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下手以前の問題

ー/ー



 気付けば時計は17時前を指していた。

 立ち上がって、固まった筋肉と関節を伸ばす。いつのまにか日は落ちて、勢いを失った青空は夕暮れの色に傾いている。
 窓を開けると外はひんやりとしていた。4月の夕方はまだ少し肌寒い。
 風に乗る耳慣れたメロディは、4階で吹奏楽部が奏でているものだ。今日は進路相談ということで部活は休んだ。普段通りならあそこに盟子の音も混じっているはずで、どうして私ここにいるんだろうな?なんて今更思う。

……このデッサン。守谷先生の目にはどう映るだろう。

 見苦しくない程度にはまとめたつもりだけれど、「悪くないね」とかなんとか言われて美大受験を勧められるのも困る。とにかく絵を見たら解るというのだから、あとは運を天に任せるしかない。
 隣の美術室は美術部の生徒たちが使用していたので、盟子が美術準備室で描いている間、守谷は職員室に移動していた。だからこれから呼びに行かなくてはいけない。緊張するし気が重い。

「失礼、します……」
 タイピングの音が響くの放課後の職員室をのぞき込むと、パソコンに向かっていた守谷が顔を上げた。ふんわりとインスタントコーヒーの香りが満ちたその空間に、原色シャツのお兄さんは何だかやっぱり馴染まない気がする。

「おつー」
 にこっと華やかに微笑んですっと立ち上がる。
 言葉遣いは若者っぽいのに、凛として頭と肩を揺らさない足運びは格調高いという言葉がふさわしい。歩くだけで思わず見とれてしまう。
 南緒の言う「かっこいい」とか「イケメン」とは違う、けれど目を離せなくさせる何かが確かにある。ただし変な人なのは間違いない。

「どうだった?」
「難しかった、です」
「思ったように描けた?」
「はぁ、それなりに」

 守谷がイーゼルの前に立つのを、その無駄のない背中を、盟子は少し離れた後ろで戦々恐々として見守った。時計の秒針がやたらと克明に聞こえ、手をぎゅっと握りしめる。指先は冷たいのに掌が汗ばむ。

「……梅崎さん、あなたさ」
 30秒程だった。
 そうして、小さくため息を吐く。そこに微かな落胆のような色を、盟子は感じた。
 「小手先、器用だよね」
 気のせいだろうか。どことなく険のある口調。背後からは表情を確かめようもないけれど。

「予備校っていうか、美大受験そのものを考え直した方がいいと思う。どうしても行きたいっていうなら別だけど、そこまでの熱意もないんじゃない?」
「えっ?」
 明らかに褒められているのではないと気付く。美大はちょっと厳しいかもねという言い回しとは、何かが違ってる。
 美術の先生にダメだと太鼓判を押されたなら、それはそれでよかったのかもしれない。でも「小手先が器用」ってどういうことなのだろう。
 その真意を測りかねて、下手でしょうか?とおそるおそる訊いてみる。

「上手とか下手とか以前の問題だよね。あとは片付けとくから帰っていいよ。絵、持って帰るならどうぞ」

 かしゃん、と。
 目の前でシャッターを下ろされたような感じだった。

 それじゃあね、と向けられた笑顔が逆によそよそしくて、とりつくしまもなくて。
 守谷は美術準備室を出ていき、一人取り残されたこの部屋の空気までが盟子を拒んでいる気がする。もはや画材に手を触れるのすら許されないような。

 悩んだ挙句、盟子は木炭だけケースに戻し、描き上げたラボルトはくるくる丸めて片隅のゴミ箱に捨てた。教室のゴミ箱に捨てるわけにはいかないし、かと言って家に持って帰れば母を刺激しそうで。そうする他なかった。
 それに、どうせゴミになるだろうものを、守谷の手を煩わせるよりはと思ったから。

