい子ねぇ。きちんとマトモな常識があって『育ちが良い』とでも言うのかしら。あいつほんとに許せない。こんな純な子に」
責められないからこそ、かえって辛かった。悲劇のヒロインになりきるほど幼くもない。
──ただ、苦しくて哀しかった。