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変わらずにいたかった

ー/ー



「ピアス!」
 女帝磯部が怒鳴っている。
「今取るとこなの! いちいちうっさいんですけど!」
「はぁ? うざい(・・・)ですって!?」
 分厚い眼鏡越しにしょぼしょぼ小さくなっていても、その眼光と目力は十分過ぎる。
「う・る・さ・いって言ったんですぅー! 何だってそんなにあたしの耳に目凝らしてるかなぁ」

 朝、通勤用スタイルの片耳ピアスを取っていないと、守谷が怒鳴られているところだ。
「あんたが取り忘れてるの注意してあげてるんだわよ。ありがたく思いなさい!」
 こっちこそ磯部先生の動体視力を鍛えてあげてんじゃん、と守谷が応酬する。もはや朝の一コマ劇場みたいになっているこのやりとり。

 守谷玲峰は今やすっかり秋羽台高校に溶け込んでいる。時々生徒に混じって一緒くたに女帝に怒鳴られたりするほどに。
 けれど険悪にならないのは、一周まわって最終的に守谷が磯部女帝に従うからで、結局のところ校内のヒエラルキーは覆らなかったということらしい。
 最初は割れていた守谷に対する評価も、おおむね「いい先生」「楽しい先生」「明るくてさっぱりしてる」「けっこう好き」「大好き」となって人気上昇中。そして何だかんだで見た目がいいから、小ぎれいな服を着ると映える。

「そのシャツ、ポールの?」
 職員室から出てきた守谷に南緒が親し気なボディタッチで付きまとう。
「あ、わかった! このあいだ言ってた新しく買ったやつだ!」
 自分が一番彼を知っているのだという、全校女子に向けたマウンティング。

「めっちゃ似合ってる! 玲峰先生モデルになれるよ!」
「そうなの玲峰って美人過ぎるからぁ、何着ても似合っちゃうのー」
 しかし毎度鮮やか過ぎる手腕でかわされている。
 あたし絶対に前世で徳積んでると思うよねー、とか言いながら、掴まれた腕をするっと抜いて華麗に去っていく。    
 拒絶すらされないでいつもはぐらかされている南緒は、勝ちか負けかで言ったら惨敗続きだけれど、多分このハンティングそのものを楽しんでいる。難攻不落な男を攻略するのはそれはもうやりがいがあるだろう。誰かに恋してる南緒の目はキラキラしてるし楽しそうだ。

「絶対どこか弱点があるはずなんだよね」
 ほら、こうして1ミリもめげちゃいない。
「今度美術室で襲っちゃおうかなー」
 でもそれはたぶん無理だ。相手が悪い。

「そうそう盟子、さっき伝えてって頼まれたんだけど」
 後ろ姿まで余すところなく目の保養にした南緒は、その背中が見えなくなったところで思い出したように盟子に向き直った。
「雄眞がさ、盟子に用事あるみたい」
「はあ、うん、小林が?」
「うん、話があるとか言ってた。だから、放課後に1組に行ってあげてくれる?」
 いいことあるかもよ、と。
 南緒はそう言った後にいたずらっぽい笑顔を浮かべた。



 平和過ぎる午後だった。
 部活も休みで予定もない放課後は、シロップもバターもかかっていないパンケーキのようにふわふわとしてとりとめもなく単調だった。

「おーい小林、来たよー!」
 1組をのぞき込むと、雄眞はすぐに気付いて軽く手を上げた。
「わりぃわりぃ。さ、帰ろ」
「あれ、帰るの?」

 用事じゃなかったのだろうか?などとと思いつつ、黒いリュックの背中に続く。引きつった襟を直しながら、何か食いに行こうぜと雄眞が振り向いた。
 中学の頃は刈り上げていた髪が今はうなじのあたりまで伸び、ぽっちゃりしていた頬は大分削げてきた。背も少し高くなって、並べば男子らしい肩が目につく。

「え、食べに行くの? お金ないよ」
「奢るよ」
「え、ほんとに? やったー!」
 盟子は単純に喜んだ。
「メロンソーダがいい! アイス入りでさくらんぼ乗ったやつ」
「おこちゃまか!」
「そこまで言うならクレープでもいいんだけど?」
「草でも食っとけ。太るぞ」
「セクハラだー」

 小林雄眞とは幼馴染で家族同士も仲が良くて、南緒よりかは遥かに気安い相手だ。
 思ったことをポンポン言ってしまえるし、ノリよく返すことだってできる。

「こないだごめんね」
 とりあえず駅ビルに行くことが何となく決まると、並んで歩きながら盟子は口を開いた。
「は?」
「予備校のこと。南緒に色々言われたんでしょ? おばさんたちにも迷惑かけちゃったよね」
 勝手に美大受験へと仕向けられて困っていることも、雄眞ならきっと解ってくれる。
 一番最初に心を開いたのは、小学生の時の遠足で雄眞が盟子の歩調に合わせてくれた時だ。ずんずん先へ行って盟子を置き去りにしたりはしなかった。そういう優しいところがあった。

