テニスを辞めた俺には大したものが残っていなかった。
常人よりもやや多い体力と優れた動体視力。そして語学力。プロになったときのためにと勉強していた外国語は今や簡単な会話くらいなら難なくこなせるのだが、それを活用する前に俺は舞台から降りてしまったのだ。
今や日本に掃いて捨てるほどいる大学生の1人。ワンルームのアパートへと帰るため、電車に乗って揺られているとますます自分の存在がちっぽけに思えてくる。
まぁ実際ちっぽけだしな。ついさっき彼女にフラれたし。
座席の一番端っこで壁に寄りかかりながら自嘲する。今回は上手くいきそうだと思ったのだが思い違いだったらしい。
また孤独な生活に戻るだけ。一応友達もいるし、実家がある千葉へ帰れば家族もいるから天涯孤独ではないけれど、それでも、これまで心の一部を占めていた存在が消えてしまった。
ままならないもんだな。心の中でため息を吐き目をつぶる。
暗闇の中で音だけが聴こえる。電車が停まる音、ドアが開く音、人々の足音が連続し、ガヤガヤと騒がしい。
早く家に帰って寝たい。そんなことを考えていると、不意に、左半身にかすかな熱を感じた。
ゆっくり目を開けて黒目だけを動かす。俺が座っている左隣に女性が座っていた。
女性、いや、よくよく見てみると女子高生だ。かなりハイソなデザインの真っ白な制服を着ていて、足もぴったりと揃えている。
角度的に顔が見えない。まぁ見えたからと言ってだから何だという話だが。
ひとまず俺は少し姿勢を変えて女子高生に密着しないように隙間を作った。別にやましいことをするつもりなんて毛頭ないが、こういうのは自衛する意識が大事なのだ。
足元に置いていたバッグも膝の上に置き、ギュッと抱きしめる。腕を組むような形で両手を塞ぎ、再び目をつぶった。
やがてまた電車が走る音だけが聴こえてくる。
あと10分ちょっと我慢すれば最寄り駅だ。途中でコンビニに寄って寝落ちするためにキツめの酒を買っておかなければ。
それにしても、彼女は俺のどこが無理だったのだろうか。
うぬぼれるわけではないが、出来る限り尽くしたし、彼女のために金も時間も捻出した。
楽しい時間が過ごせるように行動していたのだが、どうにもうまくいってなかったらしい。
『ていうか、ほんとは日之太、誰のことも好きじゃないでしょ。人間に興味ないんじゃない』
そんなことないよ。本当に。むしろ人の憶えはいいほうなんだ。君のことだって、君が俺を知る前から知ってたし。本当に好きだったよ。
優しいところも、少しドライなところも、あんまり物をねだってこないところも、細い目でこっちを見ながらお酒を飲んでいるところも、酒に酔うと人の身体を舐める癖があるところも、あまり話したくない俺の過去も詮索してこないところなんて、一番好きだった。
結構ちゃんと好きだったのにな。
『まもなく――、――、お出口は右側です。――線お乗り換えのお客様は――』
ぼんやりとした意識の中で聴こえてきたアナウンスにハッとする。もう降りる駅だ。
「……うわっ」
目頭を揉もうとしたところで自分が泣いていることに気付く。左目に涙の筋ができていた。
思っていたよりもショックだったらしい。恥ずかしすぎる。
クシクシと頬を擦って涙の筋を潰す。別に誰かに見られているわけじゃないけれど、このままっていうのも嫌だ。
どこかで顔を洗うか、いや、この調子だと酒飲んだら泣くから意味ないな。じゃあもういっそ飲まないでそのまま寝るか。いやそれもない。酒がないと乗り越えられる気が――さっきから左側がやけに熱い気がする。
我慢できず首を回す。俺の隣に座っていた女子高生が思いっきり寄りかかって寝ていた。
ふわふわに巻かれた長い黒髪とあどけない顔立ち。美人というよりも可愛らしいタイプの美少女はすやすやと穏やかな寝息をたてながら俺の左腕にもたれかかって睡眠中だ。
ひじょうにまずい。次の駅で俺は降りなきゃいけないのに美少女はぐっすり眠っている。
このまま俺がなりふり構わず立ち上がれば寄りかかっていたこの子はその勢いのまま横に倒れるだろう。そうなるとひじょうにいたたまれない。
とはいえここで起こすのもアレだ。そもそもここまでしっかり寝ていると少し揺らす程度では起きそうにない。ならば肩に触れて揺らすとか声をかけるとかしなければならないのだがそれもまた面倒だ。
自然に起きるのを待つしかないのか――電車が駅に着き、ドアが開く。微動だにせず寝ている美少女に俺はそっとため息を吐く。
まぁいいだろう。どうせこの後は帰るだけなんだ。別に待ってる人がいるわけでもないし。
電車のドアが閉まる。降りるのを諦めた俺は再び隣にいる美少女に視線をやる。
改めてみるとやはり可愛い女の子だ。まつ毛が長くて、ほっぺたは柔らかそうで、なんというか、女の子らしい丸みのある体型で、それでいて色白で、ほんのり制汗剤の匂いがした。
にしてもすごい寝てる。女子高生って外でこんな爆睡するものなのか。
さっきまで俺の左腕に寄りかかる感じだった美少女は、今や体勢が崩れつつある。膝の上に置いた俺のバッグにほとんど顔を突っ込んでいるのだ。
とはいえここまできてしまった以上迂闊に手は出せない。俺は左半身に全神経を集中させながら微動だにせずその場をやり過ごした。