不意に頭に過る、二人の関係が変わった日。
単なるサークルの友人だった。気持ちはともかく、二人の間には明確な形は何もなかった。
あの日。サークルの活動はなく、部室に顔だけ出したのだ。
同じく集まった顔触れのうち、いつも通りすぐ帰るという彼と連れ立って部室を後にした。
大学から駅に向かう長い一本道を二人並んで歩く。他のメンバーは大抵残って雑談に興じるため、もう恒例のようになった帰り道の光景。
「堀田くん、あのカフェ新作出たんだって。あたし飲みたいな。一緒にどう?」
「あ、うん。いいよ」
もう少ししたら駅に向かう彼に別れを告げて、早弓は曲がり角の先の自宅マンションへと向かう。
せっかくの二人きりの時間もすぐに終わってしまう、と感じた途端に誘いを掛けていた。
新作ドリンクを飲みながら、普段と何ら変わらない会話を交わす。
二人のカップが空になって、ここまでか、と名残惜しく感じつつも腰を上げて店を出た。
ほんの数歩で、手にぽつんと当たる
一滴を感じる。
天を仰げば、真っ直ぐ落ちてくる雨の矢。夕立か。二人とも、傘も持っていなかった。
彼がどうかは知る由もないが、早弓は登校前にスマートフォンで天気予報は確かめている。
降水確率は二十パーセント。「傘は必要ないでしょう」となっていた「傘指数」に一度は安心した。
梅雨の合間の貴重な晴天。
しかし心の奥では確信めいた予感があった。いや、むしろ雨が降ることをどこかで期待していた、のかもしれない。
だから、傘を
持たずに家を出たのだ。
「ね、ねえ! あたしの部屋、すぐ傍なの! 知ってるよね!? 雨宿りしていかない?」
期待通りに降り出した雨に、思い切って切り出した。もっと降り続くよう念じながら。
「え、……でも、早弓ちゃん一人暮らしだよね? 女の子一人の部屋になんて──」
「いいから! このままじゃずぶ濡れになっちゃう! あたしが濡れたくないの!」
戸惑いながらも固辞する雰囲気の彼に、有無を言わせないよう言葉を被せる。
「やっぱり僕、ここにいるよ。降るって言ってなかったしすぐ
止むと思う。だからそれまでいさせてもらえば。早弓ちゃんは早く入って。やっぱり女の子の部屋はちょっと、その……」
雨脚に追い立てられるように走って、辿り着いた部屋。解錠してドアを開けた早弓に、今更のように彼は尻込みした。
「あのさあ、部屋の前にこんな濡れた男が立ってる方が迷惑なのよ。わかんない?」
ここまで来て逃がす気はない、とばかりに自然口調も強くなる。
「あ、あ! じゃあ傘借りて帰──」
「もう、あたし濡れて気持ち悪いんだって。さっさと着替えたいのよ! ほら入って!」
強引に腕を掴んで玄関に引っ張り込んだ。
あれが、二人の始まりだった。
文字通りの通り雨で、降っていたのはほんの数十分。
しかし賢人が早弓の部屋を出たのは、雨上がりどころかもうすっかり夜の
帳も降りた頃だった。
特に何をしたわけでもない。ただ二人で一緒に過ごす、それだけで幸せを感じた。
あれから一年が経つ。
もう一年。たった、一年……?
季節はまた、梅雨。雨続きの日々に気も滅入る。
だからこそ、たまの晴れ間は嬉しいはずなのに。
昨日の太陽の下でのデートも、仕方なく足を運んで共に過ごすだけの、「彼女として」の義務に成り下がっていた。
いつの間に、こんなに贅沢になってしまったのだろう。
翌日大学で捕まえて、久し振りに、……本当にいつ以来かと記憶を探らねばならないほど珍しく、早弓の方から賢人を遊びに誘った。
少し驚いた風に、それでも嬉しそうな彼。
今日も空には一応晴れ間が広がっていた。しかしあの日と同じ、予感がする。
大学から駅への道で、足元のアスファルトに一つ、二つ、あとはもう数えられない。あっという間に道路の色を変えて行く、雨粒。
「賢人! あたしの部屋に来て。今濡れたくないの!」
「あ、うん。そうだね、行くよ」
──恵みの雨。こんなのすぐに上がるわ。通り雨、今だけの。だからこのタイミングも幸運ってことよね。
「ねえ、早弓。覚えてる? ──僕たちのスタートも雨だった」
来ていたパーカーを素早く脱いで早弓の頭から上半身に被せ、自分は鞄を頭にかざすようにして駆け足で早弓の部屋に向かいながらの賢人の言葉。
覚えている。……ようやく、思い出した。
賢人は今も信じているのだろうか。あれが単なる
偶然だと。
小細工を弄するくらいにこの人が好きだった。互いに想いがあるのもわかっていて、一歩踏み出す勇気が持てなかった。彼の方も、きっと。
あの頃の熱い気持ちを忘れていた。なくしたわけではない。ただ、優しい恋人に甘えていただけなのだ。
すべての始まりと同じ早弓の部屋。玄関ドアを入った途端にすぐ後ろの彼に向き直る。
「賢人。あたし雨嫌いだった。なんか鬱陶しくて。──でも、賢人と一緒にいると雨もそう悪くないって思える。いつか必ず上がるしね」
──あの日も今日も、雨があたしの背を押してくれた。でもそれはただのきっかけ。もう「雨」に頼らなくてもあたしが考えて動くわ。この「幸せ」を大事にする。
遠回しで謎掛けのような台詞に恋人は少し驚いた表情を見せたが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「僕も別に雨なんて好きじゃないよ。でも今こうして早弓といられるのは、あの雨のおかげだから」
その言葉に早弓は無言で靴を脱ぎ、彼の手を引いて部屋に上がった。
これからは自分の気持ちを素直に伝え、賢人との関係を大切にしようと心に決める。
「あ、雨
止んだ?」
二人でローテーブルに向かい合いコーヒーを飲んでいると、賢人が窓の方を見て呟いた。
早弓もそちらへ目を向けると、窓の向こうには雨上がりの澄んだ空が広がっていた。
~END~