「別に迷惑なんかじゃないよ。梅崎は美大に行きたいんだろ?」
 違う違う、と盟子は頭をぶんぶんと振った。
「そんなこと決めてないよ! だってまだ2年の4月だよ? なのにさ、南緒が勝手に先走って、うちのお母さんもそれに乗っちゃって。みんなして嫌になっちゃう」
 あの子、美術の守谷先生のこと好きだからって私を利用してるんだよ!と憤慨する。
「そうなの?」
「だって美大受験の相談とか言って守谷先生のところにしょっちゅう連れていかれるんだから。自分が受ければいいのに」
 雄眞が相手だと安心して本音を言える。「ふうん、そうか」とまずは受け止めてくれのがわかってるから。

「……ところで小林はさぁ、もう進路とか決めたの?」
「んー、俺は公務員目指してるから、とりあえずどっかの四大かな。んで地元に就職するつもり」
「え、そうなの?」

 すらすらと淀みなくそう返ってきたのは意外だった。そういえば、仲良くしていた割に雄眞の進路なんて聞いたことがなかった。

「公務員なら安定してるし。親にもそう言われてるから。家のことは兄貴が継ぐんじゃないかな。地元に残ってれば何かの時にサポートもできるし、兄弟助け合えるし」
「すごーい」
 薄っぺらい感嘆詞しか出てこない自分が急に恥ずかしくなる。
 親の意を汲んで、家のことも考えて、安定した公務員をまっすぐ目指している雄眞。
 少なくとも、美大を勧められて拒否することもできずぐちぐち言ってる盟子よりかは遥かに先を歩いてる。見慣れているはずの横顔が急に大人びて見えてくる。

「自立してまっとうに生きてくことが何よりも最優先だろ」
「すごいね小林、見直した! そんなしっかり者だと思わなかった」
「なんだよ、俺のことどんな風に見てたわけ?」

 そんな話をしながら駅ビルに立ち寄り、バニラアイス入りで赤いチェリーの乗ったメロンソーダが今、盟子の前でストローを差し込まれるのを待っている。

——夏が来るなぁ。

 ぱちぱち弾けながら喉を落ちていくメロンの香りは、これから到来する季節を予感させた。
 本物のメロンとは違う、この緑色のメロンの香りが好き。体の中に溜まっていくソーダの冷たさも。

「はぁ、美味しー!」
 その横で雄眞は何故かさっきから不自然に黙り込んでちびちびとコーラを吸っている。その様子に違和感をおぼえて、盟子は雄眞の目を覗き込んだ。
「ごめん、私一人で満足しちゃってたけど、大丈夫? 具合でも悪いとか?」

 返事はなかった。代わりに張り詰めたような瞳が盟子を捕まえて離さない。

「……そろそろ気付いてくんないかなぁ」
「えっ?」
「梅崎、俺たち付き合わない?」

 頭をがつんと殴られて、魂が飛び出たみたいな衝撃だった。
 飛び出た魂は盟子本体の少し上から、何とも居心地の悪いこの沈黙を見下ろしている。そんな感じ。
 本体の方は、しばらく身動きがとれず言葉も出てこなかった。

「いい加減気付いてよ。俺、梅崎のことずっと好きだった」
 怒ったようにこちらを見つめる雄眞の瞳は熱くて、逃げ場がなくて焦る。そこには明らかな苛立ちが滲んでいた。ずっと一途に見つめてきたのに一向にそれに気づかない盟子に対して。

「あ、ありがとう……」
 咄嗟に盟子の口から出てきたのはお礼だった。
 ありがたい、のだろうか。解らない。でも好いてもらえるというのはきっとありがたいに違いない。

「それって、OKってこと?」
「えっ」
「梅崎のこと、ちゃんと守るし大事にする。だから俺、公務員になろうって決めた。梅崎は美大に行きたいんだろ? 行けばいいよ。後は俺がちゃんとするから」

——ちょっと待って、それって一体……!?