 細長いゴミ箱は丸めた画用紙の幅にぴったりだった。まるでこうなるのを解っていたように。



次のエピソードへ進む 変わらずにいたかった


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 気付けば時計は17時前を指していた。
 立ち上がって、固まった筋肉と関節を伸ばす。いつのまにか日は落ちて、勢いを失った青空は夕暮れの色に傾いている。
 窓を開けると外はひんやりとしていた。4月の夕方はまだ少し肌寒い。
 風に乗る耳慣れたメロディは、4階で吹奏楽部が奏でているものだ。今日は進路相談ということで部活は休んだ。普段通りならあそこに盟子の音も混じっているはずで、どうして私ここにいるんだろうな?なんて今更思う。
……このデッサン。守谷先生の目にはどう映るだろう。
 見苦しくない程度にはまとめたつもりだけれど、「悪くないね」とかなんとか言われて美大受験を勧められるのも困る。とにかく絵を見たら解るというのだから、あとは運を天に任せるしかない。
 隣の美術室は美術部の生徒たちが使用していたので、盟子が美術準備室で描いている間、守谷は職員室に移動していた。だからこれから呼びに行かなくてはいけない。緊張するし気が重い。
「失礼、します……」
 タイピングの音が響くの放課後の職員室をのぞき込むと、パソコンに向かっていた守谷が顔を上げた。ふんわりとインスタントコーヒーの香りが満ちたその空間に、原色シャツのお兄さんは何だかやっぱり馴染まない気がする。
「おつー」
 にこっと華やかに微笑んですっと立ち上がる。 言葉遣いは若者っぽいのに、凛として頭と肩を揺らさない足運びは格調高いという言葉がふさわしい。歩くだけで思わず見とれてしまう。
 南緒の言う「かっこいい」とか「イケメン」とは違う、けれど目を離せなくさせる何かが確かにある。ただし変な人なのは間違いない。
「どうだった?」
「難しかった、です」
「思ったように描けた?」
「はぁ、それなりに」
 守谷がイーゼルの前に立つのを、その無駄のない背中を、盟子は少し離れた後ろで戦々恐々として見守った。時計の秒針がやたらと克明に聞こえ、手をぎゅっと握りしめる。指先は冷たいのに掌が汗ばむ。
「……梅崎さん、あなたさ」
 30秒程だった。
 そうして、小さくため息を吐く。そこに微かな落胆のような色を、盟子は感じた。
 「小手先、器用だよね」
 気のせいだろうか。どことなく険のある口調。背後からは表情を確かめようもないけれど。
「予備校っていうか、美大受験そのものを考え直した方がいいと思う。どうしても行きたいっていうなら別だけど、そこまでの熱意もないんじゃない?」
「えっ?」
 明らかに褒められているのではないと気付く。美大はちょっと厳しいかもねという言い回しとは、何かが違ってる。
 美術の先生にダメだと太鼓判を押されたなら、それはそれでよかったのかもしれない。でも「小手先が器用」ってどういうことなのだろう。
 その真意を測りかねて、下手でしょうか?とおそるおそる訊いてみる。
「上手とか下手とか以前の問題だよね。あとは片付けとくから帰っていいよ。絵、持って帰るならどうぞ」
 かしゃん、と。
 目の前でシャッターを下ろされたような感じだった。
 それじゃあね、と向けられた笑顔が逆によそよそしくて、とりつくしまもなくて。
 守谷は美術準備室を出ていき、一人取り残されたこの部屋の空気までが盟子を拒んでいる気がする。もはや画材に手を触れるのすら許されないような。
 悩んだ挙句、盟子は木炭だけケースに戻し、描き上げたラボルトはくるくる丸めて片隅のゴミ箱に捨てた。教室のゴミ箱に捨てるわけにはいかないし、かと言って家に持って帰れば母を刺激しそうで。そうする他なかった。
 それに、どうせゴミになるだろうものを、守谷の手を煩わせるよりはと思ったから。
 細長いゴミ箱は丸めた画用紙の幅にぴったりだった。まるでこうなるのを解っていたように。