 公務員。安定。行けばいいよ。俺がちゃんとする。
 それらの言葉が頭の中をぐるぐるして、眩暈がしてくる。

「ダメなの?」
「えっと、それは……」

 わからない。今までのままがよかった。一番身近な男友達でいてほしかった。

 いつのまにかアイスクリームがとろけ、メロンソーダの緑色がすっかり濁ってしまっている。
 もう、元の透明には戻れない。
 さっきまでの気安い雄眞はもうこの世界のどこにもいないと思うと、絶望がひたひたと胸に押し寄せてきた。

 私たちずっとずっと、変わらずにいたかったのに。



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「ピアス!」
 女帝磯部が怒鳴っている。
「今取るとこなの! いちいちうっさいんですけど!」
「はぁ? |うざい《・・・》ですって!?」
 分厚い眼鏡越しにしょぼしょぼ小さくなっていても、その眼光と目力は十分過ぎる。
「う・る・さ・いって言ったんですぅー! 何だってそんなにあたしの耳に目凝らしてるかなぁ」
 朝、通勤用スタイルの片耳ピアスを取っていないと、守谷が怒鳴られているところだ。
「あんたが取り忘れてるの注意してあげてるんだわよ。ありがたく思いなさい!」
 こっちこそ磯部先生の動体視力を鍛えてあげてんじゃん、と守谷が応酬する。もはや朝の一コマ劇場みたいになっているこのやりとり。
 守谷玲峰は今やすっかり秋羽台高校に溶け込んでいる。時々生徒に混じって一緒くたに女帝に怒鳴られたりするほどに。
 けれど険悪にならないのは、一周まわって最終的に守谷が磯部女帝に従うからで、結局のところ校内のヒエラルキーは覆らなかったということらしい。
 最初は割れていた守谷に対する評価も、おおむね「いい先生」「楽しい先生」「明るくてさっぱりしてる」「けっこう好き」「大好き」となって人気上昇中。そして何だかんだで見た目がいいから、小ぎれいな服を着ると映える。
「そのシャツ、ポールの?」
 職員室から出てきた守谷に南緒が親し気なボディタッチで付きまとう。
「あ、わかった! このあいだ言ってた新しく買ったやつだ!」
 自分が一番彼を知っているのだという、全校女子に向けたマウンティング。
「めっちゃ似合ってる! 玲峰先生モデルになれるよ!」
「そうなの玲峰って美人過ぎるからぁ、何着ても似合っちゃうのー」
 しかし毎度鮮やか過ぎる手腕でかわされている。 あたし絶対に前世で徳積んでると思うよねー、とか言いながら、掴まれた腕をするっと抜いて華麗に去っていく。    
 拒絶すらされないでいつもはぐらかされている南緒は、勝ちか負けかで言ったら惨敗続きだけれど、多分このハンティングそのものを楽しんでいる。難攻不落な男を攻略するのはそれはもうやりがいがあるだろう。誰かに恋してる南緒の目はキラキラしてるし楽しそうだ。
「絶対どこか弱点があるはずなんだよね」
 ほら、こうして1ミリもめげちゃいない。
「今度美術室で襲っちゃおうかなー」
 でもそれはたぶん無理だ。相手が悪い。
「そうそう盟子、さっき伝えてって頼まれたんだけど」
 後ろ姿まで余すところなく目の保養にした南緒は、その背中が見えなくなったところで思い出したように盟子に向き直った。
「雄眞がさ、盟子に用事あるみたい」
「はあ、うん、小林が?」
「うん、話があるとか言ってた。だから、放課後に1組に行ってあげてくれる?」
 いいことあるかもよ、と。
 南緒はそう言った後にいたずらっぽい笑顔を浮かべた。
 平和過ぎる午後だった。
 部活も休みで予定もない放課後は、シロップもバターもかかっていないパンケーキのようにふわふわとしてとりとめもなく単調だった。
「おーい小林、来たよー!」
 1組をのぞき込むと、雄眞はすぐに気付いて軽く手を上げた。
「わりぃわりぃ。さ、帰ろ」
「あれ、帰るの?」
 用事じゃなかったのだろうか?などとと思いつつ、黒いリュックの背中に続く。引きつった襟を直しながら、何か食いに行こうぜと雄眞が振り向いた。
 中学の頃は刈り上げていた髪が今はうなじのあたりまで伸び、ぽっちゃりしていた頬は大分削げてきた。背も少し高くなって、並べば男子らしい肩が目につく。
「え、食べに行くの? お金ないよ」
「奢るよ」
「え、ほんとに? やったー!」
 盟子は単純に喜んだ。
「メロンソーダがいい! アイス入りでさくらんぼ乗ったやつ」
「おこちゃまか!」
「そこまで言うならクレープでもいいんだけど?」
「草でも食っとけ。太るぞ」
「セクハラだー」
 小林雄眞とは幼馴染で家族同士も仲が良くて、南緒よりかは遥かに気安い相手だ。
 思ったことをポンポン言ってしまえるし、ノリよく返すことだってできる。
「こないだごめんね」
 とりあえず駅ビルに行くことが何となく決まると、並んで歩きながら盟子は口を開いた。
「は?」
「予備校のこと。南緒に色々言われたんでしょ? おばさんたちにも迷惑かけちゃったよね」
 勝手に美大受験へと仕向けられて困っていることも、雄眞ならきっと解ってくれる。
 一番最初に心を開いたのは、小学生の時の遠足で雄眞が盟子の歩調に合わせてくれた時だ。ずんずん先へ行って盟子を置き去りにしたりはしなかった。そういう優しいところがあった。
「別に迷惑なんかじゃないよ。梅崎は美大に行きたいんだろ?」
 違う違う、と盟子は頭をぶんぶんと振った。
「そんなこと決めてないよ! だってまだ2年の4月だよ? なのにさ、南緒が勝手に先走って、うちのお母さんもそれに乗っちゃって。みんなして嫌になっちゃう」
 あの子、美術の守谷先生のこと好きだからって私を利用してるんだよ!と憤慨する。
「そうなの?」
「だって美大受験の相談とか言って守谷先生のところにしょっちゅう連れていかれるんだから。自分が受ければいいのに」
 雄眞が相手だと安心して本音を言える。「ふうん、そうか」とまずは受け止めてくれのがわかってるから。
「……ところで小林はさぁ、もう進路とか決めたの?」
「んー、俺は公務員目指してるから、とりあえずどっかの四大かな。んで地元に就職するつもり」
「え、そうなの?」
 すらすらと淀みなくそう返ってきたのは意外だった。そういえば、仲良くしていた割に雄眞の進路なんて聞いたことがなかった。
「公務員なら安定してるし。親にもそう言われてるから。家のことは兄貴が継ぐんじゃないかな。地元に残ってれば何かの時にサポートもできるし、兄弟助け合えるし」
「すごーい」
 薄っぺらい感嘆詞しか出てこない自分が急に恥ずかしくなる。
 親の意を汲んで、家のことも考えて、安定した公務員をまっすぐ目指している雄眞。
 少なくとも、美大を勧められて拒否することもできずぐちぐち言ってる盟子よりかは遥かに先を歩いてる。見慣れているはずの横顔が急に大人びて見えてくる。
「自立してまっとうに生きてくことが何よりも最優先だろ」
「すごいね小林、見直した! そんなしっかり者だと思わなかった」
「なんだよ、俺のことどんな風に見てたわけ?」
 そんな話をしながら駅ビルに立ち寄り、バニラアイス入りで赤いチェリーの乗ったメロンソーダが今、盟子の前でストローを差し込まれるのを待っている。
——夏が来るなぁ。
 ぱちぱち弾けながら喉を落ちていくメロンの香りは、これから到来する季節を予感させた。
 本物のメロンとは違う、この緑色のメロンの香りが好き。体の中に溜まっていくソーダの冷たさも。
「はぁ、美味しー!」
 その横で雄眞は何故かさっきから不自然に黙り込んでちびちびとコーラを吸っている。その様子に違和感をおぼえて、盟子は雄眞の目を覗き込んだ。
「ごめん、私一人で満足しちゃってたけど、大丈夫? 具合でも悪いとか?」
 返事はなかった。代わりに張り詰めたような瞳が盟子を捕まえて離さない。
「……そろそろ気付いてくんないかなぁ」
「えっ?」
「梅崎、俺たち付き合わない?」
 頭をがつんと殴られて、魂が飛び出たみたいな衝撃だった。
 飛び出た魂は盟子本体の少し上から、何とも居心地の悪いこの沈黙を見下ろしている。そんな感じ。
 本体の方は、しばらく身動きがとれず言葉も出てこなかった。
「いい加減気付いてよ。俺、梅崎のことずっと好きだった」
 怒ったようにこちらを見つめる雄眞の瞳は熱くて、逃げ場がなくて焦る。そこには明らかな苛立ちが滲んでいた。ずっと一途に見つめてきたのに一向にそれに気づかない盟子に対して。
「あ、ありがとう……」
 咄嗟に盟子の口から出てきたのはお礼だった。
 ありがたい、のだろうか。解らない。でも好いてもらえるというのはきっとありがたいに違いない。
「それって、OKってこと?」
「えっ」
「梅崎のこと、ちゃんと守るし大事にする。だから俺、公務員になろうって決めた。梅崎は美大に行きたいんだろ? 行けばいいよ。後は俺がちゃんとするから」
——ちょっと待って、それって一体……!?
 公務員。安定。行けばいいよ。俺がちゃんとする。
 それらの言葉が頭の中をぐるぐるして、眩暈がしてくる。
「ダメなの?」
「えっと、それは……」
 わからない。今までのままがよかった。一番身近な男友達でいてほしかった。
 いつのまにかアイスクリームがとろけ、メロンソーダの緑色がすっかり濁ってしまっている。
 もう、元の透明には戻れない。
 さっきまでの気安い雄眞はもうこの世界のどこにもいないと思うと、絶望がひたひたと胸に押し寄せてきた。
 私たちずっとずっと、変わらずにいたかったのに。